大運河(読み)だいうんが(英語表記)Dà yùn hé

精選版 日本国語大辞典 「大運河」の意味・読み・例文・類語

だい‐うんが【大運河】

中国の南北を結ぶ運河。秦・漢・南北朝時代に開鑿、隋の煬帝(ようだい)によって天津~黄河と淮水~揚子江が結ばれ、元の時代に杭州と天津を完全に結んだ。全長約一八〇〇キロメートル。唐以後、南方経済地帯と北方政治軍事的消費地帯を結ぶ。官民の交通の大動脈であったが、清末に重要性を失った。

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デジタル大辞泉 「大運河」の意味・読み・例文・類語

だい‐うんが【大運河】

中国の東部、天津から黄河揚子江を横切り、杭州まで縦貫する運河。全長約1800キロ。隋の煬帝ようだいの時に開かれ、元代に完成。万里の長城とともに中国の二大土木事業といわれる。

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改訂新版 世界大百科事典 「大運河」の意味・わかりやすい解説

大運河 (だいうんが)
Dà yùn hé

中国の東部平原を縦断する運河で,北は北京市から南は杭州市まで全長1794km。京杭運河ともいう。万里の長城とならび称される中国の二大土木工事の一つである。その起源は春秋時代までもさかのぼり,歴代にわたって南北交通の大幹線となり,また物資輸送の大動脈として中国の経済を支えてきた。今日では往時のような重要性はなくなったが,地方的な交通輸送路としての利用価値は失われていない。

中国最古の運河は,春秋時代に宋国が済水(せいすい)岸の陶(山東省定陶県)から南東に向かって開いた菏水(かすい)で,済水と泗水(しすい)とを連絡したものである。南では呉国が今の揚州市から北へ淮河(わいが)岸の淮安市付近まで邗溝(かんこう)という運河を開き,淮河を経て泗水に通ずるようにしたので,黄河と長江(揚子江)とは水路で連絡されるようになった。戦国時代に魏国が大梁(河南省開封市)に都を定めると,西方の滎陽(けいよう)から運河を開き,黄河の水を導いて大梁に水路を通じた。これを浪湯渠といい,漢代には滎陽漕渠ともいった。大梁から南下する水路は浪湯渠のほか鴻溝,陰溝水などとも呼ばれたが,大梁付近から分かれて東に向かい,宋の開いた菏水の南方を通って彭城(江蘇省徐州市)で泗水に入ったのが汴水(べんすい)である。また前漢では都の長安に対する物資輸送の目的で,渭水の南に長安から華陰まで漕渠を開いて黄河に連絡させた。渭水は水量が少なく舟運に不便だったからである。三国時代になると,魏では南方に運河を開き汝水,潁水(えいすい)などを経て淮河の上流に通じ,汴水の開発は行わなかった。呉では都の建康(江蘇省南京市)から太湖へ破崗瀆(はこうとく)を通じて,蘇州方面と連絡するようにした。これが隋代の江南河のもとである。その後,東晋の桓温,宋の劉裕の北伐のときには,淮河,泗水を経て済水(清水)をさかのぼって黄河に入り洛陽に達した。劉裕はさらに長安まで行ったのであるが,その帰途は洛水から黄河に入り,汴渠を開いて泗水,淮河を経由し長江に到達したのである。これは久しく不通になっていた汴水が再開された重要な事件であった。

隋が南北を統一すると,旧来の水路を整備し新水路を開いて運河系統を完成したが,最初に開かれたのが広通渠である。これは584年(開皇4)に都の長安の北で渭水を導き,東方の潼関(どうかん)まで達した運河で,国都の物資を充実させるのが目的であった。次が588年に陳国討伐のために開かれた山陽瀆で,だいたいにおいて春秋時代の呉の邗溝を利用し,江都(揚州市)から北は山陽(淮安市)に達した。605年(大業1)に開通した通済渠は,洛陽から洛水を下って,いったん黄河に入り,もとの汴水に沿って南東に向かうものであった。しかし,汴水の故道そのものではなく,今の河南省開封市の南東でそれから分かれ,商丘市,安徽省宿県を経,江蘇省盱眙(くい)県に至り淮河に入ったのである。この水路は引き続き唐・宋時代まで利用された。608年には永済渠が開かれたが,これは沁水(しんすい)を南へ黄河まで導き,そこから北へ今の衛河の線に沿って涿(たく)郡(北京市南西)に達したもので,高句麗征伐のための物資輸送が目的である。611年煬帝(ようだい)は江都から山陽瀆,通済渠,永済渠を通って涿郡まで行った。長江の南では京口(江蘇省鎮江市)から今の杭州市に至る江南河が,すでに610年に開かれている。このようにして延長2700kmに及ぶ運河系統が成立したのであって,その要衝を占める洛陽は全中国の経済中心となった。煬帝はただ遊楽と戦争のために運河を開いたようにいわれるが,当時すでに南方の開発は著しく,その豊富な物資を運河によって北方に輸送しなければ,国が維持できなくなっていたのである。

