(読み)アク

デジタル大辞泉 「悪」の意味・読み・例文・類語

あく【悪】

[名]
わるいこと。人道・法律などに反すること。不道徳・反道徳的なこと。「に染まる」「の道に走る」「張本ちょうほん」⇔
芝居などで、敵役。「じつ」「色
[接頭]人名・官名などに付いて、性質・能力・行動などが、あまりにすぐれているのを恐れていう意を表す。「七兵衛景清」
[類語](1とが過ち罪悪罪科罪過犯罪罪障罪業悪徳背徳不徳不仁不義不倫破倫悪行あくぎょう悪事違犯悪い悪辣奸悪邪悪奸佞陰険性悪悪性俗悪凶悪極悪悪逆巨悪諸悪暴悪卑劣陋劣ろうれつ狡猾こうかつよこしまさがない腹黒い腹汚い悪賢いずる賢い小賢しいずるいこすいこすっからいあくどいさかしいさかしら老獪/(2凶漢凶賊奸賊海賊山賊賊徒賊子逆賊謀反人悪人悪者悪漢悪党悪玉悪女毒婦食わせ物詐欺師山師ペテン師いかさま師わる凶徒凶手人非人人でなし奸物曲者暴漢暴れ者暴れん坊暴徒荒くれ者ごろつきならず者地回りやくざ暴力団無頼漢無法者与太者ごろちんぴらあぶれ者

わる【悪】

《形容詞「わるし」の語幹から》
悪いこと。また、いたずら。わるさ。「をする」「しょう
悪人。悪党。また、悪いことをする子供。「学校一の
他の語の上に付いて複合語をつくり、悪い、不快である、害になる、度が過ぎるなどの意を表す。「知恵」「酔い」「乗り」「ふざけ」
[類語]凶漢凶賊奸賊海賊山賊賊徒賊子逆賊謀反人悪人悪者悪漢悪党悪玉悪女毒婦食わせ物詐欺師山師ペテン師いかさま師あく凶徒凶手人非人人でなし奸物曲者暴漢暴れ者暴れん坊暴徒荒くれ者ごろつきならず者地回りやくざ暴力団無頼漢無法者与太者ごろちんぴらあぶれ者

あく【悪〔惡〕】[漢字項目]

[音]アク(呉)(漢) (ヲ)(漢) [訓]わるい あし にくむ
学習漢字]3年
〈アク〉
正しくない。わるいこと。「悪意悪質改悪害悪旧悪凶悪極悪最悪罪悪邪悪醜悪
不快な。いやな。「悪臭悪感情
よい状態にない。上等でない。「悪衣悪食悪筆粗悪劣悪
〈オ〉
不快に思う。にくむ。「嫌悪好悪憎悪
気分がむかむかする。「悪寒悪阻おそ
〈わる〉「悪気わるぎ悪口性悪しょうわる
[難読]悪戯いたずら悪阻つわり

お【悪】[漢字項目]

