西町(読み)にしまち

日本歴史地名大系 「西町」の解説

西町
にしまち

[現在地名]宮島町 みなみ町・たき町・中江ちゆうえ町など

厳島神社の後ろから西側に位置する町の総称。南町もこれに含む。東町に比して成立が早く、中世末には形成された、社家・供僧・町人の屋敷を主とする町。天正三年(一五七五)一一月一六日の毛利輝元安堵状に「従寺家裁判之屋敷、嶋中東西三十五箇所之内四ケ所」とみえ(大願寺文書)、島中の町屋敷を東西に分けている。文禄四年(一五九五)一〇月七日の大願寺領西町屋敷付立(同文書)には「西大願寺領屋敷」として中江・滝小路・中西なかにし五間屋ごけんや大西おおにしの各町に分けて四五ヵ所が書上げられている。これらの町屋敷は、厳島神社の鎮座地の御笠みかさ浜に注いでいた滝川(白糸川)御手洗みたらい(御霊川)の形成した扇状地を中心に建てられ、やがて各町が成立したと推測される。

元来、聖地として無住であった厳島に内侍をはじめ社家・供僧、さらに神社と関係した職人・商人らが常住するようになったが、それらは西町地域内であった。正安二年(一三〇〇)四月一五日の伊都岐島社未造殿舎造営料言上状案(大願寺文書)によれば、御手洗川に橋二ヵ所二〇間、白糸しらいと川に橋三ヵ所一七間と河堰三町余の工事が計画されている。この時点で完成されたか否かはともかく、島内居住者と参詣人の増加に伴い護岸・架橋が試みられたと思われ、御笠浜に流入していた御手洗川を白糸川と合流させて西へ迂回させる流路変更の付替工事を行って大西町周辺を整備している。大願だいがん寺は勧進沙弥衆を統率して厳島社関係の造営修補をつかさどっていたが、一六世紀中葉には現在地に伽藍を構え、他の子院・末寺を集中させたが、これはこの地域の整備を前提にしたものである。

大内氏支配下では、厳島の屋敷が社家・供僧・内侍の社家三方および商工人によって分有されており、例えば、天文一〇年(一五四一)三月二二日の厳島屋敷打渡注文(大願寺文書)によると、大内氏は滝少路四、中江少路一、中西少路七、大西三、南少路一など合わせて三五ヵ所の屋敷を大願寺に寄進したが、その多くは西町に属した。各社家・供僧・内侍ともに多くの屋敷を有し、毛利氏支配になってもそれは同様で、文禄四年の厳島寺社穂田元清等抱屋敷町割書立(野坂文書)によれば、大願寺六九、大聖だいしよう院一二、竹林内侍一七、御子内侍一二、徳寿内侍二四、物申一四などの屋敷の分有状況が知られる。このうち、竹林内侍は久保くぼ町に間口一三間四尺五寸、御子内侍は中西町に間口一二間の広大な屋敷を構え、祠官のうちでも早い時期に居住してきたことを示唆している。

西町
にしまち

[現在地名]博多区店屋町てんやまち綱場町つなばまち

箔屋番はくやばんの北にあり、南北に延びる西町筋の両側町。東は呉服町上ごふくまちかみ・呉服町下、西は土居町中どいまちなか・土居町下、北は中間なかま町・綱場町の通り。南部の西町上と北部の西町下に分れていた(福岡博多近隣古図)。元禄三年(一六九〇)の家数は西町上一一・西町下二九(続風土記)。明和三年(一七六六)の西町上の家数二八・間数一〇四間余、西町下の家数三七・間数一二七間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数は西町上二七・西町下六一(博多店運上帳)

