富山城下(読み)とやまじようか

日本歴史地名大系 「富山城下」の解説

富山城下
とやまじようか

富山平野の中央部、およそ北と西は旧神通川、東はいたち川、南は四ッ谷よつや(四ッ屋川)に囲まれた地区。近世、富山藩城下町で、富山町とよばれることが多い。戦国時代から越中の要とされ、北陸街道(巡見使道)が通り、飛騨街道の起点でもあった。また神通川河口に至る岩瀬いわせ街道、八尾やつお町と結ぶ飛州二ッ屋村ふたつやむら道などがある。室町時代は太田おおた保のうちとして推移し、応永五年(一三九八)五月三日の吉見詮頼寄進状(富山市郷土博物館蔵)に外山郷(富山郷)とみえる。なお、当地はもと藤井ふじい村と称されたが、真言宗藤井山富山ふせん寺にちなみ富山と改称したという伝承もある(三州志)

〔戦国時代〕

天文一二年(一五四三)頃、神保長職が家臣水越勝重に城を築かせ拠ったとされる。この富山城は白鳥しらとり大峪おおがけ安田やすだ富崎とみさき(現婦中町)上熊野かみくまの大村おおむらの各城などと水運によっても結ばれ、しだいに本城となったとされ、当時の城下はほぼ西は金屋かなやの渡、東は鼬川に及んでいたという(富山之記)。築城後、神保長職は椎名氏、また一向一揆や越後の長尾氏と攻防を繰返し、一向一揆と長尾氏が当地を支配することもあった。天正八年(一五八〇)九月、佐々成政が織田信長より越中出陣を命ぜられ、同一〇年頃から当地を本拠に越中経営を進めた。神通川の田刈屋たかりや五艘ごそう間に渡船を設けて交通の便をはかり、常願寺川の水害から守るため馬瀬ませ(現大山町)に堤防をつくるなどして、しだいに城下の体裁が整えられたという(「越中志徴」など)。織田信長の死後、羽柴秀吉は成政に越中支配をまかせたが、成政は織田家再興を試みたため、天正一三年閏八月秀吉は富山城の西方、御福ごふく山に出陣、成政は降伏した。

〔加賀前田氏時代〕

天正一三年羽柴秀吉は成政の領地を新川にいかわ一郡とし、前田利長に礪波となみ射水いみず婦負ねい三郡を与えた。同一五年成政は肥後に転封され、新川郡を前田氏に預けた。文禄四年(一五九五)秀吉は子の秀頼の守護を頼み、新川郡も前田氏に与えた。天正一三年以来、守山もりやま(現高岡市)にあって越中を支配していた前田利長は、慶長二年(一五九七)富山城に移った。このとき守山町の船方も当地に移ったが、翌三年利長は庄川・小矢部おやべ川の水運も配慮して、守山材木ざいもく町の船方六、富山材木町の船方四に船割した(高岡木町文書)。これが富山材木町(木町)の始まりという。慶長一〇年利長は封を利常に譲り、富山を隠居地と定めて移った。このとき富山城改修のため大工が集められ、礪波郡増山ますやま城下(現砺波市)より光厳こうごん寺を移し、新川郡新庄浄禅しんじようじようぜん寺もこの頃城下に移されたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の富山城下の言及

【富山[市]】より

…北陸自動車道が通じ,南郊に富山空港がある。【藤森 勉】
[富山城下]
 地名の初出は1398年(応永5)の〈吉見詮頼寄進状〉で,富山郷とみえる。戦国動乱の中で戦略上の要所となり,永正(1504‐21)のころ水越越前守勝重が築城したという。…

※「富山城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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