粟田口村(読み)あわたぐちむら

日本歴史地名大系 「粟田口村」の解説

粟田口村
あわたぐちむら

[現在地名]東山区東姉小路ひがしあねこうじ町・石泉院せきせんいん町・堀池ほりいけ町・定法寺じようほうじ町・柚之木ゆのき町・東小物座ひがしこものざ町・西小物座町・谷川たにがわ町・東分木ひがしぶんき町・今道いまみち町・ひがし町・中之なかの町・えびす町・西町にしまち五軒ごけん町・大井出おおいで町・今小路いまこうじ町・土居之内どいのうち町・つつみ町・唐戸鼻からとはな町・稲荷いなり北組きたぐみ稲荷町南組・分木ぶんき町・八軒はちけん町・西海子さいかいし町・南西海子みなみさいかいし町・七軒しちけん町・古川ふるかわ町・北木之元きたきのもと町・南木之元町・進之しんの町・高畑たかばたけ町・梅宮うめみや町・粟田口〈粟田山北あわたやまきた町・粟田山南町・鍛冶かじ町・華頂かちよう町・花頂山かちようやま町・高台寺山こうだいじやま町・三条坊さんじようぼう町・長楽寺山ちようらくじやま町・東大谷山ひがしおおたにやま町〉・円山まるやま町、左京区粟田口〈大日山だいにちやま町・鳥居とりい町・如意によいだけ町・山下やました町〉

現東山区の東北地域で一部は現左京区。村内に華頂かちよう山以下ひがし山連峰の広大な山林を含む。集落はその北麓、三条通の末より蹴上けあげ(宇治郡おか村、現山科区)に至る間の沿道及びしら川流域に開けた。

村名は江戸時代以降に現れるが、粟田の呼称は古代の愛宕おたぎ郡粟田郷(和名抄)に由来し、粟田口とは、この地が東海道・東山とうさん道より京都三条通への入口にあたることによる。中世、粟田庄の名がみえ、また青蓮しようれん院が所在してその領地が村域の多くを占めた。

中世の粟田口の名は承久三年(一二二一)八月六日付の「尼しくわん譲状」(東寺百合文書)に「あはたくちやちのうちにくわんをんたうあり、これは、たうせんゐんと申候、又いつくのしようしようも」とあり、この文書の主の所有した粟田口屋地の内に観音堂があった。弘長四年(一二六四)二月二七日の藤原氏女譲状(同文書)にも「ゆつりわたすあわたくちのやち、ならひに、いつれの庄々も」とみえ、両状とも洛外鴨東にありながら粟田口の地が屋地として譲渡されていたことを伝えている。また祇園社の「社家記録」正平七年(一三五二)九月六日条に「先日天竜寺乱入強盗露顕、粟田口三条白川南頬住人」とあり、その住屋に検封が加えられ、次いで破却されている。それについては「裏築地僧正為地主之間、同可加封之由」とあり、この三条白川の「強盗屋」が孤立した家屋ではなく、ある集落、ひいては町並のなかに位置していたことが推察されよう。「言継卿記」永禄一〇年(一五六七)七月二四日条には「粟田口之風流、吉田へ罷向之由風聞之間、暮々吉田へ罷向。大燈(籠)廿計有之。二間方大略有之。前代未聞、驚目事也。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報