豊臣秀吉の町割の際最初に縄張した町が市小路いちしようじ町といわれ(続風土記)、同町より西にあるため西町と称した。また神屋宗湛が起こした町なので宗湛そうたん町とも称したといい(続風土記附録)、宗湛が居住したことによる町名ともいう(筑陽記)。「そうたんまち」は慶長一五年(一六一〇)の御祓賦日記(神宮文庫蔵)にみえる。西町・蔵本番くらもとばん奈良屋番ならやばんを宗湛町とよんだといい(続風土記拾遺)、「宗(湛)町竹若番」(「津要録」延宝七年条)、「宗丹町釜屋番」(石城遺聞)の呼称もみえる。西町条が俗に宗丹町条ともいわれるので(筑陽記)、西町筋全体を宗湛町とよんだと考えられる。西町上を「中野番」ともよんだという。西町上西側に年行司の中野了清および子宗玄・孫良有が住んだことによると伝える。また「西町中の下」には神屋宗湛三男で年行司の神屋祐仙および子四郎左衛門・孫太左衛門が住したと伝える(石城志)

西町
にしまち

[現在地名]福山市西町一―三丁目・伏見ふしみ町・もと町・延広のぶひろ町・たから町・ふな町・昭和しようわ町・松浜まつはま町一丁目・住吉すみよし町・みなみ町・道三どうさん町・地吹じぶき町・古野上ふるのがみ町・西桜にしさくら町一―二丁目・紅葉もみじ町・東桜ひがしさくら町・三之丸さんのまる町・丸之内まるのうち一―二丁目・ほん町・かすみ町一―四丁目・明治めいじ

福山城下の西・南部を占める藩士の屋敷地域を俗称したもので、町名として大字名となるのは明治以後である。文化六年(一八〇九)の「福山志料」には「西町・東町、右二区藩臣ノ宅舎ヲ置街巷アマタアリテ或ハ名アリ、或ハ名ナシ、又小石梁数処アリ、今尽ク記セズ」とある。安政(一八五四―六〇)前後の書と思われる「備後国福山城下悉知」では、小名の項に「西町・中之丁・裏之丁・袋町」などが記されて福山城下町名のもとの小名とされているので、城西の限られた地域の呼名としても存在したようである。

西町
にしまち

[現在地名]中央区今川いまがわ一―二丁目

地行下じぎようしも町の西に延びる東西の通りの両側町。町家と士宅が混在する。福岡博多近隣古図によると、地行町を挟んでこも川に架かる古簗ふるやな橋と「米出橋」(米田橋の誤記か)の西のたもとも西町の内と記され、通りの西端は田島たしま(現樋井川)に架かる今川橋を越えて早良さわら西新にしじん(現早良区)に続く。町の北側背後には東から天台宗感応院、産土神の鳥飼とりかい若八幡(現鳥飼八幡宮)、法華宗大通だいつう(現日蓮宗)・曹洞宗金龍きんりゆう寺が並ぶ。金龍寺の北には真宗西派の浄満じようまん寺・真福しんぷく(現浄土真宗本願寺派)がある。元禄三年(一六九〇)の家数九六(続風土記)。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数一二〇(うち酒家二・麹家四)となっている(別本「続風土記附録」)

西町
にしちよう

[現在地名]米子市西町

外堀(一部は加茂川)と内堀に挟まれた武家地の西端を占める。西は中海。近世中期以降のものとされる伯州米子之図(県立博物館蔵)では内堀口を出て北へ向かう道筋に西町とみえる。また南に内堀に沿って東西に長さ一二五間・幅一〇間の馬場があり、この馬場に並行する通りにも西町とある。この通りの北側にほぼ東西に走る道筋は、宝永六年(一七〇九)の伯耆国米子平図および享保五年(一七二〇)の湊山金城米子新府(ともに同館蔵)では馬場ばば町と記される。明和―天明(一七六四―八九)頃の米子御城下図(同館蔵)によれば米子組士の柘植氏・織田氏らの屋敷もあるが、米子荒尾氏家臣の村河・日置・村瀬・簗瀬・伊丹・馬淵氏らの屋敷が並び、町御目付役宅もあった。東町に比して荒尾氏家臣団幹部級の屋敷町といえる。村河氏・日置氏・村瀬氏はいずれも荒尾氏の老臣で、荒尾氏自分手政治の事実上の責任者でもあり、幕末期には本藩の行財政の変化に応じて城下町人などからの献金・藩営事業の監督等に当たった。

