挙母城下(読み)ころもじようか

日本歴史地名大系 「挙母城下」の解説

挙母城下
ころもじようか

矢作川西岸で、現高橋から久澄橋間の西側に広がる。挙母城(桜城)の北・東・南の三方を囲んで町並が形成され、城の西側は田地となっている。町と結んで北に延びる伊保いぼ道、西に延びる名古屋街道・池鯉鮒ちりゆう道、南に延びる大浜おおはま道・岡崎おかざき道が通ずる。

寛延二年(一七四九)内藤氏入部によって初めて城が築かれたが、慶長一九年(一六一四)三宅氏支配の頃には、竹生たけお町・神明しんめい町・きた(のち中町)ひがし町・ほん町・大手おおて(のち南町)西にし町の七町が形成され、衣七町と称していた。また天和元年(一六八一)本多氏藩主として入部した当時にしん町ができて八町となった。本多氏の頃の城地の規模は、寛延二年の本多兵庫頭旧領の陣屋并家中屋敷反別帳(内藤家文書)によると、陣屋ならびに堀回り反別一町三反余、家中屋敷ならびに長屋・勘定所・米蔵の反別三町八反余であった。しかし、内藤氏入部後の同三年の三河国加茂郡挙母町新規取入城地丑より巳迄五ケ年平均取米帳(内藤家文書)によると、新しく城地に組込まれた分は三二町余で、これらの土地の田畑屋敷は、拝領高二万石のうちの高外れとされ、代知分を加茂郡内より渡された。

延宝年間(一六七三―八一)の衣下町の図(別名延宝旧図、豊田市蔵)によると、町並の道幅三間半、一戸の間口は二・五―五間で、城下への主な出入口には、六ヵ所の木戸が設けられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報