津和野城下(読み)つわのじようか

日本歴史地名大系 「津和野城下」の解説

津和野城下
つわのじようか

[現在地名]津和野町後田うしろだ森村もりむら中座なかざ町田まちだ鷲原わしばら

高津川の支流津和野川に沿う谷間に形成された津和野藩(外様)四万三千石の城下町。西に津和野城の築かれたじよう山、東に青野あおの山がある城下は山陰の小京都と称される。中世の吉見氏時代の津和野城は西を大手とし、城下集落は西側の喜汁きじゆうに形成されていたとされる。しかし近世的城郭および城下町建設を企図した戦国末期から、城の南麓から東麓に市場集落を形成、吉見氏が慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦に敗れて長州萩に退去するまでに、上市かみいち本市もといちと称する町場が形成されていた(津和野町史)

〔城下町の建設・整備〕

坂崎出羽守直盛は慶長五年秋津和野(三万石)を与えられ、翌年一〇月家臣団とともに津和野に入部すると、津和野城の大手を東に変え、城の東麓の津和野川沿いの平地(のちの殿町の地)に藩邸を置き、周辺に家臣団を配置するとともに、吉見氏時代の城下町を整備していった。翌七年一〇月の津和野中領御縄町屋敷帳(津和野町郷土館蔵)によれば、南北の通りの本市には間口一―八間・奥行六―一五間の町屋九九軒(四千六九三坪)、本市通に交差する東西道の今市いまいちには間口三―一〇間・奥行一五間の町屋四四軒(二千九〇一坪)の計二町五反三畝余の町場があった。この二筋の街路には津和野川から取水した水路がつくられていた。なおほかに城の南麓鷲原村にも吉見氏時代の上市を継承した町場があったはずだが史料がなく不詳である。

坂崎氏改易後の元和三年(一六一七)七月、亀井政矩が四万三千石を与えられて津和野に入部。政矩に随従した家臣人数は馬廻以上八九・卒六五九・鉄砲衆三三五の計一千八三人で(亀井家記稿本)、彼らも藩邸のある殿との町以南に屋敷地を与えられ集住したと思われる。寛永二年(一六二五)二月、殿町から出火した際の焼失家屋は九〇六軒(死者六人)であったが、多くは殿町以北の町屋と思われ、すでにかなりの城下町ができていた。藩邸はこの火災で焼失後、同五年津和野城東麓のなかの原に移建した。その後藩家老ら重臣が二派に分れて反目した御家騒動が起こり、同一二年多胡主水(真清)方の勝利で決着、敗れた重臣を含む家臣多数が断罪・追放になった後、召上げた屋敷地を含め新たに知行一〇〇石宛三〇〇坪を基準に屋敷の割替えが行われた。同一三年の新屋敷渡帳(津和野町郷土館蔵)では、森村のうち松原まつばらの東西両側と松原西川手・東川手や森村・中座村・後田村薬徳やくとく寺付近の計二町余がおもに中・下臣(足軽)屋敷に割付けられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報