西町
にしまち

[現在地名]掛川市掛川 西町

掛川宿一三町の一つで、東西に走る東海道往還の両側町。古駅の西宿にしじゆく懸川かけがわ築城のときに移って西町が置かれた(掛川誌稿)。慶長六年(一六〇一)に伝馬町となったので西伝馬にしてんま町ともいわれた。東はなか町、南は研屋とんや町・南西郷みなみさいごう村、北はかわら町およびさか川を境として掛川城に接する。西へ延びる往還は境堀に架かる土橋を越えて当町分十王じゆうおう町の両側町に入り、小掛こかけ川を越えて下俣しもまた町に続く。十王橋の東詰の往還には枡形が設けられ、境堀の東側に垣を結んで西町番所を設け、冠木門があった。正保城絵図では西町・十王町ともに町屋としてみえ、番所も描かれている。

西町
にしまち

[現在地名]亀山市西町・御幸みゆき

亀山城の南西を囲繞し、青木あおき門に接する。町の西は京口きようぐち橋の下を南流するたつ川が小渓谷を形成する。ひがし町とともに亀山宿を構成。両町を併せて亀山町とよぶこともある。町並は屈曲して西に向かう東海道に沿い、城下西端の京口門(明治以後西京口の字名が残る)を経て京口坂に至る。町の長さは東西六町四〇間で、町内はしん町一町三二間、西町二町四〇間、池之側いけのかわ四四間、よろず町一町四四間に分れる(九九五集)。寛永一四年(一六三七)の内検地では町高二七一石余(田一三八石余、畑一三二石余)

西町
にしまち

[現在地名]伊勢崎市三光町さんこうちよう

本町ほんまち通の西端から南へ鉤の手に折れた所から南北に延びる両側町。酒井氏時代からの町で、寛永一九年(一六四二)の検地帳(伊勢崎市立図書館蔵)では家並は約一一五間余で、そこから南は両側ともに畑であった。「伊勢崎風土記」でも寛永以前は「今の金蔵院以南は、両側共に白田なりき」としている。万治二年(一六五九)本町に立っていた六斎市のうち、一日・一六日の二日が当町に分けられ、町並が整えられてきたものと思われる。「伊勢崎町新古日記」には、酒井忠能の代官板垣三左衛門の屋敷が西町角にあり、あら町の市分けを追って願出て実現したとある。

西町
にしちよう

[現在地名]金沢市尾山町おやままち丸の内まるのうち・西町・西町藪内にしちようやぶうち

西内総構堀の西(外側)に並行して延びる南北路に沿う町人地と、同町の東方(総構堀の内側)、城と内総構堀に挟まれた地を占める武家地の総称。町人地は北の丸東照宮(権現堂)・同宮別当神護じんご寺の門前にあたり、北は横堤よこつつみ町、西は上堤かみつつみ町、南は松原まつばら町に続く。武家地は北を十間じつけん町、東を西町口御門筋(博労町筋)の通りに限られる。同通りの東には大手前の藩重臣の上屋敷が続く。町名は金沢城の西方に位置することにちなむといい(金沢古蹟志)、町人地は天正一一年(一五八三)の前田利家入部以前に町立てされていたと伝える。

西町
にしまち

[現在地名]倉吉市西町

江戸期の町人町。東の西仲にしなか町から西に延びる往来の両側町で、南は武家屋敷地(のちの仲ノ町)、西も同じく武家屋敷地(のちの瀬崎町)、北はたま川を挟んで上新かみしん町。元禄(一六八八―一七〇四)頃と推定される倉吉古地図(倉吉町誌)に「西町八十二間」とみえ、往来は西の武家屋敷地との境で南から西へとやや屈曲し、屈曲地から当町北側の町家西部を縦貫して北へ延びる通りがある。寛延(一七四八―五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)では竈数五六、間数一七六間余。

