田辺城下(読み)たなべじようか

日本歴史地名大系 「田辺城下」の解説

田辺城下
たなべじようか

舞鶴(西湾)に面する真倉まぐら(現伊佐津川)池内いけうち川および高野たかの川の下流沖積地につくられた田辺城を中心とする城下町

築城以前の当地は、往古には海が山際まで深く湾入し、真倉川・池内川・高野たかの川の三川公文名くもん笠水かさみず(ウケミズ)神社付近で合流していたと考えられている。古代・中世には田辺郷の地で、中世後期には阿波国守護細川成之の知行するところであった(丹後国田数帳)。また中世末にはのちに城下となる地の東方佐武嶽さぶがたけに城が築かれていて、西方の建部山たてべやま城とともに当地方土豪の重要な拠点であったと考えられる。

天正八年(一五八〇)細川藤孝が当地に築城するが、その地域は田辺郷八田はつた村および円満寺えんまんじ村の地であった。八田村は丹波何鹿いかるが八田やた(現綾部市)からの移住民によって開かれたという伝承をもつ。八田村には八幡宮が祀られており、康永四年(一三四五)三月四日付寄進状(桂林寺文書)に「田辺郷八田村内八幡宮」とある。八田村は城下にすべてとりこまれ、村としては消滅、農民は由良川筋に移住し新たに八田村をつくったと伝える。円満寺は一部が円満寺村として残った。旧語集は円満寺村について「往古当村大村なりし、此村を均して今の御城築く」と記す。円満寺村の氏神うのもり大明神は城内にとりこまれ、のちには田辺城の守護神となった(同書)。円満寺村の農民の多くは喜多きた村に移住させられたと伝える。

〔細川氏時代〕

天正八年八月丹後宮津みやづに入国した細川藤孝・忠興父子は同地の八幡山はちまんやま城に入って宮津城の築城に着手するが、これと並行して藤孝の隠居城として田辺城が建営されることになったらしい。着手時期は判然としないが、田辺御城図(年次不詳、「田辺旧記」所収)の書込には「天正十一年細川越中守御縄張、同十三酉年普請大略出来之由申伝」とある。しかし天正一二年には完成していたとする説(丹後旧事記)もある。

藤孝は八田・円満寺の耕地を利用して城郭を築いたが、南部は沼沢地をそのまま放置してこれを防御に利用した。北部は静渓しずたに川・高野川の海への出口であったが、城の北門に至る運搬水路を開削し、また一部は土地を埋め立てて倉庫建設の用地とした。東西には南北に堀をつくり要害堅固な平城をつくった。田辺御城図によれば、天守台・本丸を中心に北方に二の丸・三の丸があり、本丸の南方に大手があり、三の丸の西方に搦手がある。武家屋敷は主として城郭の内にあり、二の丸には家老をはじめ主たる家臣、三の丸には中級武士の屋敷が建てられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報