北方村(読み)きたかたむら

日本歴史地名大系 「北方村」の解説

北方村
きたかたむら

[現在地名]北方町うしとらたつうまひつじさるとりいぬ

五ヶ瀬川中流域に位置し、東は南方みなみかた(現延岡市)、北は川内名かわちみよう(現北川町)、西は山裏やまうら(現高千穂町・日之影町)七折ななおり村・分城わけじよう(現日之影町)、南は黒木くろぎ(現北郷村)。五ヶ瀬川に沿って東西に高千穂往還が通り、八峡やかい八峡川やかいがわ番所が置かれた(日向地誌)。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録に「七拾町 北方」とあり、高橋元種に与えられている。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)によれば高一千二四七石余。万治四年(一六六一)の延岡藩村高内検高覚によると内検高二千三二七石余。元禄五年(一六九二)の延岡藩領郷村高帳写(三浦家文書)によると高一千二四七石余・新田高三九石余。延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳によると高一千四二一石余・新田高一〇八石余(うち改出六九石余)。天保四年(一八三三)の延岡藩領郷村高帳(内藤家文書)によれば高一千五四八石余、うち前々改出新田高一四三石余(うち寛延元年から文政一一年まで計一七石余)。村方支配は延享年間には両名組に属し、大庄屋甲斐家が統轄していた(延陵旧記)。村内は曾木そき門など一四門に分れ、各門ごとに弁指が置かれていた(郡行政)。延宝七年(一六七九)の笠下門高拾石鬮帳(笠下地区所蔵文書)によると、「田畑地位高下無之様」に笠下かさした門の庄屋・弁指・百姓が集まって鬮で高割を決めている。

北方村
きたがたむら

[現在地名]北方町北方

現北方町の北寄りに位置し、糸貫いとぬき川東岸の標高一二メートル前後の緩傾平野に立地。根尾ねお川伏流水が湧き出す地帯で、近世初期には千代母ちよぼふち・清水・尻くさりなどの字名があった(寛文一一年「検地帳」北方町役場蔵)。古代東山道が北部を横断し、官道沿いに円鏡えんきよう寺が創建された。中世には生津なまづ庄北方郷にあたり、村名となったと考えられる。康正二年(一四五六)五月二二日の足利義政袖判御教書案(建内文書)によれば、大館教氏が北方郷の知行を安堵されている。織豊期に安藤氏と稲葉氏の間で北方合戦が行われた(美濃国諸旧記)。天正一一年(一五八三)七月日の稲葉一鉄初尾奉納目録写(稲葉家譜)によれば、北方より三貫文の初穂を伊勢神宮に進めている。同一九年五月三日石田三成判物(谷森文書)によれば「北方内」の一三六石余などの知行を北畠助大夫に安堵している。

関ヶ原の合戦後は奥平信昌(加納藩)領。近世初期には円鏡寺の門前町を形成しており、在郷町として発展した。慶長郷帳に村名がみえ、高一千六九〇石余。寛永元年(一六二四)の高帳(加納町史)では、北方町八四〇石余、北方地下八五〇石余と二分している。同一二年の内検により枝村柱本はしらもと村は高四三四石余で分離し、北方村は一千二六二石余となった(本巣郡誌)。しかし正保郷帳では、田一千一八一石余・畑五六七石余。寛文八年(一六六八)藩主弟の分家に際し、旗本戸田光直領に含まれ幕末に至った。

北方村
きたがたむら

[現在地名]珠洲市上戸町北方うえどまちきたがた

飯田いいだ町の南西にあり、内浦街道が通る。南西方に続く海浜部には塩浜の開発に伴い、北から大門口だいもんぐち日光社につこうしや仮屋かりや天満てんまかんの垣内が営まれた。中世は若山わかやまただ郷の北部に位置する上戸の北方にあたり、地名になったと考えられる。なお上戸は当地のほか寺社じしや村・南方みなみがた村を含み、永正一五年(一五一八)三月能登を旅した冷泉為広の「能州下向日記」に「ウヘド」とある。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)には上戸とみえ、本庄氏の知行地であった。天正一一年(一五八三)二月七日の水主船頭給扶持状(上浜文書)には直郷上戸とある。同年七月八日前田利家は上戸など四ヵ村の堂宇を破却し、府中ふちゆう(現七尾市)まで漕運するよう穴水あなみず南北なんぼく(現穴水町)百姓中に命じている(「前田利家印判状」川島村文書)。この年一一月二二日利家は真頼に「上戸村之内」一〇俵を扶持として与えているが(「前田利家印判状」真頼文書)、これは前年五月の棚木城合戦で利家方の長連竜に味方したことなどへの褒美である(貞享二年「加能越里正由緒記」金沢大学蔵)。真頼は当地の有力百姓で、同様の扶持状は慶安三年(一六五〇)にも出ているが、中世末の名主・地侍層であったとされる。