 なお大運河の系統には入らないが,長江の支流である湖南省の湘江上流と,広西チワン(壮)族自治区の桂江上流との間には霊渠という運河があって,古く秦の始皇帝のときに開かれたといわれる。桂江を下れば珠江に入るのだから,長江と珠江とは相通ずるわけで,今の広州市と北京市とは隋代からすでに内陸水路で結ばれていたということができよう。

 唐でも洛陽が運河交通の中心で,その北東の黄河南岸に位置する河陰(滎陽)から,隋代の通済渠により汴州(河南省開封市)を経て淮河に連絡したのである。隋の通済渠は唐代には広済渠といわれ,一般には汴河の名が通用した。河陰から黄河をさかのぼって長安に達するには,途中で三門峡の険所を避け,黄河の北岸で物資を車に積み換え陸運せねばならなかった。この陸運の部分を短縮して効率を上げたのが,裴耀卿(はいようけい)によって733年(開元21)から行われた転般法で,3年間に700万石(約50余万t)の米穀を輸送することができたという。744年(天宝3)には長安への物資輸送をいっそう円滑にするため,漢の漕渠,隋の広通渠のあとをついで長安から華陰まで漕渠が開かれた。これは華陰で渭水に入り,さらに黄河に通じたのである。安史の乱ののち汴河の水運が杜絶したときには,劉晏が運河全線にわたって輸送法の大改革を行い,国都の危急を救った。唐の運河はただ国都への物資供給だけではなく,しだいに国内経済の大動脈として,その機能が国運を左右する重要な存在となったのである。

 唐王朝が国力の基礎を南方の経済に依存しながら,国都が長安にあるためたえず財政に苦しんだ経験から,その後の王朝は都を東方に移し運河と直結するようになった。五代のとき後唐が洛陽を都としたほかは,後梁,後晋,後漢,後周の諸国が汴河の要点を占める汴州に都をおいたのはそのためである。宋もやはりここに都をおいて開封府といい,汴河を江淮地方からの物資輸送路の枢軸とした。また汴河を東方の五丈河(広済河)に連絡させて山東各地と通じ,南では蔡河(恵民河)によって淮河に達するようにした。以上の3河に黄河を併せて四河と称し,国都に食糧物資を集中する生命線としたのである。その中心をなす汴河の役割はもっとも大きく,北宋の盛時には年間600万石(約70万t)の米穀を運んだといわれ,沿岸の都市が商業地として繁栄した。したがって,宋王朝は汴河を維持するために非常な努力を払い,その水運の確保をすべての水利政策の基調としたのである。しかし,12世紀末から始まった黄河道の南東への移動は運河に大影響を及ぼすこととなった。淮河が南に奔流する黄河の水を受け入れることができず,溢れて下流に洪沢湖を形成し運河の堤防に脅威を与えたのである。ときあたかも金と南宋との対立時代で,南北の交通は杜絶し運河も放置せられた。南宋では都が臨安(杭州)に移ったため,江南運河がもっぱら食糧物資の補給路として利用された。

元は今の北京市に都(大都と称した)をおき,南北に直通する運河を開いて,ほぼ現在の大運河の形態を整えた。その結果,南から銭塘江,長江,淮河,黄河,海河の五大水系を一体化することができたのである。ただし,初期には揚州運河(隋・唐以来の山陽瀆)によって北上し,淮安から黄河(淮河の故道)をさかのぼり中灤(ちゆうらん)(河南省封丘県の南)に至って陸運に変え,淇門(きもん)(河南省淇県の南)に達して舟運に転じ御河に入った。御河とは隋・唐の永済渠に当たり,淇門からのちは臨清を経て直沽(天津市)より大都に向かったのである。

