肝属郡(読み)きもつきぐん

日本歴史地名大系 「肝属郡」の解説

肝属郡
きもつきぐん

面積:八三七・五三平方キロ
串良くしら町・東串良ひがしくしら町・高山こうやま町・吾平あいら町・内之浦うちのうら町・大根占おおねじめ町・根占ねじめ町・田代たしろ町・佐多さた

大隅半島南端部を占める。現郡域は東は太平洋、南は大隅海峡、西は鹿児島(錦江)湾に面し、北は曾於そお大崎おおさき町・鹿屋かのや市と接する。東部から南部にかけて北東から南西へ海岸線に沿って肝属山地が走り、郡域の東・南・西にかけての範囲は概して山地が占め、海岸線に沿う一部には平地がみられる。北部は肝属平野となり、東流する肝属川と北・南から同川に注ぐ姶良あいら川・高山川・串良川などの支流が流れる。近世の郡域は現在の郡域の南西部・西部を含まず、現鹿屋市垂水たるみず市の一部、曾於郡輝北きほく町の南部を含み、北東は日向国諸県もろかた郡、北西は大隅国囎唹そお郡・大隅郡、南西・西は大隅郡に接していた。郡名は肝坏・肝衝・肝付とも記された。

〔古代〕

「続日本紀」文武天皇四年(七〇〇)六月三日条によると、南九州の諸豪族が肥人らを従えて朝廷派遣の南島覓国使刑部真木らをおびやかしており、諸豪族のなかに薩末比売・衣君県らと並んで肝衝難波の名がみえる。難波の行動からみると、大和政権の南島政策に反対し使節の威嚇に及んだのは、利害の対立があったためと推測できよう。和銅六年(七一三)四月三日、「日向国肝坏」以下四郡を割いて大隅国が設置された(同書)。大隅建国当初からの郡で、それ以前は日向国に属していた。「和名抄」東急本国郡部には「支毛豆支」の訓を付す。同書によれば桑原くわはら鷹屋たかや川上かわかみ鴈麻かりまの四郷で構成され、現在の高山・内之浦・田代・佐多の四町域がほぼ古代の郡域に該当するとみられる。ただし高山町域の肝属川流域は大隅郡域に入っていた可能性があり、また姶羅あいら郡との接点でもあることから、除いて考えるのがよいと思われる。天喜二年(一〇五四)二月二七日の大宰府符写(調所氏家譜)は参議大宰大弐源資通が天変の多きを嘆き、管内の諸神に神爵一級を崇加した時のものという。その残存部分によると、肝属郡の四九神がその対象になっており、神名の大半がわかる。そのなかには伊勢・賀茂・和太津見など地域外から勧請されたらしい神名がある一方で、鷹屋・御埼・郡・河上など地域と密着した神名もあり、当郡域における信仰の一端がうかがえる。

新編伴姓肝属氏系譜や肝付統譜(喜入肝付家文書)、伴姓肝付氏略系図(群書類従)によれば、伴(薩摩)(大宰)大監兼行がはじめ鹿児島郡神食に居住したとある。この神食居住については、「三国名勝図会」には下伊敷しもいしき(現鹿児島市)にある伴氏館所を記し、安和二年(九六九)伴兼行が居住した地としている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報