博多・博多津(読み)はかた・はかたつ

日本歴史地名大系 「博多・博多津」の解説

博多・博多津
はかた・はかたつ

古代に大宰府の外港の役割を果した博多津(博多大津)は、博多湾の津の総称と考えられ、中国・朝鮮半島諸国を中心とした対外交流の窓口ともなった。中世の博多津は国際交易の拠点として発展し、探題が置かれた博多は九州における政治の中心地となった。近世の博多は西を那珂なか(博多川)、東を石堂いしどう(御笠川)に画され、黒田氏福岡城下に隣接する商人の町として賑わった。

〔古代〕

 七世紀まで史料にみえる那津なのつ(娜大津)が那珂川の河口付近と推定されるのに対して、博多津は博多湾の津の総称で、後世の地名としての「博多」とは合致しないとされる。また「荒津」も史料にみえるが、これは湾内の津の一つで、現中央区荒戸あらとから西にし公園にかけての一帯に比定され、筑紫館つくしのむろつみ(鴻臚館。現中央区)に付属する津であるという。天平一〇年(七三八)度の筑後国正税帳(正倉院文書/大日本古文書(編年)二)には「依勅還郷防人起筑紫大津迄備前児島十箇日粮舂稲壱仟伍伯肆拾捌束」と記されるが、この「筑紫大津」も博多津のことであろう。博多津は大宰府の外港としての役割を果しており、外交上・軍事上において重要な港であった。「続日本紀」天平宝字三年(七五九)三月二四日条に「博多大津」とみえるのが早い。同条は大宰府が軍備に関する不安を四ヵ条にして訴えたものであるが、その第一条に警固式によって博多大津および壱岐・対馬の要害には船一〇〇隻以上を配置して不測の事態に備えるべきであるのに、現状では使用できる船がないことを述べている。また同書同八年七月一九日条には、新羅使金才伯ら九一人が「大宰博多津」に到着したことが記されている。さらに宝亀七年(七七六)閏八月六日条には、遣唐使船が信風・水候の時機を逸して「博多大津」に引返し、出航を延期したことがみえる。このように博多津は船を備えて警固すべき要害で、新羅使などの外国使節の来着地であり、また遣唐使など遣外使節の出発の場でもあったことがうかがえる。こうした役割に対応するため、博多津には筑紫館が置かれたのである。

平安時代になると鴻臚こうろ館に統領・選士が配備され、甲冑が移し置かれるなど、防衛拠点としての一面がうかがえる(二通の貞観一一年一二月二八日「太政官符」類聚三代格)。これに関連して「刀伊賊」入寇の詳細を言上した寛仁三年(一〇一九)四月一六日の大宰府解(朝野群載)によれば、博多津には警固所が置かれていた。これは「博多警固所」(寛平七年三月一三日「太政官符」類聚三代格)、あるいは「大宰府警固所」(「日本紀略」承平元年七月三日条)とよばれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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