北方村
きたかたむら

[現在地名]迫町佐沼さぬま・北方

近世には栗原郡に属し、東は加賀野かがの(現中田町)、西は新田につた村、南は南方みなみかた(現南方町)、北は若柳わかやなぎ(現栗原郡若柳町)に囲まれ、南北一里二〇町余・東西二里二八町余。佐沼宿を中心に、北浦きたうら日向ひなた三方島さんぼうじまに肝入を置き、佐沼要害があった。迫川の氾濫原にあるためなが沼をはじめ小蓋こぶた沼・さら沼(現在の仮屋かりや付近)、(佐沼付近)姉取あねとり(北浦付近)舟越ふなこし沼・早坂はやさか(日向付近)など多くの沼があり(現在は長沼のみ)、周辺は谷地が広がり、貞享年間(一六八四―八八)以後開発の進展にともなって屋敷地が置かれ、農民が移住して発展してきた。当初の屋敷地はそうざわ観音寺かんのんじなど丘陵麓に点在するのみであった。正保郷帳に田一六六貫二二八文・畑五八貫八六六文とあり、ほかに同所新田三四貫一七〇文があり、水損・旱損と注記される。

「安永風土記」によれば、田五一三貫六六九文・畑八〇貫三四九文(うち茶畑一一七文)で、典型的な水田単作地帯であった。高のうち蔵入は三〇五貫六四文、給所は二八八貫九五四文、低地の新田開発が村高を増加させ、大部分が蔵入地に編入されたためである。

北方村
きたがたむら

[現在地名]岡山市北方一―四丁目・南方みなみがた四―五丁目・中井町なかいちよう一―二丁目・大和町やまとまち一―二丁目・学南町がくなんちよう一―三丁目・三野みの一丁目・同三丁目・法界院ほうかいいん津島東つしまひがし一―二丁目・津島中つしまなか二丁目・北方

東は旭川が南流し、対岸は中島なかしま村、南は南方村で、北は三野村・半田はんだ山に限られる。城下から北上する道は、当地で津山へ向かう津山往来と美作倉敷(現英田郡美作町)に向かう倉敷往来とに分岐した。南に中井、東に四日市よつかいちの枝村がある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一千五九一石余。「備陽記」によると本村の田畑五四町七反余、家数九八・人数五一六。枝村の中井が田畑三〇町九反余、家数三七・人数二一六。

北方村
きたかたむら

[現在地名]内之浦町北方

内之浦郷南方みなんかた村の北にあり、東は海(内之浦湾)に面し、北西端に国見くにみ山・黒尊くろそん岳がそびえる。北西から南東へ津房つぶさ川が流れ、広瀬ひろせ川となって海に入る。古くは小串こぐし村と称したとされ(三州御治世要覧)、北部に小串の字名が残る。正平一二年(一三五七)八月一三日の伴兼里寄進状写(大慈寺文書)に「肝付郡内浦下方小串村」とみえ、同村田地が兼里(肝付兼氏)から肝付兼重・秋兼追善所のため、大慈だいじ(現志布志町)塔頭龍護りゆうご庵に寄進された。応永一五年(一四〇八)一二月三日には小串村は伴兼元から再度龍護庵に寄進され、先例に任せ万雑公事は停止とされた(「伴兼元寄進状」肝付文書)