西町
にしちよう

[現在地名]小松市西町

小松町を南北に区切る中央にあたる九竜くりよう(久竜橋)の南に位置する。本通りは長さ四〇間・幅三間三尺の南北通りで、それに直交する二本の東西通りがある。北の東西通りを魚屋うおや町といい、長さ二町三〇間三尺・幅二間三尺、南の東西通りを米屋こめや町といい、長さ二町二〇間三尺・幅二間三尺(皇国地誌)。魚屋町は四十物あいもの町ともよばれ、この二町が合し、東町の西にあるので西町と称した(小松市史)

西町
にしまち

[現在地名]四日市市西町・もと町・西新地にししんち諏訪栄すわさかえ町・中部ちゆうぶ

四日市町の西部にあり、東は久六きゆうろく町・きた町と、南は比丘尼びくに町・みなみ町と接する。西は浜田はまだ村。町の中央を海岸に向かう道が東西に通る。旧版「四日市市史」によれば、初め西の口と称したが、寛文年間(一六六一―七三)には西町の名前が出る。寛文一〇年の伝馬役の負担は九疋。文政九年(一八二六)の御伝馬書訳帳(四日市市立図書館井島文庫蔵)でも伝馬役は九疋。

西町
にしまち

上京区一条通御前通西入

町のほぼ中央を東西に一条いちじよう(旧一条大路)が通り、東は天神通てんじんみち(旧西靫負小路)、西は天神川。一条通以南の地は平安京の右京北辺にあたり、官衙町の一つ「図書町」の地(「拾芥抄」西京図)。平安中期以降は一条大路西靫負いちじようおおじにしゆきえ小路西南の地。町の中央以北は条坊外。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図には、大将軍神社と紙屋川の間の一画に町屋が建並び、元禄末期洛中絵図では「辻子」、天明六年(一七八六)京都洛中洛外絵図に「西丁」と出る。

西町
にしまち

[現在地名]敦賀市相生あいおい

三日市みつかいち鵜飼辻子うがいがずしかね辻子ずし各町の南にあり、東はひがし町。永禄元年(一五五八)六月五日付善妙寺領目録(同寺文書)と慶長四年(一五九九)八月一五日付大谷吉継判物(小宮山家文書)に「西町」とみえる。「敦賀志」は「中世柳河といひし河此辺を流れしとや、其河の東西に在しゆゑ、西町東町といひしとそ」と記す。

寛文三年(一六六三)の家数五四、うち家持四七・貸屋七(寛文雑記)、享保一一年(一七二六)の家数五四(指掌録)

西町
にしまち

[現在地名]下館市こう西町

おお町の西にある町筋で、大手門前から南へ延びる。水谷氏時代には内宿うちじゆくとよばれたが(下館市史)、松平氏入封時に西町に改称。寛永一六年(一六三九)の下館城図(田宮家蔵)に町名があり、「下館日記」抄の正保元年(一六四四)四月には「廿七日、まちへいでぬ、大手のまへに本町西町とて、ながさももはたちあまりあゆみ、ふたすじ」とある。西城の下から当町とかた町の境界には堀がめぐらされ、木戸も設けられていた。寛永一九年―寛文三年(一六四二―六三)の天領時代には蔵福ぞうふく寺西裏に陣屋が設けられ、その地域は陣屋じんや山とよばれた(下館町郷土史)