あく

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精選版 日本国語大辞典 「悪」の意味・読み・例文・類語

わる・い【悪】

〘形口〙 わる・し 〘形ク〙 本来「いい(よい)」「よろしい」などに対して、適切でない、劣っているなどの消極的意味をもつ。上代には「あし」があるが、「わるし」は「わろし」とともに平安時代に入って例を見るようになり、さらに口語としては「わるい」が一般化した。
① あるべき状態でない。
(イ) 不適切である。不都合である。また、好ましくない。感心しない。いけない。「口がわるい」
※枕(10C終)二四「宮仕する人を、あはあはしうわるきことにいひおもひたる男などこそ、いとにくけれ」
※羽なければ(1975)〈小田実〉二八「だんだん寒うなって来て、老人にはわるい季節ですわ」
(ロ) 道徳上よくない。社会的な通念、道に反する。また、性質がよくない。
※寛永七年刊本大学抄(16C前)「桀紂がわるい事をする程に天下の民も暴虐をする也」
(ハ) めでたくない。運にめぐまれない。不吉である。「日がわるい」「わるい知らせ」
※枕(10C終)九〇「宮の五節いださせ給ふに〈略〉女御・御息所の御方の人いだすをば、わるきことにすると聞くを」
② 価値や品質、機能、成績などの程度が低い。
(イ) 上等でない。十分そなわっていない。「頭がわるい」「質がわるい」「安かろうわるかろう」
※京大本臨済録抄「木塔禅は老婆のこせついたやうな禅でわるいぞ」
(ロ) 地位や身分、生活程度が低い。
※古今(905‐914)雑下・九九四・左注「この女おやもなくなりて、家もわるくなり行くあひだに」
(ハ) 容貌などが美しくない。みにくい。みっともない
※虎明本狂言・眉目吉(室町末‐近世初)「いのちをうしなふとも、みめわるふなる事は、めいわくでござる」
③ 気持がよくない。快くない。不愉快である。
※蜻蛉(974頃)下「わるく聞えさする、御気色もかかり」
④ 期待される状態でない。のぞましくない。
(イ) 食べ物がいたんでいる状態である。「冷蔵庫に入れ忘れたこのサラダはわるくなってしまった」
(ロ) 病気や故障が望ましくない状態・程度である。
当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉一一「自分で身体を不健(ワルク)するよ」
(ハ) 活気がない。劣勢である。
※伊豆の踊子(1926)〈川端康成〉三「『これぢゃ仕方がありません。投げですよ』『そんなことがあるもんですか。私の方が悪いでせう〈略〉』」
(ニ) 取引市場で用いる語。相場が下がって活気がない。〔取引所用語字彙(1917)〕
⑤ 間柄がうまくいっていない。むつまじくない。「二国間の関係が悪くなる」「仲が悪い」
⑥ 好ましくない結果をまねく。ためにならない。
(イ) 不都合を起こした原因である。「夕べの飲み過ぎがわるかった」「この状況は政治が悪い」
※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)四「母が恩ある家へ対して、済ぬのなんのと得手勝手、みんなわたしがわるかった」
(ロ) 申し訳ない。相済まない。「わるいけど、このコピーをとってください」
※人情本・閑情末摘花(1839‐41)初「大人しい息子を、唆のかしちゃア悪(ワル)いと思って」
⑦ 善意でない。悪意がある。「意地が悪い」
※浮雲(1887‐89)〈二葉亭四迷〉三「おねがひ申して置くンですよ。わるくお聞きなすっちゃアいけないよ」
⑧ やり方や程度が適切でない。
(イ) やり方が下手である。上手でない。
※浄瑠璃・五十年忌歌念仏(1707)上「わるい工面な為され様」
(ロ) 配慮が十分でない。丁寧でない。ぞんざいである。
※洒落本・傾城買二筋道(1798)冬の床「意地にかかってわるくしなんすが、ついぞはらをたちなんした事もなく」
(ハ) 度が過ぎる。
※滑稽本・戯場粋言幕の外(1806)上「おきやアがれ。悪(ワル)くおりるぜへ」
わる‐が・る
〘他ラ五(四)〙
わる‐げ
〘形動〙
わる‐さ
〘名〙