北方村
きたかたむら

[現在地名]串間市北方

南方みなみかた村の北、福島ふくしま川左岸に位置し、同川支流の初田はつだ川が流れる。近世初期の北方(郷・村)はのちの領知目録上の北方村・秋山あきやま村・大矢取おおやどり村を含み、江戸時代の北方郷もこの三村で構成された。郷庄屋(寛文七年以前の称は催司)は当村に居住し、高鍋藩人給帳によると、寛永一五年(一六三八)「福島催司」の北方の次郎兵衛に知行一〇石が与えられている。日向国覚書によると高一千九一〇石余。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領地覚(隈江家記)、正徳元年(一七一一)の高鍋藩領郷村高辻帳(石井家文書)でも同高。元禄一五年(一七〇二)秋、北方の百姓一統は田方に虫がつき、定免による年貢米納入は困難と訴えたが、庄屋がこれを藩に取次がなかったため、百四、五〇人が集会する騒動が起こった。

北方村
きたがたむら

[現在地名]川内町北方

重信しげのぶ川の右岸、扇状地上に形成された集落。村の南境を金比羅こんぴら道が通る。東は松瀬川ませかわ村、南は南方みなみがた村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)久米くめ郡の項に「北方村 林有、小川有」とみえ、村高は一千二七九石一斗九升、うち田一千一三二石二斗一升、畠一四六石九斗八升とある。

村の北西部の上海上かみかいしようから石包丁、字宝泉ほうせんからは銅矛を出土。ともに古くは東西交通の要衝であったという。重信川の上流に位置するため命名されたと思われる川上かわかみには古代の駅が設けられ、東の来見くるみ(現周桑郡)、西の久米駅と連絡、駅路の北を北方、南を南方と命名したという。

北方村
きたがたむら

[現在地名]飯田市北方

現飯田市の中央部にあり、笠松かさまつ(一二七一メートル)東麓の扇状地上に立地する。古代は「和名抄」所載の輔衆ふす郷に属したものと推定され、やがて伊賀良いがら庄の内となった。近世は飯田藩領に属し、村高は正保四年(一六四七)は四九七石余(信濃国絵図高辻)、天保五年(一八三四)には八〇四石余(信濃国郷帳)に急増した。

「北方」の文献上の初見は、天正六年(一五七八)の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社蔵)で、「北方郷」は前宮一之御柱造宮銭として二貫文の所役を課されている。翌年の記事に、「北洞之郷北方」三貫文とあるのも当村にあたるものと考えられる。

北方村
ぼつけむら

[現在地名]市川市北方きたかた一―三丁目・本北方もときたかた一―三丁目・北方町ぼつけまち

中山なかやま村・若宮わかみや村の北にあり、木下きおろし道の西方台地上に集落が形成される。中世には八幡やわた庄のうち。正和三年(一三一四)四月二六日の日高置文(中山法華経寺文書)に「北方堂中山本尊」とみえ、卿公に申付けられている。康永四年(一三四五)法華経寺三世日祐の記した「本尊聖教録」に信徒として北方又五郎の名がみえる。応永四年(一三九七)一二月二三日の足利氏満挙状(中山法華経寺文書)では「北方村」内の田畠在家などが法華経寺日に安堵されるよう幕府に取次がれている。

北方村
きたかたむら

[現在地名]宮崎市本郷北方ほんごうきたかた月見つきみおか二―四丁目・同六―七丁目・本郷ほんごう一丁目・希望きぼうおか三―四丁目

田吉たよし村の西に位置し、那珂郡に属する。西は宮崎郡加納かのう(現清武町)鵜戸うど街道が通る。北方村・南方みなみかた村・郡司分ぐじぶん村付近は古くは本郷と称された。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)に田吉一ノ宮大宮司分として本郷北方のうち御供田五段などとみえる。天正一六年(一五八八)八月五日の日向国知行方目録には北方一〇〇町とあり、伊東祐兵に宛行われている。慶長五年(一六〇〇)一〇月、高橋元種の家臣権藤種盛の拠る宮崎城を攻め取った伊東勢は、関ヶ原の合戦から帰国途中の島津勢と合戦となった。

北方村
きたがたむら

[現在地名]揖斐川町北方

房島ぼうじま村の北、揖斐川左岸に立地し、川沿いに上ると枝郷の鎌曾かまそ集落があり、その北に間戸まど山がそびえる。北方石灰で知られる。中世は揖斐庄のうちとして推移、観応二年(一三五一)三月日の揖斐庄百姓等申状案(興福寺別当次第裏書)に「揖斐庄北方・南方・三和三ケ保百姓等」とある。豊臣秀吉の蔵入地(代官石田三成)を示す天正一九年(一五九一)四月二七日の近江国・美濃国御蔵入目録(林祝太郎氏所蔵文書)に大野郡北方村一千五七五石余とみえる。慶長郷帳に村名がみえ、高一千五七五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。正保郷帳では旗本(美濃代官)岡田善政領で、田一千二二一石余・畑三五三石余・山年貢一二石。

