結城城下(読み)ゆうきじようか

日本歴史地名大系 「結城城下」の解説

結城城下
ゆうきじようか

[現在地名]結城市結城

結城城西方の洪積台地上に位置。古くから大字上山川かみやまかわ、現下妻市・下館市、栃木県宇都宮市・小山市・那須郡、千葉県東葛飾郡関宿町方面へ向かう道路が発達していた陸上交通の要地で、川・鬼怒きぬ川の水上交通を掌握するのにも有利なところであった。

〔中世〕

弘治二年(一五五六)に制定された「結城氏新法度」の三二条には、

<資料は省略されています>

とみえ、当時の城下には、宿しゆく西宮にしのみや三橋みつはし大谷瀬おおやぜ玉岡たまおか人手ひとでの六町があり、それらの町には木戸・門・橋が設置され、破損した場合には、侍たちが率先して修理にあたらなければならなかった。町々には「宿人」とよばれた町人のほかに、侍・僧侶・神官など多様な身分・職種の人間が混住していた。結城氏は諸要害や町々の防御設備の修理を徹底させるとともに、城下の警察・検断にも細心の注意を配り、六ヵ町や市場における商取引の保護・統制を強化していた。また家臣団の食事・衣類や日常生活の細部まで統制し、領民の支配のために、城下各地の寺社に対する統制をも図った。城下が整備されはじめたのは、一六世紀初頭の結城政朝の時代と思われ、その子政勝がそれを推進し、「結城氏新法度」にみられるような城下町が出来上ってきたのであろう。

〔近世〕

天正一八年(一五九〇)八月、羽柴秀康が結城晴朝の養子となってこの地に入部すると、結城氏領の変革を開始した。近世城下の建設もその一環として行われたもので、同二〇年の奈良文書には、職人集住令の内容をもつものもみられる。秀康は新城下町の建設地として、結城城西側の台地を選んで町割を実施した。こうして成立した新城下には、殿との町・おお町・西宮町・うら町・長横ながよこ町・番匠ばんじよう町・大切おおぎり町・こく町・鍛冶かじ町・紺屋こんや町・町の一一町があった。殿町は侍町で、結城城大手通沿いに置かれ、他は町人町でその西側に配置されて、周囲を空堀で取囲まれていた。この空堀がのちに御朱印ごしゆいん(県指定史跡)とよばれるもので、その内側の町屋敷地は地子免除地とされた(赤荻和弥文書)が、その特権を直接認めた文書はなく、町人たちのねばり強い主張によってのみ明治に至るまで護持されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報