西町
にしまち

[現在地名]江東区森下もりした五丁目

よこ(大横川)西岸の町屋。両側町で、北は菊川きくかわ町四丁目(現墨田区)、西は和泉岸和田藩岡部家中屋敷、南は小名木おなぎ川、東は横川を限る。文政町方書上によれば、西葛西にしかさい領深川分郷六間堀ろつけんぼりの内で代官伊奈半左衛門支配であった。町内総間数は田舎間で二九八間余。町の東側は南北間口・裏幅とも一四七間余、東西は裏行が南方九間・北方一〇間、一千三四八坪余。西側は南北間口・裏幅とも一五〇間余、東西は裏行が南方二〇間余・北方二一間、三千一二六坪。総坪数四千四七四坪余。家数一七八、うち家持六・家守六・地借一八・店借一四八。検地は元禄八年(一六九五)・享保一七年(一七三二)・寛政二年(一七九〇)に実施され、反別一町四反余、正徳三年(一七一三)より町奉行・代官の両支配。

西町
にしまち

[現在地名]松阪市西町

伊勢参宮街道に沿う。川井かわい町に連続し、また一方坂内さかない川を渡ってほん町につながる。「権輿雑集」に「壱町目二丁目丁役全歩、三丁目四丁目丁役五歩、当町往古は西之庄村、西町と称するは西方の所以にあらす、西之庄町と云略語也」とみえ、坂内川を隔てて本町と接する西町一―二丁目が本町・なか町・日野ひの町・しん町とともに「丁役全歩」の本役町であったことを伝える。

西町
にしまち

[現在地名]津市中央ちゆうおう北丸之内きたまるのうち

塔世とうせ町の南に接し、京口きようぐち御門に通ずる町人町で、慶長一三年(一六〇八)以後の城下町形成で成立。京口御門の脇に武家屋敷町周囲の七番所の一つである京口番所がある。これより西は武家屋敷町で、西町の西側に並行する町筋は東検校ひがしけんぎよう町となる。西町は伝馬役の本役五四軒役を勤め、観音寺の御厨神事の際は剣持一〇人を出し、出火の節は火元へ纏一本、手桶人夫一〇人、ほかに町会所への人足一人を負担する。西町となか(宝禄町)との町裏には防火用水として開設された用心ようじん堀が設けられ、藩費で掘りざらえされ、貯水量も豊富であったという。

西町
にしちよう

[現在地名]滑川市加島町かしまちよう

東西に延びる北陸街道南沿いに位置し、北は富山湾に面する。東は山王さんのう町、西は領家りようけ村。かつては四、五軒の百姓家があったが、安永年間(一七七二―八一)にはまだ町として成立しておらず、天明年間(一七八一―八九)頃に町名が付けられたと推測される(滑川町誌)。天明三年の滑川町惣絵図(田村家蔵)では、領家村寄りの街道南側に家屋が建並んでおり、海岸沿いには波除普請の石辻(石垣)が築かれている。天保一二年(一八四一)の滑川町見取絵図(滑川市立博物館蔵)では家数八〇。前掲惣絵図には山王町に山王社が描かれているが、同社はのち当町に移転し、前掲見取絵図では当町の北陸街道南側にある。

西町
にしまち

[現在地名]水戸市おお町三丁目・みなみ町三丁目・五軒ごけん町一丁目・いずみ町一丁目

南町の西端より北へ進み、なか町・大町の二つの通りをうけて上金かみかね町と田見小路たみこうじの境界に至る町。上金町との境に番所と柵門があり、南北に空堀(紀州堀)がある。

西・南・北の三方より水戸城下に入る道の会する地にあたり古くから開けた。明和元年(一七六四)二の丸櫓から出た太鼓の銘に「西町」「永禄十二年己巳」とあることから「江戸家水戸に盛んなりし比、はや開けたる町なりしと見ゆ」と「水府地理温故録」に記す。

西町
にしまち

[現在地名]水口町本町ほんまち二丁目・松栄しようえい鹿深ろくしん

市場いちば町の東、南裏通を挟んだ両側町。町の中ほどを南北に大辻が通る。北はひら町など。延宝七年地子赦免帳では居屋敷一六・番屋敷一、屋敷地の間口は最大一一間一尺・最小五間二尺余。平町組に所属。水口神社の氏子。西にし町の南、もり国造くにつくり神社が鎮座。水口神社の御旅所で、弟殿おとんどと称する。前掲地子赦免帳には大臣社とあり、境内は東西三二間・南北九間、また大臣祭礼場として東西二三間・南北一〇間を記す。