し【悪】

〘形シク〙 物事の本性、状態などがよくない。また、それに対して不快な感じをもつ。悪い。いけない。だめである。⇔よし
① (善悪、正邪の判断の立場から) (物事の本性、本質が)悪い。邪悪である。
※書紀(720)神代上(水戸本訓)「毒(アシキ)酒を醸(か)むで、飲ましむ」
※読本・春雨物語(1808)血かたびら「御心の直きに、あしき神のよりつくぞ」
② (人の性質、態度や物の状態などが)悪くて気に入らない。いけない。けしからぬ。また、思いやりがない。つれない。
※万葉(8C後)一四・三三九一「筑波嶺(つくはね)に背向(そがひ)に見ゆるあしほ山安志可流(アシカル)(とが)もさね見えなくに」
※伊勢物語(10C前)二三「もとの女、あしと思へるけしきもなくて」
③ (運命や縁起が)悪い。ひどい。凶だ。
※枕(10C終)二七六「にくき者のあしき目見るも、罪や得(う)らんと思ひながら、またうれし」
※浮世草子・好色五人女(1686)一「『けふの首途(かどで)あしや』と、皆々腹立(ふくりう)して」
④ (人の機嫌や気分が)悪い。
※竹取(9C末‐10C初)「きたなき所の物きこしめしたれば、御心地あしからん物ぞ」
※土左(935頃)承平五年正月一四日「よね、さけしばしばくる。かじとりけしきあしからず」
⑤ (風、雲、海など自然の状況が)荒れ模様だ。険悪である。
※土左(935頃)承平五年二月四日「けふ、かぜくものけしきはなはだあし」
⑥ (容姿や様子などが)悪い。醜悪だ。見苦しい。
※宇津保(970‐999頃)吹上上「よき女といへど、一人あるは、あしき二人に劣りたるものなれば」
⑦ (血筋、身分、経済状態などが)悪い。貧しい。いやしい。
※大和(947‐957頃)一四八「いかにしてあらむ、あしうてやあらむ、よくてやあらむ」
※蜻蛉(974頃)上「冬はついたち、つごもりとて、あしきもよきもさわぐめるものなれば」
⑧ (技能、配慮などが)悪い。へただ。拙劣だ。
※竹取(9C末‐10C初)「中納言『あしくさぐればなき也』と腹立ちて」
※源氏(1001‐14頃)早蕨「手はいとあしうて歌はわざとがましくひきはなちてぞ書きたる」
⑨ (品質が)悪い。粗末だ。
※枕(10C終)一二二「下衆(げす)女のなりあしきが子負ひたる」
⑩ (動詞の連用形に付いて) …するのが苦しくていやだ。…するのが難儀だ。
※万葉(8C後)一五・三七二八「あをによし奈良の大路は行きよけど此の山道は行き安之可里(アシカリ)けり」
[語誌](1)類義語の「わろし」「わるし」は平安時代に現われる。「あし」が「悪しき道」「悪しき物」のように、客観的な基準に照らしての凶・邪・悪をいうのに対して、「わろし」は個人の感覚や好悪に基づく外面的相対的な評価として用いられる。両語の間には程度の上下が存するという説もあったが、確例は認められていない。
(2)中世のある時期から、「あし」は次第におとろえ、「わろし」から転じた「わるし」「わるい」が、従来の「あし」の意味をも合わせもつようになり、「あし」は、「よしあし」という複合語や文語文の中に残存するにすぎなくなった。なお、室町頃から一時期、口語形「あしい」の形も行なわれた。
あし‐げ
〘形動〙
あしげ‐さ
〘名〙
あし‐さ
〘名〙