北方村
きたがたむら

[現在地名]大垣市北方町・三津屋町みつやちよう

揖斐いび川右岸の平坦地、大垣輪中の北部に位置し、南は領家りようけ村。村の南端を中山道が通り、「新撰美濃志」には「曾根の南にありて中川庄なり。東山道の町屋にて三ツ屋北方ともいふ」とある。慶長郷帳、元和二年(一六一六)の村高領知改帳に、高一千石は「安八郡北方村之内」とあり、本多忠刻室千姫領。寛永元年(一六二四)大垣藩領となる。正保郷帳では幕府領、田高九三七石余・畑高一六二石余。万治三年(一六六〇)当村のうち三〇〇石が旗本名取領となり(寛政重修諸家譜)、幕府領八〇〇石との二給。

北方村
きたかたむら

[現在地名]平田村北方

阿武隈高地の山間部、北須きたす川の水源地域に位置し、南東端にしば(八一九・二メートル)がある。中世以降磐前いわさき郡に所属し、北は石川郡東山ひがしやま村、西は同郡駒形こまがた村など、南は白川郡山上やまかみ(現古殿町)、東は磐前郡上三坂かみみさか(現いわき市)。中世城館が一ヵ所あった。天正一八年(一五九〇)以降岩城氏領、慶長五年(一六〇〇)からの安藤対馬守預を経て、同七年磐城平藩領となる。寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預地となったが、寛政二年(一七九〇)笠間藩領に復して幕末に至る。

北方村
きたがたむら

[現在地名]新穂村北方

新穂町にいぼまち村の北西に隣接する。集落は新穂川左岸沿いにあり、耕地も集落に近接する。近江国坂本さかもとの日吉神社領新穂庄において、下地中分の結果生じた地とされる(新穂村史)。元禄七年(一六九四)の検地帳(北方区有)では田九七町八反余・畑八反余の水稲単作地帯で、名請人は一八五人。地名は一六一筆で城の内・外城・ほり添・ほりなどの地字がみえる。「佐州巡村記」では戸口は一一三軒・四一九人。御林は字樋ヶ尾・金鉢尻・蛭河内・猿橋平の四ヵ所。

北方村
きたかたむら

[現在地名]中区北方きたがた町一―二丁目・上野うえの町一―四丁目・小港こみなと町一―三丁目・諏訪すわ町・千代崎ちよざき町一―四丁目・西之谷にしのや町・妙香寺台みようこうじだい山手やまて

東から北西にかけて海に面し、西は根岸ねぎし村、南は本牧本郷ほんもくほんごう村、北は横浜村に接する。中世以来の本牧本郷の北にあたるための村名と思われる。

近世には幕府直轄領。文禄四年(一五九五)原田佐左衛門により検地。田園簿に村名がみえ、日損場と記され、田方二二三石二斗余、畑方一〇六石二斗余、ほかに新田見取場一石八斗余、新畑見取場四石余がある。

北方村
きたがたむら

[現在地名]神戸町西にし

杭瀬くいせ川左岸に位置し、南は南方みなみがた村。平野ひらの西保にしのほ村とも称したという(新撰美濃志)。現大字西ノ保は「にしのほう」ともいう。永禄九年(一五六六)一二月八日の山門上使油請取状(不破幹雄氏所蔵文書)に「西保壱斗者 妙泉分」とみえ、性顕しようけん寺に対する延暦寺からの同請取状に記された五条ごじよう(慶長郷帳に「五条村」とみえ村高五二石余、現大字神戸のうちか)末守すえもりの地名により当地は同寺領平野庄内と推定され、現大字西ノ保はその遺称地と考えられる。

北方村
きたがたむら

[現在地名]小倉南区北方一―五丁目・若園わかぞの五丁目・南若園町みなみわかぞのまちはるおか葉山町はやまちよう一―三丁目・日の出町ひのでまち一―二丁目・守恒もりつね一丁目・同三丁目・下城野しもじようの一―三丁目

