五箇村(読み)ごかむら

日本歴史地名大系 「五箇村」の解説

五箇村
ごかむら

面積:五二・三九平方キロ

島後どうごの北西部に位置する。西方は海に面し、東は大峯おおみね(五〇七・六メートル)時張ときばり(五二一・六メートル)などを境に西郷さいごう町と接し、南の都万つま村境には横尾よこお(五七二・八メートル)がそびえる。村域にはほかに空峰そらみね(三二二・三メートル)だけ(三六一・一メートル)高尾たかお(三七二メートル)などがあり、これらの大部分の山嶺の水を集めた重栖おもす川は重栖港に向かって西流する。流域にやや広い平野部が形成され、国道四八五号、主要地方道西郷都万―五箇線が通る。

五箇村
ごかむら

[現在地名]峰山町字五箇

竹野川の支流鱒留ますどめ川に並行して走る久美浜街道の両側に発達した街村。

当地は古くから開けたとみえ、村域内に舟岡ふなおか古墳(円墳)大門だいもん古墳があり、舟岡下山の丘陵端には六基の横穴がある。またふえだにの地には、笛連王の館跡と伝える地と海部あまべの名が残る地がある。小字大門には、平安時代後期の寺院跡があり、扇状地・水田から礎石多数が発見された。寺跡範囲は、南北二〇〇メートル、東西二〇〇メートルと推定される。

寛喜元年(一二二九)七月一九日付将軍藤原頼経袖判下文(常陸真壁文書)に「丹後国五箇保」とあるのが早い。

五箇村
ごかむら

[現在地名]大和町五箇

浦佐うらさ村の北、西は魚野地うおのじ(現北魚沼郡堀之内町)、北は青島あおしま(現同郡小出町)、東は魚野うおの川対岸のおか新田(現小出町)。枝村に岩山いわやま境川さかいがわ、支集落にはら町屋まちやがある。北端の栃原とちはら峠越の道は、三国街道の堀之内ほりのうち(現堀之内町)と浦佐村とを結ぶ近道。正保国絵図に五ヶ村高六三石余、岩山村高五一石余、境川村高八二石余がみえる。

五箇村
ごかむら

[現在地名]総領町五箇

甲奴郡の最北に位置し、南北に細長い村であるが、東に上領家かみりようけ村を、西に中領家村を抱え込むようにしてS字形に延びる。南は黒目くろめ亀谷かめだにの両村。中世には田総たぶさ庄に含まれ、下地中分の折には領家方に属したという。天文一六年(一五四七)五月三日付の小早川隆景の感状(「閥閲録」所収礒兼求馬家文書)に「今度備後五ケ竜王山切崩節、頸一被討捕」と地名がみえる。尼子氏陶晴賢との戦に出陣した小早川隆景が、村内上野うえのにそびえる竜王りゆうおう(五四〇メートル)で戦った折、末長又三郎に宛てて出した感状である。

五箇村
ごかむら

[現在地名]千代川村五箇

下妻街道に沿った集落。東北は皆葉みなば村。下妻城主多賀谷氏追放に際し、小竹彦右衛門が土着(落民士帳)し、「各村旧高簿」によれば幕末には天領で、村高一七一・五石。幕末に越後より入植者を迎え、開田に努めたといわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報