わろ・い【悪】

〘形口〙 わろ・し 〘形ク〙 本来、「よろし」の反対で、物事の程度が普通より、あるいは他に比して劣っている意を表わす。「あし」よりは程度が軽く、消極的によくないと判断する場合などに用いる。後世は、「わるい」が多く用いられる。→わるい
① あるべき状態でない。
(イ) 不都合である。好ましくない。いけない。
※宇津保(970‐999頃)蔵開中「いとわろき朝臣なりけり」
日葡辞書(1603‐04)「Varoi(ワロイ)。ワルイに同じ。〈訳〉悪い。文書ではワロシが用いられる」
(ロ) めでたくない。運にめぐまれない。不吉である。
※能因本枕(10C終)九四「こと所には、御息所の人出だすをば、わろき事にぞすると聞くに」
(ハ) 性質がよくない。たちがよくない。
※大唐西域記長寛元年点(1163)三「人性は怯(つたな)ふ懦(ワロク)して」
(ニ) 間違っている。誤りである。
※徒然草(1331頃)一六〇「行法も、法の字を澄みていふ、わろし。濁りていふ」
② 価値や品質、程度などが劣っている。
(イ) 上等でない。
※竹取(9C末‐10C初)「其中に此とりてもちてまうできたりしは、いとわろかりしかども、の給しにたがはましかばと此花を折てまうで来る也」
(ロ) 地位や身分、生活程度が劣っている。
※前田本枕(10C終)四五「姿なけれど、すろの木、唐めきて、わろき家のものとは見えず」
(ハ) 見劣りがする。みっともない。また、容貌などが美しくない。みにくい。
※枕(10C終)四八「下襲の裾みじかくて随身のなきぞいとわろきや」
③ 期待される状態でない。のぞましくない。
(イ) 食べ物がいたんでいる状態である。
古今著聞集(1254)一八「瓜をとりいでたりけるが、わろくなりて、水ぐみたりければ」
(ロ) 勢力などが衰えている。貧しい。乏しい。
※大和(947‐957頃)一四八「年頃わたらひなどもわろくなりて、家もこぼれ」
④ やり方などが上手でない。できがよくない。下手である。
※落窪(10C後)二「蔵人少将の君も、御衣どもわろしとて、出づと入と、むつかりて著給はず」
わろ‐が・る
〘他ラ四〙
わろ‐げ
〘形動〙
わろ‐さ
〘名〙

あく【悪】

[1] 〘名〙
① (道徳、正義、法などに反することをいう) わるいこと、よこしまなこと。また、そういう行為、ふるまいをさす。⇔
※観智院本三宝絵(984)上「この人内には悪の心を含めりけれど、外にはなお僧の姿なり」
※野分(1907)〈夏目漱石〉一一「社会の悪(アク)を自ら醸造して」
② 邪気。悪気(あっき)
※宇津保(970‐999頃)俊蔭「あくをふくめる毒蛇に向かひて」
③ 悪口。悪態。
※洒落本・妓娼子(1818‐30)下「よくあくをいひなんす。ちっとだまりなんし」
④ 歌舞伎など芝居で、悪人の役を演ずる者。かたきやく。悪役。
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)四「今は敵(かたき)も立役も白い面(かほ)や薄肉とやらでするゆゑ、孰(どれ)が実か悪(アク)かわかりませぬ」
[2] 〘接頭〙
① 道徳、正義、法などにそむくことを表わす。
※梵舜本沙石集(1283)七「善天狗、悪天狗と云て二類あり」
② 望ましくない、好ましくない、快くないなどの意を表わす。「悪条件」「悪趣味」「悪感情」など。
※妾の半生涯(1904)〈福田英子〉一三「婦人の卑屈なる依頼心、亦た最も与(あづか)りて悪風習の因となれるなるべし」
③ (人名あるいはそれに準ずる語について) その人が抜群の能力、気力、体力を持っていて恐るべきであることを表わす。「悪源太」「悪左府」など。
※保元(1220頃か)上「善悪を糺(ただ)されければ時の人、悪左大臣とぞ申しける」

わる【悪】

[1] (形容詞「わるい」の語幹) 悪いこと。よくないこと。下手なこと。多く感動表現に用いる。
※源氏(1001‐14頃)真木柱「あなはるやといふを、いとあやしう、この御方には、かう用意なきこと聞えぬものを」
[2] 〘名〙
① 悪者。悪人。悪徒。悪党。〔俚言集覧(1797頃)〕
※大つごもり(1894)〈樋口一葉〉下「貴様といふ悪者(ワル)の出来て」
② いたずらもの。いたずらをする子ども。悪童。悪餓鬼。
[3] 〘語素〙 種々の語の上に付いて、悪い、不快である、害になる、過度であるなどの意を添える。「わるあがき」「わるがしこい」「わるよい」「わるえんりょ」など。

