知多郡(読み)ちたぐん

日本歴史地名大系 「知多郡」の解説

知多郡
ちたぐん

面積:一六五・〇六平方キロ
阿久比あぐい町・東浦ひがしうら町・南知多みなみちた町・美浜みはま町・武豊たけとよ

県の南西部、尾張南部の丘陵から南に続く標高七〇―八〇メートルの丘陵と、伊勢湾に面する西浦にしうら三河湾に面する東浦の段丘からなる知多半島は、南北四〇キロ、幅五―一四キロと細長く、その先端のしの島・日間賀ひまか(南知多町)を含めて旧知多郡であった。このうち、名古屋市に含まれた大高おおだか村などや豊明市に編入された大脇おおわき村などが旧愛知郡に接している。半島内の大府市・東海市・知多市・常滑とこなめ市・半田市をのぞく五町が現在の知多郡である。

「古事記」に、天押帯日子命を祖とする一六氏のうちに「知多臣ちたのおみ」があり、同じ記述をする「日本書紀」の孝昭紀には「天足彦国押人命は此れ和珥臣わにのおみ等の始祖なり」とある。和珥部の地方的管掌者の一人が知多臣であったと考えられている。平城宮跡から発掘された木簡にも「尾張国智多郡贄代郷朝倉里戸主和尓部色(夫カ)智」(裏面「調塩三斗天平元年」)、「□具郷野間里和尓部臣牟良御調塩」(裏面「□平元年十月十九日□長和尓部安倍」)とあり、知多郡に和爾部を称する農漁民がいたことを示す。

奈良以前のものとして藤原宮跡から発掘された木簡の一片に「三川国波豆評□嶋里□一斗五升」とみえ、奈良時代の平城宮跡からも「参河国播豆郡篠嶋海部供奉五月料御贄佐米楚割六斤」など、三河国幡豆はず篠嶋しのじまとする木簡が発見されている。現在でも知多半島南端を羽豆はず(南知多町)と称していることから、篠嶋・日間賀島、それに佐久さく(幡豆郡一色町)は三河幡豆郡に含まれ、半島の先端部分にも及んでいたとも考えられる。

〔原始〕

旧石器時代のものは東浦町緒川おがわ新田の山之神やまのかみで、尖頭器らしい石器が採集されているのみである。縄文早期の押型文土器出土の先苅まずかり貝塚(南知多町)、同末葉になると、東浦町の入海いりみ貝塚、南知多町向畑むかいばた新津しんづ天神山てんじんやま塩屋しおやなど、いずれも丘陵の中腹に多く発見される。縄文前期の清水の上しみずのうえ貝塚(南知多町)、中期の山田平やまだひら遺跡・咲畑さきばた貝塚(南知多町)など縄文遺跡は旧知多郡内で二九ヵ所にのぼる。

弥生時代になると、上親田かみしんでん遺跡(阿久比町)など弥生遺跡は四七ヵ所知られている。

古墳時代では、阿久比川中流域の二子塚ふたごづか古墳(阿久比町宮津)は半島唯一の前方後円墳である。このほか半島先端近くの豊浜とよはま古墳群(南知多町)がある。また篠島には妙見斉みようけんさい古墳など数基があり、日間賀島には三五基に及ぶ古墳が確認される。

〔古代〕

すでに日間賀第六号墳で製塩土器が発見されているが、前記の木簡にみられた「調塩」を立証する製塩遺跡は半島南端の南知多町を中心に三一ヵ所知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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