守恒村の北、むらさき川の中流右岸に位置する。秋月街道が通る。地名は紫川中流の南の方(上流)南県みなみあがた、北の方(下流)を北県としたことに由来するという(企救郡誌)。元和八年人畜改帳に下ノ北方村とみえ、御蔵納分の高一千一八石余、給人四人分の高四五五石の二筆で、家数一五七、人数四四一(うち百姓二一・名子七三・坊主六)、牛五九・馬四五。

北方村
きたがたむら

[現在地名]東郷町北福きたふく

南西流して東郷池に注ぐ舎人とねり川上流部北側に位置する。西は福永ふくなが村、同川を挟み南は漆原うるしばら村。拝領高二一四石余。高坂氏・永井氏の給地があった(給人所付帳)。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高二三三石余、高二三九石余、うち畑高一三石余。免四ツ二分。悪田加損米五石。藪役銀二五匁二分。

北方村
きたがたむら

[現在地名]五箇村北方

南方村の北に位置し、南を流れる重栖おもす川の河口に重栖浦、その南に枝郷の長尾田なごおだがある。慶長一二年(一六〇七)の検地絵図(隠岐郷土館蔵)に請田二一六ヵ所の記載があり、反別・名請人などが記されている。なおこの絵図から古代の条里遺構の存在がうかがえる。ただし後筆があり、同一七年の田畑七九ヵ所、寛永一五年(一六三八)以前の新開一三ヵ所などと記される。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一七三石余・一六町余、畑二七石余・九町九反余、ほかに新田畑四石余。

北方村
きたがたむら

[現在地名]山東町北方

菅江すえ村の南東、よこ山東麓平地に立地。南に枝郷の年吉よしお東中野ひがしなかのがある。応仁二年(一四六八)正月九日の日尽郷旧社古跡留書(寺村文書)に「坂田郡日尽郷」とみえる日尽ひつくし郷は当地付近に比定される。「坂田郡志」には、北方村をもとは日暮ひつくし村と称したが、瓢箪ひようたん山の北に位置したので北方村と改称したとある。貞和四年(一三四八)四月七日の源清去状(大原観音寺文書)に「大鹿北方」とみえ、地内の田が観音寺に寄進されているが、当地とのかかわりは不詳。天正三年(一五七五)一一月一七日の織田信長朱印状(田辺文書)に「黒田北方」とみえ、地内四〇〇石が田辺与左衛門尉に与えられているが、これを当地に比定する説がある。

北方村
きたかたむら

[現在地名]栗野町北方

西流する川内せんだい川を挟んで木場こば村・米永よねなが村の北に位置する。中世には栗野院北里のうちで、栗野北里城(観応三年七月二〇日「畠山直顕書下」旧記雑録)は地内にあったと考えられる。古くは北名村といった(三州御治世要覧)加久藤かくとう筋が通る。慶長六年(一六〇一)五月九日、栗野のうち「北方村辻之門」一一〇石余、「同所 坂本屋敷」四六石余、「同所 紙漉之門」四三石余の計二〇〇石余が日向白鳥しらとり権現社(現宮崎県えびの市白鳥神社)の社殿建立の間、同社別当の白鳥山満足まんぞく(現同上)座主に付置かれている(「知行目録」旧記雑録)

北方村
きたがたむら

[現在地名]西伯町北方

柏尾かしお村の南西、法勝寺ほつしようじ川支流北方川下流左岸、母塚ははつか山系の南麓に位置する。耕地は同川沿いに広く展開する。幕末頃の惣絵図(西伯町誌)によれば、山沿いに多くの溜池が造られている。拝領高は四三八石余、本免は四ツ八分。藪役銀一〇匁二分が課され(藩史)、米子組士野村氏・米子荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高五四四石余、竈数三一。「伯耆志」では家数三八・人数一三〇、林二四町余。明治三年(一八七〇)の御用方諸事手控(細田家文書)によると耕地面積四四町九反余・山林面積二四町余。貞享元年(一六八四)に八郎兵衛、宝暦四年(一七五四)に陶山弥豊次が大庄屋を勤めている(西伯町誌)

北方村
きたかたむら

[現在地名]龍ケ崎市北方町

利根川左岸の下総台地末端にあり、西は羽黒はぐろ村、北は長沖ながおき村。台地上に縄文中期・後期の北方遺跡、集落東側に弟橘姫の伝説を伝える団子塚だんごづか古墳(円墳)がある。

