伊勢崎城下(読み)いせさきじようか

日本歴史地名大系 「伊勢崎城下」の解説

伊勢崎城下
いせさきじようか

[現在地名]伊勢崎市曲輪町くるわちよう大手町おおてまち平和町へいわちよう本町ほんまち中央町ちゆうおうちよう緑町みどりちよう三光町さんこうちよう若葉町わかばちよう喜多町きたまち宗高町むねたかちよう柳原町やなぎはらちよう寿町ことぶきちよう華蔵寺町けぞうじまち末広町すえひろちよう乾町いぬいちよう堤下町つつみしたまち堤西町つつみにしまち西田町にしだちよう八幡町やはたまち

広瀬ひろせ川左岸の崖上に位置する伊勢崎城(陣屋)城下町。広瀬川に限られる西を除くと周囲は畑で、北は波志江はしえ村・太田おおた村、東は上植木かみうえき村・下植木村、南は今泉いまいずみ村。半町半村の性格をもち、郷帳にも高付される。寛文郷帳では伊勢崎町とみえ、高一千二一六石、うち田方八八九石余・畑方三二六石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によると、伊勢崎町の反別田六四町六反余・畑六六町七反余、新田二七六石余があった。前年の年貢は米四三三石余・永一二六貫余。

〔町の成立〕

慶長六年(一六〇一)稲垣氏による伊勢崎城の縄張りと同時に城下づくりも始められ、酒井氏時代にわたり徐々に整備されたとみられる。城を中心に南の大手門前小路に冠木門を東向きに設け本町西にし町を置いた。後門(東門)の外にも冠木門二ヵ所をそれぞれ東向き、南向きに設け、代官役所や士卒の屋敷を配した。その東側はあら町・紺屋こんや町の町並となる。有事に備え外郭と町家との境目に寺院を置き、北側には延命えんめい寺・同聚どうじゆ院がある。道は丁字路・筋違い・袋小路になっている。本町通東端を南に折れると中瀬なかぜ(現埼玉県深谷市)を経て江戸に通じる道となり、西町通を西に折れると前橋に通じる。北端からは大胡おおご(現勢多郡大胡町)に抜け、後門から東方に向かうと桐生方面に通じる(寛政一〇年「伊勢崎町古図」伊勢崎市立図書館蔵)

慶長一三年頃町の総構に松を植え囲土手が造られた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報