西町
にしまち

昭和三年(一九二八)一月から同四六年までの町名。苫小牧市の中心部の西に位置し、現在の新富しんとみ町・大成たいせい町・青葉あおば町・もと町三丁目の地にあたる。町名の由来は昭和三年の町名設定時に市街地の西端であったことによる。同年に苫小牧町大字西町が誕生、町域は現在の弥生やよい町・白金しろがね町の地であった(「町名設定地番改正調書」苫小牧市立中央図書館蔵)。同一九年の大字廃止字名改称により苫小牧町西町となるが、町域はさらに西側に移って西町大通から有珠うす(新苫小牧川)までとなり、南は太平洋に面した(「苫小牧町字地番整理調書」同館蔵)。同二三年市制施行により苫小牧市西町となる。

西町
にしまち

[現在地名]津和野町後田うしろだ

本町ほんまち通の西側の南北道の両側町で、家中屋敷と町屋が混在する。南は大溝・道をへだてて殿との町、東は本町裏、西は山根やまね町裏に接する。今市いまいち通までを西町かみノ町、今市通から魚町うおちよう通までを西町下ノ町という。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)によれば西町上ノ町は南向きに普請方棟梁の日熊氏屋敷一軒、その他は長さ七〇間一尺五寸の西町通に向かい西側に七軒、東側に三軒(他は空地)がある。

西町
にしまち

東山区三条通白川橋東入二丁目

三条通の両側に町並が連なる。東は神宮じんぐう道。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「此町(西町)北側に一筋道有。南禅寺、黒谷へ行所也。南側に青蓮院宮様御門前也。此御門に入て西南へ行ば庚申堂、元三大師、よね地蔵の内へ出、白川橋筋梅の宮町へ出る也」と地理の概略を記す。この北側の一筋は今の神宮道にあたる。正徳二年(一七一二)の開地とする(坊目誌・京都府地誌)が、既に承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「西粟田口丁」とみえる。また古町五町組の諸町を一括して粟田口町とする表示は、享保八年(一七二三)京大絵図にまで継承される。

西町
にしちよう

[現在地名]富山市西町・堤町通りつつみちようどおり一丁目

弐番にばん町の東に続き、北陸街道(巡見使道)に沿う両側町。東端を北に折れるとなか町に至り、西端付近からは南に太田口おおたぐち町が延びる。本町のうち。古来高札場も設けられ、富山城下の要地であった。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ、前田利次による町割以来の町。安永八年(一七七九)の本家数二七・貸家数三七で、二丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理によれば竈数六二、男一二四・女一〇八。

西町
にしまち

[現在地名]長野市長野 西町上にしまちかみ・西町南

善光ぜんこう寺八町の一、大門だいもん町の西に平行した南北の町。慶長一六年(一六一一)善光寺宿設定当時、大門町・ひがし町とともに月一〇日伝馬役を務めたが、寛永の初め月五日分伝馬役を務めることになり、天和(一六八一―八四)頃は二〇軒が伝馬役を務め、元禄五年(一六九二)頃は一七軒であった(善光寺惣目録)

西町
にしまち

[現在地名]上野市西町

東はなか町、西は向島むかいじま町に続き、町並の北裏側は外堀。西大手門より南へ西之立にしのたて町が通り、当町の中央部で十字路をなす。藩政初期に当町の与助・善吉の二軒の旅籠は、中町の三軒とともに藩より許可された旅籠で、原則として、この五軒以外では上野町での宿泊を禁止されていた。幕末には醸造業鉄屋(姓筒井)一族などが豪商として登場する。

