鹿足郡(読み)かのあしぐん

日本歴史地名大系 「鹿足郡」の解説

鹿足郡
かのあしぐん

面積:六四二・九六平方キロ
日原にちはら町・津和野つわの町・柿木かきのき村・六日市むいかいち

県の南西部に位置し、北は益田市、西は山口県阿武あぶ須佐すさ町・阿東あとう町、南は同県佐波さば徳地とくじ町・都濃つの鹿野かの町・玖珂くがにしき町、東は美濃郡匹見ひきみ町。高津川の上・中流域にあたる。高津川は日原より上流を吉賀よしが川とよばれ、六日市町田野原たのはらを水源として郡内を南流し、柿木村福川ふくかわ川、日原町で津和野川を合せ益田市に入る。中国山地の西部高原地帯に立地するため東・西・南部の郡境・県境には標高一〇〇〇メートル以上の山が多い。益田市から高津川に沿って遡上する国道九号は日原から支流津和野川に沿って南西へ向かい、津和野町から野坂のさかトンネルを抜けて阿東町に至る。日原町枕瀬まくらせから吉賀川沿いに遡上する国道一八七号は六日市幸地こうじから県境傍示ぼうじヶ峠を越えて錦町に入る。中国自動車道が郡の南部を東西に通る。JR山口線は益田市から高津川沿いに東青原ひがしあおはら駅・青原駅を通り、津和野川沿いに日原駅・青野山あおのやま駅・津和野駅を経由して白井しろいトンネルをぬけ阿東町へ至る。「和名抄」東急本国郡部は「加乃阿之」と訓じる。

〔古代〕

承和一〇年(八四三)五月八日、美濃郡を分割して新立された(続日本後紀)。貞観九年(八六七)一〇月一九日、朝廷は石見国より鹿足郡の倉庫が自鳴したとの報告を受けている(三代実録)。「和名抄」は鹿足・能濃ののの二郷を載せる。郡家の所在地については現六日市町朝倉あさくら字コブケに推定する説(島根県史・鹿足郡誌)、同町吉賀本よしかほん(広石)河内こうち川右岸(堂免愛宕)―河内川左岸高台(藤安)と移転したとする説(六日市町史)、さらに同町広石ひろいし地区と仲の原なかのはら地区(藤安)が地形的にふさわしいとする説がある。郡名は八足八畔の悪鹿が横行していたのを鹿足河内かのあしごうち(現六日市町)で退治したことに由来するという(吉賀記)

〔中世〕

貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に「吉賀郡」とみえるように、中世はもっぱら吉賀郡とよばれた。北東の一部は長野ながの庄内であったと推定されるが他はすべて吉賀・能々ののの二郷からなる国衙領であった。室町期にこの長野庄の部分が美濃郡の中に組込まれ、当郡の郡域が確定した。鎌倉期に能登国から能登吉見氏の代官として入部した石見吉見氏が能々郷木部きべ(現津和野町)に拠点を構えて以後しだいに勢力を拡大し、室町・戦国期にはほぼ郡全域を支配下に置いた。南北朝期には吉賀郡の半分が守護領とされ、また室町期には吉賀郷と野々郷下領しもりよう室町幕府の御台御料所とされたが、石見吉見氏は実力でこれらを支配し、それを幕府にも認めさせた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報