温泉郡(読み)おんせんぐん

日本歴史地名大系 「温泉郡」の解説

温泉郡
おんせんぐん

面積:二五〇・一一平方キロ
重信しげのぶ町・川内かわうち町・中島なかじま

重信川が山間地から松山平野に流入する辺りまでに位置する川内町・重信町と、松山市の北西海上に浮ぶ忽那くつな諸島(中島町)とで構成される。

現在の郡名は古代から明治三〇年(一八九七)まで続いた温泉郡を継承するが、郡域はもとの温泉郡とは異なっている。旧郡域は現在すべて松山市域内。

重信川は重信町の東北、東三方ひがしさんぽうもり(一二三二・七メートル)から流れる本流に上浮穴かみうけな郡の石墨いしずみ(一四五六メートル)の麓、川内町南部から流れ出す支流が合流して、松山平野を東西に貫流する流路四〇キロに及ぶ川である。忽那諸島は歴史時代を通じ忽那七島(東から野忽那のぐつな島・睦月むづき島・なか島・二神ふたがみ島・怒和ぬわ島・津和地つわじ島と現山口県岩国いわくに市に属するはしら島)とよばれ、瀬戸内海の要衝であった。

〔原始〕

忽那島(現中島)の東北部の粟井あわいのクリヤ峠からは縄文早期と推定される押型文のうち山形のある土器片が出土しており、また弥生土器が二神島南方の由利ゆり島の小舟避難所の辺りで発見されている。古墳期に入ると忽那島の中山古墳から朱詰めの人骨と勾玉・管玉など二〇、鉾一振が出土している。この地に縄文期からひき続いて人類の居住していたことが知られる。

〔古代〕

忽那島の初見は天平一九年(七四七)法隆寺伽藍縁起流記資財帳で、法隆寺の荘園が伊予国に一四ヵ所ある中に、忽那島に一ヵ所あったことが記される。忽那島を「骨奈嶋」と記しており、地域比定は他に文献がないので不可能である。忽那島は風早かざはや郡の所管であるが別に「風速郡二処」とあるので、島方は別に扱われたのであろう。

平安時代に入ると忽那島は牧場として現れる。

温泉郡
おんせんぐん

和名抄」所載の古代伊予国一四郡の一。流布本に「温泉」と記し、「湯」と訓じている。郡内の郷として、高山寺本に「原 井上 味酒」と記し、流布本に「桑原 埴生 立花 井上 味酒」と記す。伊予国のほぼ中央部、高縄たかなわ半島の西南部に位置し、最も早く開けた地域。東は越智おち郡・久米くめ郡、西は和気わけ郡と伊予灘、南は久米・伊予の二郡、北は風早かざはや郡に接する。郡の東北部は高縄山塊の南部を占め山地を形成する。そのほかは松山平野の中枢部にあたり、高縄山塊から発する石手いして川が南部を流れる。境域は江戸時代の温泉郡域とほぼ一致するが、近代の温泉郡からみると遥かに狭く、わずかにその一部を形成するにすぎない。

「伊予国風土記」逸文のなかに「湯郡」とあるのが初見である。これよりさきに聖徳太子(「伊予国風土記」逸文)、舒明・斉明の二帝(「日本書紀」、「伊予国風土記」逸文)、また万葉歌人山部赤人・額田王らが道後温泉に来浴した。天平一九年(七四七)二月勘録の法隆寺伽藍縁起流記資財帳のなかに、伊予国にあった法隆寺の荘園一四所のうちとして、「温泉郡三処」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報