あし・い【悪】

〘形口〙 (文語の形容詞「あし(悪)」の口語形) わるい。よくない。
※漢書列伝竺桃抄(1458‐60)陳勝項籍第一「いくさをへたにしてかふあるかと人が思わうずが心ちあしい」
※天草本伊曾保(1593)イソポの生涯の事「ダイイチノ axij(アシイ) モノヲ カウテ コイ」

わり・い【悪】

〘形口〙 「わるい(悪)」の変化した語。
※洒落本・大劇場世界の幕なし(1782)「おつるさん、おらが内へきな、うすげゑぶんのわりい女はおんなのひいきだ」

わろ【悪】

(形容詞「わろい」の語幹) 悪いこと。わる。感動表現に用いる。
※源氏(1001‐14頃)手習「猶わろの心や」

わる・し【悪】

〘形ク〙 ⇒わるい(悪)

わろ・し【悪】

〘形ク〙 ⇒わろい(悪)

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改訂新版 世界大百科事典 「悪」の意味・わかりやすい解説

悪 (あく)
evil
bad

悪はふつう善の反対語とされている。しかし〈よい-わるい〉という日本語の対比は,英語の〈good-bad〉と同様に,道徳的意味だけには限られない。例えば,〈美-醜〉〈吉-凶〉〈幸-不幸〉なども〈よい-わるい〉の区別に含まれる。したがってこれらの反対概念の組の中で〈善・悪〉という形で対比される場合を,道徳的意味に限定された〈よいこと・わるいこと〉を意味するものとして考えることができよう。ただし漢語の〈悪〉は元来,もっと広い意味を持っていた。〈悪〉という字の〈亜〉は古代の住居の基址を上から見た形で,押さえつけられたいやな感じをあらわすとされるし,北京語の〈悪心〉は,胸がつかえたときの不快感をいう。

 悪とは何かという問題は,昔から倫理学の難問とされてきたが,西洋と東洋ではかなり違った考え方が見られる。西洋では,古代キリスト教の教父たちがこの問題と取り組んでいる。キリスト教の正統教義では,絶対者としての神が宇宙と人間を創造したと考えるので(〈無からの創造〉),神はなぜ悪をつくったのかという疑問が生まれる。言いかえれば,神はいっさいの悪の性質を持たない最高善の存在であるのに,その神が創造した世界に悪が存在するのはなぜなのか,という難問である。この場合,教父たちの間には二つの考え方の対立があった。一つはプラトンの宇宙形成説に近い考え方である。プラトン哲学では形相と質料の二元論をとる。形相はもののかたちにみられる理念であり,霊的要因を示す。質料はその素材であり,物質的要因を示す。彫刻家が素材からつくり出す形相は,彼の心の中にある霊的直観を示している。これと同じように,神は混沌とした形のない質料に霊の息吹を吹き込んで形相を与え,宇宙を形成したとプラトンはいう。この場合,形相は善美なもの(カロカガティア)であるが,質料はこれに抵抗する傾向,すなわち悪への傾向を持つという考え方が,新プラトン主義グノーシス主義やストア哲学の中にあった。2世紀ころの教父アテナゴラス,殉教者ユスティノス,ヘルモゲネスなどはこのような考え方から影響を受け,神は悪への傾向を含んだ質料から世界を形成したと説いた。つまり,神そのものは絶対の善なのであるが,宇宙の素材である質料の中に悪があった,したがって悪をつくったのは神ではない,というのである。この宇宙形成説は,倫理学の見地から見ると,大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)である人間を対応させ,人間の本性の中にある形相と質料,霊と肉,善への傾向と悪への傾向の対抗関係を認める人間観に立っている。その点で,この考え方は,心理学的にみた人間性の現実の姿と適合したところがある。

