滑川町(読み)なめりかわまち

日本歴史地名大系 「滑川町」の解説

滑川町
なめりかわまち

現滑川市の北西端に位置し、北は富山湾に臨む。ほぼ東西に走る北陸街道を中心に栄えた町で、北流して富山湾に注ぐなか川によって東西に二分される。北陸街道(巡見使道)富山城下魚津町の中間の滑川宿として宿場の機能を果すとともに、後背農村との関係の強い在郷町としても機能し、富山湾では漁業も盛んであった。永正六年(一五〇九)頃の滑川町にはおお町・せわ(のち瀬羽町)あら(のち荒町)の三町が成立していたと伝えられ(滑川町誌)、桐沢旧記(同書)によれば天文七年(一五三八)の滑川町は家数二七七・人数一千一九人で、うち二四二軒は百姓、ほかに酒屋一・油屋二・味噌屋二・米屋二・鍛冶二などが存在したというが、内容については疑問がある。しかし称永しようえい寺蔵の阿弥陀如来絵像の裏書に永正一〇年五月三日の紀年銘とともに「越中国新河郡賀積保滑河大町」とみえ、一六世紀初頭には滑川町の原型が成立していたと考えられる。

〔滑川宿〕

加賀藩新川郡奉行の支配下に置かれ、一般には滑川町と称され、滑川駅とよばれる場合もあった。同藩は滑川を宿並と把握し、慶長二〇年(一六一五)宿送人足伝馬の朱印状を滑川町肝煎・惣百姓中に与え、御用荷物運搬に差支えなきことを申渡した(「宿送人足伝馬御印」滑川町誌)。これによって滑川町は伝馬役・宿役を勤め、代償として宿継御用を許された。元和元年(一六一五)の滑川町の家数は大町四一・狭町五二・新町三一・猟師りようし町二五・神家じんか町二五・神明しんめい町一〇であった(「松村記録」同書)。翌二年、加賀藩は加能越三ヵ国の役家高を定め、町や宿の軒別に役銀の上納を課し、滑川町は六二軒が分限家数ととらえられ、役家高三一軒、伝馬役は家高六二軒の半役と決定されたが、越中全体の役家高は一千一五一軒九歩であった(「三ヶ国宿々役家高書上」温井家文書など)。寛永一六年(一六三九)には伝馬停止についての御印(杉木家文書)が滑川町中宛に出されている。寛文六年(一六六六)滑川宿は伝馬二〇疋を常備することを定められたが(「御定駅馬数・駅伝馬銀書上」川合家文書)、その維持はかなり苦しかったとみられ、元禄七年(一六九四)には二〇疋のうち一一疋を蔵宿が負担、五疋を免除、四疋は村方の百姓馬とすることを当町の有力町人綿屋・四歩一屋らが訴えている(「宿馬数願」滑川町誌)。しかし五疋の免除は却下され、蔵宿持一三疋・百姓持七疋と定められたようである(享保一六年「駅馬割替願」桐沢家文書など)

滑川町
なめがわまち

面積:二九・七一平方キロ

東松山市によって東西に分断される比企郡のうち、西半の北東部に位置し、北は和田わだ川を隔てて大里郡江南こうなん町、西は嵐山らんざん町、東と南は東松山市に接する。町の中央を北西から南東に滑川が流れ、南部には台地と丘陵を区切るように西から東へ市野いちの川が流れている。丘陵は西部が高く、標高一三一・八メートルの二の宮にのみや山を最高点とし、一〇〇メートル以上の尾根が続いているが、近年ゴルフ場の造成により大きく姿を変えている。

当町域は古代から開発の進んだ地域であったと思われ、伊古いこにある伊古乃速御玉姫いこのはやみたまひめ神社は、「延喜式」神名帳にみえる比企郡唯一の社、伊古乃速御玉比売神社に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「滑川町」の意味・わかりやすい解説

滑川〔町〕
なめがわ

埼玉県中部,比企丘陵の北部にある町。東松山市の北西に接する。 1954年福田,宮前の2村が合体して滑川村となり,84年町制。滑川沿岸には水田が広がるが,丘陵を刻む浸食谷には谷田 (やつだ) が多く,谷奥にはため池がみられる。農業が主産業で,米作が中心。東松山市との境に,東松山工業団地がある。北東部に,1974年,明治百年記念事業として,国営の武蔵丘陵森林公園が開園。その西側を熊谷東松山有料道路が通る。東武鉄道東上線が通る。面積 29.68km2。人口 1万9732(2020)。

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