「利根川図志」に、永禄三年(一五六〇)の豊島頼継のこととして「今押付おしつけ上江かみえ下江しもえ上曾根かみそね下曾根しもぞね早尾はやを大平だいへい北方きたかた羽黒はぐろ横須賀よこすか等の村々有り。その頃はすべて府川領にして、紀伊守が領地なり」とあり、戦国末期には布川ふかわ(現北相馬郡利根町)城主豊島氏の支配を受けたが、同氏は小田原北条氏の滅亡に伴って衰退する。

北方村
きたかたむら

[現在地名]薩摩町中津川なかつがわ

南方村の北にあり、南東から西へ流れるあな川支流北方川流域を中心に東西に長く広がる。大村おおむら郷に属した。西は佐志さし広瀬ひろせ(現宮之城町)、北は宮之城みやのじよう求名ぐみよう村と曾木そぎ長野ながの村。近世初期には中津川村と称して一村で、一七世紀半ばから、一八世紀初頭頃北方村と南方村に分村した(三州御治世要覧)。「三州御治世要覧」には北方村とあり、延享(一七四四―四八)頃の高一千四二石余。

北方村
きたかたむら

[現在地名]藤枝市北方

中之郷なかのごう村の北に位置し、西は葉梨はなし川を境に西方にしがた村。志太しだ郡に属する。寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳に村名がみえ、高三五八石余、田中藩領。同一九年に上知された(同年田中領郷村高帳・「寛文朱印留」など)。元禄一一年(一六九八)旗本石川領となり(「寛政重修諸家譜」・国立史料館本元禄郷帳など)、幕末に至る。元禄郷帳では高三六五石余。文久元年(一八六一)の村絵図(藤枝市郷土博物館蔵)では田方三二六石余、反別は上田一三町三反余・中田五町余・下田八町一反余、畑方三九石余、反別は上畑一町一反余・中畑一町五反余・下畑九反余・屋敷五反余。

北方村
きたがたむら

[現在地名]岡山市上道北方じようどうきたがた

現市域の北東部、新道しんどう山の南東麓に位置し、北は菊山きくやま(現赤磐郡瀬戸町)、西はくろがね村、南は南方村と接する。山陽道が通る。地名は居都こづ庄の下地中分によると伝える。文禄四年(一五九五)の六社大明神神領書上(黄薇古簡集)に北方の内として屋敷・田畠計九筆が記される。寛永備前国絵図では高七七二石余。「備前記」によると山寄りの集落で、「備陽記」では田畠五一町八反余、家数八三・人数四四六、池九。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一千二四〇石余、蔵入と家老池田和泉および家臣二人の給地。

北方村
きたがたむら

[現在地名]北方町大字大崎おおさき

現北方町の西端に位置し、馬神まがみ峠を境に現多久たく市に接する。慶長絵図に「北方」とある。

村内に弥生時代と古墳時代の遺跡が多い。

この地域は平安時代は杵島北郷で、後期に蓮華王れんげおう院領として長島ながしま庄が成立した。鎌倉時代には長島庄惣地頭橘薩摩氏の所領となり、一族の橘佐渡四郎公高に譲られた。建武年間(一三三四―三八)の文書と推定される橘薩摩一族所領支配注文(小鹿島文書)に「大崎村 橘佐渡四郎公高 上中課本上下覆勘之時上中課定 弥八跡夜叉童丸 上下課」とあり、「大崎村」は北方村と地域的に重なるものと思われる。

北方村
きたかたむら

[現在地名]桂村北方

那珂川右岸の沖積低地と西方の山地帯の間に広がる洪積台地上に位置する。東はあわ村・上圷かみあくつ村。西北部を桂川が流れる。

康安二年(一三六二)の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「松王丸分 藤井氏、一、那珂西藤井郷北方内平沢蔵人給分臼井五郎入道跡」とみえ、慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状写(佐野家蔵文書)に「常陸国茨城郡之内北方村之内百石」とみえる。「水府志料」によると村の東西二四町・南北一三町余、戸数はおよそ一二三、「人家処々に散在す。

