福岡城下(読み)ふくおかじようか

日本歴史地名大系 「福岡城下」の解説

福岡城下
ふくおかじようか

現在の中央区北部に形成された福岡藩黒田氏の藩庁福岡城を中心とする城下町。城下町は城地の北西部から北側および東部にかけて東西に広がる。「続風土記」などによると、福岡城を除く城下は内郭と外郭(惣構)に二分され、内郭とは北を博多湾、東を那珂なか川、南を肥前堀・紺屋こうや堀および福岡城のおお堀、西を大堀から続くやな(唐人町口堀)に限られた地域で、外郭は簗堀・大堀の西方および肥前堀・紺屋堀の南方などをさし、広義の外郭には博多も含まれる。

〔城下町の建設と構造〕

 福岡城および城下建設以前のこの地は、城地となった福崎ふくざき付近を境として、西は早良さわら鳥飼とりかい村、東は那珂なか警固けご村・薬院やくいん村・今泉いまいずみ村に含まれていたとみられる。東は那珂川が限り、中央部西寄りには荒戸あらと(現在の中央区西公園)の東に開口部をもつ広大な入江が入り込んでいた(新「福岡県史」)。慶長五年(一六〇〇)豊前中津から筑前国に入国した黒田長政は、名島なじま(現東区)を本拠として翌年福岡城と城下の建設に着手した。「続風土記附録」によると、城下の寺院のうち安国寺・極楽寺・長徳ちようとく寺・長福寺は慶長六年に建立されたといわれ、後世の史料(安永家文書)には同八年春に「御城外構大堀共出来」とある。さらに同九年四月二五日の黒田長政書状写(三木家文書)には「福岡町」がみえ、この頃には城下の建設がある程度進んでいたと考えられる。そして同一三年には福岡・博多に五人組制度を設けるようにとの指示が出されており(「長政公御代御書出令条」九州史料叢書)、これが城下の一応の完成とみられている(新「福岡県史」)。なお城下の町人には藩主黒田氏に馴染みのある播磨や豊前の出身者が多く、黒田氏の九州転封や筑前入国とともに移住してきた者も多い(「続風土記拾遺」、「郡町之者由来書」集成など)。その後荒戸山南方の入江の北部が埋立てられ、荒戸に侍屋敷、荒戸新町(のちの湊町)に町屋が形成されたが、南部は福岡城防御のための大堀(現在の大濠公園一帯)としてそのまま残された。正保三年(一六四六)の福博惣絵図(福岡市博物館蔵)には町名(丁名)はみえないが、城下西方の地行じぎよう町付近は足軽町・足軽屋敷、その東の唐人とうじん町を中心とした一帯は北が侍屋敷、南は町屋となっている。内郭の荒戸町付近は侍屋敷で、その東側はほぼ北が町屋、南が侍屋敷となっており、肥前堀・紺屋堀の南対岸の薬院町を中心とした一帯は侍屋敷、春吉はるよし町付近は足軽屋敷となっており、ほぼ確定した城下が描かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福岡城下の言及

【福岡[市]】より

…板付には福岡空港があり,東京,大阪,名古屋をはじめ,本州や九州の各地に航空路が開設されている。博多
[福岡城下]
 筑前国那珂郡の城下町。1600年(慶長5)豊前国中津より入部した黒田長政は小早川氏の名島城を廃して新たに警固(けご)村福崎の地に城地を定め,城下町の建設にとりかかり,新城地を福岡と名付けた。…

※「福岡城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」