四日市町(読み)よつかいちまち

日本歴史地名大系 「四日市町」の解説

四日市町
よつかいちまち

三重郡に属する。三滝みたき川によって形成された沖積地上にあり、東は伊勢湾。伊勢湾の港として中世より現れるが、近世に入って栄えるとともに、東海道の宿駅として賑い、陣屋も置かれた。三滝川下流の両岸を地内とするが、町の大半は南岸から南に広がる。町の西部を南北に東海道が通る。港は三滝川河口南岸から南にあった。北は浜一色はまのいつしき村、西北に末永すえなが村、西から南にかけては浜田はまだ村に接する。古代は柴田しばた郷に属したといわれる。鴨長明作といわれる「伊勢記」にみえるはま村は、この辺りという。室町期、赤堀氏の一族浜田氏が浜田に城館を築き、この地を支配した(→浜田城跡

文明五年(一四七三)内宮・外宮は、伊勢湾における新警固停止の禰宜庁庁宣を出した。警固とは海上関のことで、警固役すなわち関税を徴収することを目的とする。従来より存在したものを本警固、新設されたものを新警固という。文明年間には、守護一色氏・北畠氏・長野氏やその被官の国人たちによって多くの新警固が設けられ、神宮はしばしばその停止を命じた。文明五年に停止を要求された「新警固所々」は七ヵ所。そのなかに「四ケ市庭浦」が出る(「文明年中宮司引付」神宮文庫蔵)。この時期すでに市庭(市場)と港の機能があったと思われる。四日市庭は、浜田氏が文明二年浜田城築城に際して、西方にあった東海道往還を城の東に移し、北市場・南市場を開いたのに始まるという(旧版「四日市市史」)。江戸時代、享和元年(一八〇一)のものではあるが、諸色明細帳(四日市市立図書館井島文庫蔵)に「当宿之儀前々、毎月四日十四日廿四日、南町・北町・立町ニ市立仕候得共、年久敷打絶申候」とあるのは前記の事情を物語るものであろう。「四日市」の由来もこれによる。また年不詳の丹生川太郎兵衛書状(今堀日吉神社文書)によれば、四本商人の足子が居住していた。大湊おおみなとの船々聚銭帳(伊勢市大湊支所蔵)には、永禄八年(一五六五)一一月から翌年六月までの間に四日市庭所属の船五が入港したことがみえる。天正一二年(一五八四)織田信雄徳川家康豊臣秀吉が争った時、北伊勢各地は、両勢力の前線となる。信雄・家康は同年七月にこの地に軍をすすめ「浜田、四日市場ニ砦ヲ」築かせた(七月日「家康書状写」吉村文書、「井伊家譜写」東大史料編纂所蔵)。秀吉は一〇月に北伊勢に入り、滝川三郎兵衛(雄利)の拠る浜田城を攻撃している(一〇月二八日「秀吉書状写」東大史料編纂所蔵溝江文書)

四日市町
よつかいちまち

[現在地名]米子市四日市町

紺屋こうや町の西にあり、西へ延びる通り両側に沿った町人町。西は東倉吉ひがしくらよし町に続く。総間数一〇〇間。北方加茂かも川に架かる善光院ぜんこういん橋への小路(二七間)をもつ(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。町名は日野川下流西岸にあった戸上山とかみやま城下四日市からの移住者を中心として町が形成されたことに由来する。文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高五七石余、物成三四石余(同書)。元禄八年(一六九五)の米子町中竈之覚(同書)では家持三七軒・借家六九軒。紺屋町境北側(現川口商店の場所)に米子町会所が置かれ、町年寄二名・町代二名等が詰めて御触書伝達・諸願書取次などの事務に当たった。

四日市町
よつかいちまち

[現在地名]松任市四日市町

八日市ようかいち町の東に続く北陸街道(本町通)両側町で本町。東進してきた北陸街道は当町で左折し東一番ひがしいちばん町に至る。天明五年(一七八五)町絵図(松任市立博物館蔵)に「四日市場」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報