北方村
きたがたむら

[現在地名]美浜町北方

知多湾に面し、時志ときし村の南に続く。天保の村絵図によると、集落は南東の海辺にあり、東浦ひがしうら街道が(現新江川)を経て河和こうわ村に通じ、ここに長さ一一間幅六尺五寸の板橋があった。「徇行記」によると西の山中から流れる江川は河和村との立会いであった。北の丘陵は御林でこれから北方川が北部を流れる。

「寛文覚書」によれば、概高四四三石余、田地三八町四反九畝余・畑地二町四反九畝余、戸数四一、人口二九五。

北方村
きたがたむら

[現在地名]西淡町松帆北方まつほきたがた

櫟田いちだ村の南、三原川と倭文しとおり川に挟まれた低地帯に立地する。「重修常磐草」によると村名は「北潟」の転訛で、もと塩竈があったとされる。正保国絵図に北方村とみえ、高五五二石余。天保郷帳では高五九四石余。反別戸数取調書では反別四九町七反余、高九九五石余、うち蔵入高四一三石余、高四一三石余は伏屋源兵衛ら一七名の給知。

北方村
きたかたむら

[現在地名]玉野市北方

番田ばんだ村の西に位置する。元和三年(一六一七)児島郡物成帳では田畠高二一五石余。寛永備前国絵図では高三八〇石余。享保六年(一七二一)の田畠二七町四反余(うち塩浜三反余)、家数九八・人数五九五、船九(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高三八〇石余、直高四〇四石余で一石余が蔵入、残りは家老池田伊賀の給地、田一三町三反余・畑一三町九反余・塩浜一反四畝余、ほかに開方として畑四町二反余など、池八・樋一七・井戸八、家数一四七・人数八〇二、牛四五、船三、鍛冶屋・畳屋各一。

北方村
きたがたむら

[現在地名]金沢市北方町

納年村のうねんむらの東、権殿ごんでん山南西麓、森下もりもと川右岸に位置。正保郷帳では小嶺こみね村と並記され、高一五七石余、田方四町二反余・畑方六町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一一〇石、免六ツ、小物成は山役一六五匁・漆役二匁・蝋役二匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数四・百姓数四(高免付給人帳)

北方村
きたがたむら

[現在地名]上越市北方

森田もりた村の南、飯田いいだ川が山岳部から高田平野に流れ出る辺りに位置する。当村で飯田川を堰上げじゆう川を分流する。重川は村の北を東から西に流れる。また上江かみえ用水が村の西を北流する。ひるこ街道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「狩野中務分山浦分北方村 下」とみえ、本納一〇六石九斗三升・縄高一八七石九斗二合、家四軒、一六人。

北方村
きたがたむら

[現在地名]挟間町北方

大分川の左岸に位置し、下市しもいち村の北西にある。中分された松富まつとみ名北方の遺称地。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高三九四石余、北方村組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば、田高二三六石余・畑高一五八石余。

北方村
きたがたむら

[現在地名]一宮市北方町北方

木曾川左岸にあり、村内を岐阜街道が通り、初期の渡船場が当村にあった。東は更屋敷さらやしき村に接する。「寛文覚書」によれば、家数二三四、人数一千二三九で、社寺は三ヵ所ずつあった。また木曾川沿いにあるために、船・桴改番所があり、船は二六艘所持し、将軍上洛や朝鮮使節の通行には、美濃路おこし宿(現尾西市)へ小越船を出した。「地方古義」によれば、木曾川渡船の船頭役は慶長一四年(一六〇九)一二月に没収されて、里小牧さとこまき(現葉栗郡木曾川町)へ渡され、それ以後船頭給として毎年一八石二斗を支払っていた。

北方村
きたがたむら

[現在地名]松本市島内 北方

天正検地以前は犬飼いぬかい村一千五〇〇石余の中に入っていたが、寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳に「北方村四百八拾七石七斗九升七合」と高付けされる。「信府統記」に「御朱印高三百八拾一石九斗一升」とあり、享保九年(一七二四)当時の石高は四〇八石八升九合六勺である。

北方村
きたかたむら

[現在地名]龍野市龍野町堂本たつのちようどうもと

下堂本村内に点在し、揖東いつとう郡に属する。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)には下堂本村出屋敷とあり、池田輝政による内検地高一三三石余、高一一〇石余。正保郷帳に村名がみえ、田方一〇七石余・畑方三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報