 けれどもこの考え方に従うと,世界を形成した神に先立って,宇宙の素材である質料が存在したことになる。したがって,〈無からの創造〉という正統的教義に反する結論に導かれる。このため,オリゲネス,テルトゥリアヌスら多くの教父は形成説に反対し,神は質料も含めて,宇宙を無から創造したと主張した。この宇宙創造説の難点は,先に言ったように,神はなぜこの世に悪をつくったのか,という疑問が生まれるところにある。この難問を克服するために,悪とは〈善の欠如〉である,というキリスト教倫理学の定義が生まれる。〈善の欠如〉とは,簡単にいえば,悪それ自体は本来存在しないという考え方である。言いかえれば,善という存在と悪という存在の二つがあるわけではなく,悪とは善の分量が少ないか,ゼロになった状態を意味するにすぎないというのである。ではいったい,悪がこの世にはびこるのはなぜなのか。それはアダムが神の命令に背いて堕落したように,宇宙と人間を創造した神の意志にそむく人間の本性的傾向(原罪)の中にある。このような考え方は,アウグスティヌストマス・アクイナスに受け継がれて,キリスト教の正統的人間観になった。この考え方は理論的には形相と質料の二元論を克服しているが,倫理学や心理学の立場からみると難点がある。例えばカントは,人間の道徳的意志を理性的な善への意志であるとしたが,その根底に,善意志に反する根本悪の傾向を考えなくてはならなかった。ユングは,キリスト教世界では〈悪はどこから来るか〉という問いは答えられていないと言っている。

 これに対して東洋の人間観では,善と悪を神に結びつけず,人間性に内在する二つの心理的傾向とみる。孟子は性善説を唱え,荀子は性悪説を唱えたが,この二つの説は理論的には矛盾しない。孟子の考えるところでは,人間の本性には良心と放心という二つの傾向がある。良心は他者と心情的に共感し,善へ向かおうとする心理傾向であり,放心は外界の事物に動かされて欲望を追求する心理傾向である。孟子は良心に重点を置いて,人間の本性は善であるとした。これに対して荀子は,放心に重点を置いて倫理や政治の問題を考え,道徳は人為(偽)つまり人間の努力によって礼儀を定め,放心に向かう傾向を抑制することであると主張した。したがって荀子の性悪説は,孟子の説の一面を補うものである。孟子の良心論に影響を受けた宋学の理気説では,人間の本性に〈本然の性〉(理)と〈気質の性〉(気)を区別するが,前者は良心,後者は放心に当たると言っていいであろう。儒教の人間観では,放心や〈気質の性〉を克服し努力してゆくことによって,良心や〈本然の性〉の働きが強くなり,人は君子や聖人と呼ばれるような完全な状態に近づいてゆくと考える。

 また仏教では,善悪という道徳的区別は本来相対的なものにすぎないと考える。善行と悪行は,因果(カルマ)の法則によって現世における果報(よい結果とわるい結果)を生み出すけれども,人間の本性はそういう相対的区別を超えている。究極の本性である仏性は,善人にも悪人にもそなわっているが,因果の法則にとらわれた人間はそれを知ることができない。悟りとは,善悪の区別を超えた人間の究極的本性を知り,超越的な世界を体験することであるとされる。

執筆者:

ふつう道に外れ,法に背く行為を悪とするが,歴史的にはそれほど単純ではない。養老律では八虐(はちぎやく)の一つに,祖父母・父母などを殴打・殺害する罪として〈悪逆〉をあげるが,令制では儒教的な徳目に基づき,官人の功過の評価について善悪が問題にされた。10世紀から11世紀にかけて広く見られる〈不善の輩〉は下級官人を含んでおり,この善悪と無関係ではないが,その実態は放火・殺害・強窃(ごうせつ)二盗,博奕などを事とする人々であった。

