下館城下(読み)しもだてじようか

日本歴史地名大系 「下館城下」の解説

下館城下
しもだてじようか

[現在地名]下館こうおつへい

下館城の南に広がる城下町勤行ごんぎよう川右岸の舌状台地とその東縁部に成立する。城下は大手門南の台地に沿ったうわ町と台地の東縁部に広がるした町からなり、郷帳のうえでは上町は西郷谷にしごうや村、下町は田中たなか村に属していた。さらに町分として城下町南方の二木成にぎなり村・西芳町にしほうまち村があった。

〔町の建設〕

城下の形成は文明一〇年(一四七八)の水谷勝氏の築城に始まるが、本格的な町の建設と整備は八代水谷勝隆によって実施された。寛永七年(一六三〇)勝隆は城下を防備する拠点とするため領内の主な社寺の整備に着手し、下館城北方の搦手にあたる岡芹おかぜり口に城内から同氏の菩提寺定林じようりん寺、水戸―笠間道(結城街道)口の金井かない町に西にし町から極楽ごくらく寺、江戸道口に上岡崎浄土かみおかざきじようど(現富士見町)から専称せんしよう寺、西町には岡芹八丁台おかぜりはつちようだいから蔵福ぞうふく寺を移転させた。下妻道・筑波道口にあたる台地南端には六代正村がすでに妙西みようさい寺を建立していた。

寛永一六年に入部した松平頼重は水谷氏の支配を受継ぐかたわら、町並の整備に努めた。頼重は町名の一部を改め、町を新たに造成した。同年の下館城図(田宮家蔵)によると、大手門前から南へおお町・西町が二筋並び、その西に新たに造られたあら町・かた町が並ぶ。また大町の東を薬師やくし町、妙西寺の東西の門の周辺を門前もんぜんと改めた。一方、下町では町の南を裏町(現末広町)、裏町の木戸の外を戸外とげ(現春日町)とし、その西南をさくら町とした。そのほかに城下西口の菅谷すがや村をしん町、城下東口の市野辺いちのべ村をやなぎ町と改めた。

〔町の様子〕

水谷氏を襲封した松平氏は、前代の支配を巧みに取入れて城下の町政をつかさどった。往古十人士代々町年寄株家柄之事(田宮家文書)

<資料は省略されています>

とあり、水谷氏の先例を重視し、上下両町の有力者を各各十人士として特別に待遇、町年寄に登用して城下の町政を担当させた。年寄株は世襲制で、年寄株相続には城主の承認を必要とし勝手な休役は認められなかったものの、種々の特権を与えられた。まず町年寄は藩主への御目見得が許され、藩主国替のおりには城内で立会い、参勤交代時には江戸道(結城街道)菅谷村で藩主を送迎、藩主の家督相続や年礼には代表が挨拶に赴いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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