金沢城下(読み)かなざわじようか

日本歴史地名大系 「金沢城下」の解説

金沢城下
かなざわじようか

近世加賀藩前田氏の城下町で、金沢・金沢町、雑称として金陵きんりよう金府きんぷなどと称された(「金沢古蹟志」など)。白山山系の末端、小立野こだつの台地が舌状に北西に突き出す突端部に金沢城が位置する。小立野台地の南西側を流れる犀川を挟んで野田山のだやま台地、北東側浅野川を挟んで卯辰山うたつやま丘陵があり、各々と平坦部との境を横切るように、南東上口かみつくちから城域をめぐって北西下口しもつくちまで北陸街道が通る。街道沿いに町域は延びるが、犀川と浅野川の両河川に挟まれた地域が城下の核で、総構門内にあたる。寛政(一七八九―一八〇一)頃の町域は南北一里八町余・東西一里一九町余(金沢古蹟志)

〔金沢と尾山〕

天正八年(一五八〇)金沢御堂陥落後、柴田勝家配下の佐久間盛政が御堂跡を金沢城として同一一年まで在城したが、同年四月前田利家が入部すると、金沢は前田家の城下町として整備が始められた。利家は従来の金沢の地名に代わって尾山おやまの称を使用した(同一二年一月二〇日「前田利家黒印状」上浜文書)。以後文禄五年(一五九六)四月一五日の前田利家印判状写(三輪文書)まで尾山がみえる。慶長四年(一五九九)三月二一日前田利長に与えた遺訓では、金沢の称が使われている(「前田利家遺訓写」三州志)。しかしこの文書の原本は不明で、伝写の過程で異本が生じたとされており、利家自身が金沢と称したのかは不明とされる。利家が尾山に改称した理由は明確でないが、敵対した金沢御堂や佐久間盛政にかかわる金沢の称を避け、出身地尾張にも通じる尾山を用いたのではないかとの指摘がある。もっとも尾山は金沢御堂に通じる御山(小山)ではなく、小立野の山の尾という地形的名称からくるとされる。利家没後利長は再び金沢の称に戻しているが、利家生前より巷間では金沢の称が根強く使用され、尾山と金沢が混用されていた背景がある。また徳川家康が用いた「小山」(尾山の意か)の称(慶長五年八月二四日「徳川家康書状写」前田家雑録)を避け、豊臣秀吉が一貫して用いた金沢の称を再び用いたとの、うがった見方もある。なお尾山の称も併用され、第二次世界大戦後も農村部では使用されていた。

〔城下建設〕

永禄年間(一五五八―七〇)には金沢御堂の寺内町としてうしろ町・みなみ町があり(永禄一〇年九月二五日「山崎屋新四郎寄進状」本願寺文書など)。のち西にし町・つつみ町・金屋かなや町・近江おうみ町などが成立していたともいわれる。利家は入城後、城の大手・搦手の固め、石垣築造を進めたが、城地には、二の丸・三の丸以下に高禄家臣の宅地があり、西側の内堀内に南町・堤町などの町地がみえる状況であった(慶長期「金沢城図」金沢大学付属図書館蔵、「三壺記」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の金沢城下の言及

【金沢[市]】より

…重要文化財では建造物のみをあげても,尾崎神社社殿,尾山神社神門,金沢城三十間長屋,同石川門,成巽閣(せいそんかく),旧第四高等中学校本館など,また名勝として兼六園および成巽閣庭園などが有名。【斎藤 晃吉】
[金沢城下]
 加賀,越中,能登3国を領した前田氏の城下町。16世紀ごろ,犀川,浅野川にさしはさまれた小立野台地突端で金屋が砂金を採掘し,芋掘藤五郎伝説も付加されて,金洗沢,金掘沢に発する金沢の地名が定着した。…

※「金沢城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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