 一方,すでに834年(承和1)の太政官符に主殿寮・主鷹司などの雑色(ぞうしき)・駈使(はせづかい)・犬飼・餌取が市で押買(おしがい)等の不法をするのを〈悪行〉とし,麁悪(そあく)な調物を〈濫悪〉〈濫穢〉といい,無法な罵言や暴力的行為を〈凶悪〉〈濫悪〉とする見方もあったが,12世紀に入るころには〈不善〉という言葉は激減し,さきの殺害などに,鳥獣,魚の殺生や分水の押妨等の行為を含めて,端的に悪行・悪事として糾弾されるようになる。殺生を悪とする仏教思想の浸透をそこにうかがうことができるが,〈党を結び,群れを成す〉といわれた悪徒・悪党は当時台頭しつつあった武士団そのもの,あるいは漁猟民を含む商工業者,金融業者などで,武装した僧兵-悪僧も大寺院が組織したこのような人々であった。これらの人々の世界では,戦場や夜,山野河海,境など,ある条件の下では〈悪〉と非難された行為を当然とし,むしろ積極的に評価する風潮が広く広がっていた。それは〈悪源太〉(源義平),〈悪左府〉(藤原頼長)などの人並みはずれた能力を持つ人を畏敬する空気ともつながり,悪人往生を強調,ついに〈悪人正機〉を説く親鸞に至る浄土思想も,こうした〈悪〉を正面から見すえることによって深化していった。

 13世紀から14世紀に広く活動した悪党も,武家・公家の禁圧の対象となったが,依然として根強い〈悪〉を肯定する空気に支えられ,鎌倉末・南北朝期の動乱に大きな役割を果たした。悪僧が裹頭(かとう)したように,このころの悪党も柿帷(かきかたびら)・覆面・蓑笠姿など〈異類異形(いるいいぎよう)〉といわれた服装をすることによって,世俗の規制から自由に行動したので,禁圧する側は〈異形〉自体を悪として罰した。しかもこうした服装は非人の姿でもあり,〈屠者〉を悪人とする仏教思想も加わって,穢れを清める職能を持つ非人を〈悪人〉として差別する空気も社会の一方に広がりはじめる。15~16世紀から江戸時代に現在の用法に近づくが,〈悪〉をいたずら者,生気あふれるものとする見方に,悪を肯定する前代の風潮は生きつづけている。
悪所 →悪党
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「悪」の意味・わかりやすい解説


あく

人間にとって否定的と評価される対象、行為、事態をさし、肯定的な価値としての善の対(つい)をなすもの。このように形式的に定義するならば、善と悪との区別はすべての人間社会にみられるものであるが、ただ実際に何が善とされ、また悪とされるかの内容は、人間の環境、社会構造、精神的能力などによって変化し、一様ではない。それは人類の諸宗教ならびに道徳と深くかかわり、また哲学的反省の重要な課題をなしている。

[田丸徳善]

未開社会の悪

ごく概括的にいえば、未開社会にあっては道徳的意識が未分化であるため、自然的な悪(害悪)と人間の意志に基づく勝義での悪とが明らかに区別されない傾向が強い。悪は、しばしば超人間的な力や神霊に由来するものとして対象化される一方、悪(あ)しき行為の規制はさまざまのタブー(禁忌(きんき))の形をとって行われた。たとえば、わが国の固有信仰である神道では、道徳的な善悪も吉凶禍福もともにヨシ―アシということばで表され、それらの間にとくに差異が考えられなかった。マガということばで表現される悪は、世界の秩序を混乱させる作用を意味し、死の穢(けがれ)から生まれた禍津日神(まがつひのかみ)に由来するとされた。一般に悪を超人間的な原理に帰する考え方は、後の時代までも根強く残り、世界宗教のなかにも認められる。キリスト教のサタン、イスラム教のシャイターン、仏教経典にみえるマーラなどがそれにあたる。

[田丸徳善]

