下毛郡(読み)しもげぐん

日本歴史地名大系 「下毛郡」の解説

下毛郡
しもげぐん

面積:四三五・〇三平方キロ(境界未定)
山国やまくに町・耶馬渓やばけい町・本耶馬渓ほんやばけい町・三光さんこう

県北西部、山国川の中上流域にある。地形はいわゆる耶馬渓溶岩の台地部にあたり、山国川東岸はほぼ標高五〇〇メートルの準平原状を呈し、西の福岡県境へ向かってしだいに高くなり、英彦ひこ山の標高一一九九・六メートルを最高とする。山国川は耶馬渓溶岩を削って深い渓谷をなし、屋形やかた川・跡田あとだ川・三尾母みおも川・津民つたみ川・山移やまうつり川・金吉かなよし川などの支流を集めて北流し、周防灘へ注ぐ。集落はこの山国川本流の河岸段丘や支流の小沖積地・台地上に点在する。北は中津市、東は宇佐市・宇佐郡院内いんない町、南は玖珠くす郡玖珠町、南西は日田市、北西は福岡県田川たがわ添田そえだ町・京都みやこ犀川さいがわ町・築上ちくじよう築城ついき町・豊前市・築上郡大平たいへい村に接する。「日本書紀」景行天皇一二年九月条に「ふたりをば耳垂と曰ふ。そこなやぶり、むさぼおほきて、屡人民をかすむ。是御木みけ木、此をば開と云ふの川上にはべり」とある御木みけ川は現山国川に比定され、この川が郡名を冠する川であったと思われる。「筑後国風土記」逸文に筑紫国造磐井が「豊前の国上膳かみつみけの県」に逃れ、「南の山のさかしき嶺のくま」にその姿を隠したとみえ、また大宝二年(七〇二)の豊前国戸籍(正倉院文書)に「上三毛郡」とみえることから、膳県みけのあがた・三毛郡が、上下に分離したと考えられる。ミケとは御食とも記し、進上する膳のことであり、大和政権(あるいは筑紫君か)への進膳に奉仕した部民が当地域に設定されたのであろう。前掲豊前国戸籍でも上毛こうげ郡に膳臣や膳大伴部が確認できる。天平一二年(七四〇)藤原広嗣の乱に、官軍に参加した勇山伎美麻呂は「下毛郡擬少領無位」とみえる(「続日本紀」同年九月二五日条)。下毛は「しもつみけ」とよんだことは、永享一一年(一四三九)八月五日の諫山道実等連署田地売券写(成恒文書)などで知ることができる。養老(七一七―七二四)の年紀のある平城宮跡出土木簡には「豊前国上毛郡調綿壱伯屯」などとみえる。郡域は古代より近世まで変わらず、現中津市と現下毛郡に相当する。

〔原始〕

山国川は現三光村から中津市にかけての一帯で中津平野と称される広い沖積平野を形成し、その東部、つまり中津市東半部はかつての山国川沖積地が隆起し解析されてできた微高地が広く展開する。先史・古代の遺跡はこれらの平野と微高地を中心に展開する。旧石器時代では三光村コマノツメ遺跡、中津市ほきうえ遺跡・大池南おおいけみなみ遺跡などで石器が出土している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報