西町
にしまち

[現在地名]松山市三番さんばん町五丁目

松山城下町の南部の町。末広すえひろ町・花園はなぞの町に平行する南北の町筋とその周辺を含む。東は末広町、西は花園町、南は弁天べんてん町、北は出淵いでぶち町に接する。初め藤原西町ふじわらにしまちと称したことは、元禄年間(一六八八―一七〇四)の記事を載せた「松山町鑑」(伊予史談会蔵)の「水呑町拾八町」のなかに同町名があるので知られる。

西町
にしちよう

[現在地名]上京区御前通一条東入

北は一条いちじよう(旧一条大路)に北面する片側町。東はしももり通。平安京大内裏「漆室」の跡地(「拾芥抄」宮城指図)

元禄末期洛中絵図には「左近の馬場」とあり、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「西町」とみえ、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成には「下ノもり西丁」とある。

西町
にしまち

[現在地名]亀岡市西町

城郭の西、京街道が紺屋町こんやまち北端から少し西折し、当町を南北に通り北町きたまちへ続く。

地内は荒塚あらつか村分内であるが、築城の際、追分おいわけ村の住民を移り住ませ町並をつくる。長さ一四七間、天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」では戸数五八。

町の南寄り西側に大円だいえん寺がある。

西町
にしまち

[現在地名]結城市結城 西町

結城城下西端部に位置。西を吉田よしだ用水が南流。御朱印ごしゆいん堀の外にあり、慶長期(一五九六―一六一五)頃に追加建設されたと想定される。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によれば町中間数は一町五〇間。宝永五年(一七〇八)の結城町明細帳之控(田宮家文書)によれば寺門前一八などを含む三五軒の家があり、また現栃木県小山市へ通じる道の入口にあたるため町木戸も設置されていた。

西町
にしまち

[現在地名]福知山市字西

福知山城下の西北端に位置する南北の両側町。西は武家地のなかまちで西町口が境をする。東は下紺屋町しもこやまちに接し北は寺町てらまち筋である。

北の寺町や鋳物師町いもじまちと同様、地形が低かったので水害などの被害は大きく、明治二九年(一八九六)、同四〇年などの洪水では大きな被害を受けた。

西町
にしまち

[現在地名]舞鶴市字西

寺内町じないまちの西方、愛宕あたご山北東麓の宮津街道沿いに開かれた町。

享保(一七一六―三六)頃写された丹後国田辺之図(杉本隆司家蔵)によれば町は東より西へ六二間半、石橋いしばしより大野辺口おおのへんぐちまで七二間、幅二間半。

西町
にしまち

延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図によると、挙母の最西端に位置し、幅二間の名古屋道への出口に木戸が設けてある。当時の家数二九、うち萱屋二八軒・明地のみ一軒で、このうち座敷のある家が二軒ある。「七州城沿革小史」によれば、寛延二年(一七四九)内藤氏の入部時には家数三八に増え、高は三三七石余。

なお、寛文六年(一六六六)の覚(豊田市史)によると、西町の毘森ひもり明神社を道場どうじよう山に移した後の跡地開発を、同社の神官にゆだねる証文が交わされているので、挙母町が道場山へ移る先駆とみられる。

西町
にしまち

[現在地名]川越市脇田町わきたまち

脇田村の地に成立した武士屋敷町。新田しんでん町の南、通組とおりくみ町の西側にあたることからの町名という。脇田新田ともいう。南北二三八間、両側に組屋敷四〇軒があった。この組屋敷は寛永年中(一六二四―四四)に御用組足軽・同心・林方下役などの小役人に割当てられたという。

西町
にしまち

[現在地名]松本市北深志きたふかし二丁目・三丁目

松本城外北部にある御徒士おかち町の北に延び続く町。「信府統記」には「西町 南北百九拾七間余、家数西ケ輪二拾七軒、東ケ輪二拾五軒」、また「同所東ケ輪南ノ小路 東西三拾四間余、西ケ輪家二軒、同所同ケ輪中ノ小路 東西三拾八間余、南ニ家一軒、同所同ケ輪北ノ小路 東西三拾七間余、北ニ家二軒」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報