道徳的意識の覚醒と善悪

このような状態は、ある段階から顕著になる道徳的意識の覚醒(かくせい)に伴って変わってくる。すなわち、悪はもっぱら人間の意志の様態と考えられるようになり、外的な要因から区別される。この変化がいつおこったかは確定しがたいが、いくつかの社会で紀元前数世紀ごろからその兆候が現れてくることは事実である。古代中国における性善説と性悪説との対立はその一例であるが、古代ストア学派の思想はもう一つの例証といってよい。ストア学派では、有徳であること、自然(本性)に従って生きることが善であり、自然に反することが悪であって、それ以外の生命、健康、快楽、病苦、そして死さえもが、どちらでもよいアディアポラ(無記)とされた。ここには、善悪を厳しく人間の意志作用に限定する考え方が示されている。

 このストアの思想は、のちに成立する善悪、あるいは価値の理論への一つの準備形態とみることもできる。いま悪に限っていえば、それは概して三つないし四つの範疇(はんちゅう)に分けられてきた。すなわち、自然的悪(天災、病など)、感覚的悪(苦痛)、道徳的悪(罪責)、形而上(けいじじょう)学的悪(有限性)であり、このなかで最初の二つは、外的な原因によるものとして一括してみてもよい。ライプニッツは、すでにアウグスティヌスなどにも断片的にみられる悪の起源の問題を体系的に取り上げ、いわゆる「弁神論」を展開した。彼はこれらの諸悪を最終的には有限性によるものとし、しかもそれを善の欠如態として説明している。

[田丸徳善]

悪の起源とその克服

悪の起源と本質というこの問題は、その様態や基準とともに、哲学的反省の重要な主題をなす。またそれは事物の最終的秩序の問題でもあるから、宗教の次元とも深くかかわってくる。それについては従来ほぼ三つのおもな立場があった。一つは、前述のように悪をいわば実体化してみるものであり、善悪2神の戦いを説くゾロアスター教の二元論がその典型といえる。第二は、諸悪を迷妄ないし無明(むみょう)の所産とみなすベーダーンタ学派(ベーダ聖典の奥義書ウパニシャッドの流れを引くインドの正統思想)や仏教であり、これは究極的には悪を非存在とみなすことで解決しようとする一元論的立場を意味する。そして第三は、上記のキリスト教弁神論にみるように、悪の現実性を認めつつ、しかも最終的にはそれを神の摂理に包摂しようとする折衷的立場である。

 ここで注意すべきことは、宗教においては、道徳と異なって、三つのうちどの立場をとるにせよ、人間世界の悪を認めながらも、最終的にはその克服、宥和(ゆうわ)が目ざされるということである。このように、否定しがたい悪の存在の体験をも意味づけるところに、宗教の重要な働きがある。

[田丸徳善]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「悪」の意味・わかりやすい解説


あく
evil

原義は人間にとって有害な諸事象,あるいはそれらの原因をいう。広範な概念であり,天災や疾病などの自然的悪,人倫に反する道徳的悪,制度的悪,さらにそれらの根源とみられる形而上学的悪など便宜的に区分されるが,これらは視点の相違によるとも考えられる。古代においては悪を起すものを超人間的存在として考え,悪魔,魔神など擬人化の傾向が神話や宗教にみられる。多くの宗教は人間存在に悪が内在するとして,対照的に神の正義を立証しようとする (キリスト教の原罪,プラトンやプロチノスの悪としての肉体,ライプニッツの形而上学的悪など) 。これら悪の起源を人間的存在そのものや超越者に求めるのとは反対に,人間経験やその結果としての体制に悪の起源を認める傾向もある。その代表的なものはマルクス主義。古代中国思想における性善説性悪説も悪の起源を超越とするか内在とするかの対立である。ときには美が悪の反対概念とされる。人間を有限的存在としてみるかぎり,悪の問題は常に哲学,心理学,社会学などの中心問題の一つであり続ける。

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