 南北に貫通する運河系統は,1283年(至元20)から92年にかけ,済州河,会通河,通恵河の3区間に分けて開かれた。第1の済州河は83年に開かれたもので,徐州の北の茶城から北西に向かい,済州(山東省済寧市)を経て須城県(山東省東平県)の安山に達し大清河(済水の故道)に連絡したのである。それから大清河を下って海に入り,大沽(天津市の東)を経て大都に至ることもあったが,のちには大清河岸の東阿(山東省東阿県)から陸運によって臨清に至り御河に入るようになった。元の初期まだ運河の整備されなかったころは,蘇州の瀏家口(りゆうかこう)(江蘇省太倉県)から海運で山東半島を回り大沽に達することもあれば,山東半島を大回りする海路を短縮するため,膠州(こうしゆう)(山東省膠県)から萊州(らいしゆう)(山東省掖(えき)県)まで膠萊運河を開いたこともあった。第2の会通河は89年に開かれ,須城県の安山から東平(山東省聊城県)を経て臨清に至って御河と会したのである。その後は御河により直沽を経て大都に達するのであって,会通河の開削の結果,済州河と御河とは完全に水路で結ばれ,部分的にも陸運を併用する必要はなくなった。ついで92年には第3の通恵河が開かれた。これは郭守敬の設計によるもので,北京から通州(北京市通県)までをいい,通州からは白河によって直沽に達した。ここに3区にわたる運河がつぎつぎに完成し,今日の北京から杭州に至る約1600kmの大運河体系ができ上がったのである。

 明代の運河はほとんど元代のままを受けついでいて,南からつぎの6段に分けられた。(1)杭州から鎮江までもとの江南運河を利用したもので,南部を浙漕,北部を江漕という。(2)鎮江の対岸の揚州から淮安に至り,清口から淮河に入って黄河に会するまで,これを湖漕または南河ともいう。(3)清口から黄河をさかのぼり,徐州の北の茶城に至り元代の済州河と会するまでで,河漕という。(4)茶城から済州河,会通河を経て臨清に至り衛河(御河)と会するまでで,閘漕(こうそう)という。河漕,閘漕を併せて中河ともいった。(5)臨清から衛河によって北に向かい,直沽に至って白河に会するまでで,衛漕または北河ともいう。(6)直沽から白河により通州に至るまでを白漕といい,そこから大通河(通恵河)をさかのぼって北京に達したのである。

 このようにして,大運河を主軸として全国の漕運網が組織されたが,明の中期,16世紀になると黄河の決壊が激しく泥砂が運河道を埋めて,舟運に渋滞をきたし始めた。とくに1569年(隆慶3)から毎年黄河は邳州(ひしゆう)(江蘇省邳県の南)で大決壊を起こし,舟運が杜絶したので,その対策として黄河を淮河に合流させ,河幅を広くして淮河の清水をもって黄河の泥砂を東方に排泄しようとしたのである。これは明・清両代を通じて黄河・運河の根本的な治水策とされたが,黄河の大量の泥砂には対抗できず効果は少なかった。上記(3)の河漕には徐州の下流に徐州洪・呂梁洪の2険所があって舟運を妨げていたので,1604年(万暦32)(4)の閘漕の東に新しく運河道が開かれた。これは済寧(済州)から南東に向かい沛県(はいけん)(山東省沛県)の夏鎮(山東省微山県),韓荘,台児荘を経て河(かか)を通って宿遷県(江蘇省)の董家溝(とうかこう)で黄河に合したのである。黄河の2険所を避けるとともに,泥砂に埋もれた旧運河道に代わって開かれたもので,清代を経て今日までこれが大運河の本道となっている。

 いったい運河の維持は,水源を付近の河,湖から導いて水量を確保し舟運を円滑にするとともに,黄河の泥砂が堆積しないように排泄することであった。運河の水量を確保するためには灌漑用水の不足は免れず,水量の余剰があれば付近の田畑を犠牲にして放流せねばならないという矛盾もあった。黄河は淮河の下流と一つになって東流するが,泥砂の堆積のため水が逆流して運河に入り,さらに運河によって長江に流れこむようなことも起こったのである。

 清もほとんど明代の運河をそのまま受けつぎ,初期のあいだは管理がよく行きとどいたので,17世紀の中ごろから約1世紀は中国史上まれにみる運河の機能が完全に果たされた時代だったといわれる。しかし,黄河が泥砂のため下流はしだいに天井河となり,毎年のように決壊を起こして運河に流入し,運河そのものも河底が高くなって,18世紀の末(嘉慶末年)にはついに舟運不能の状態に陥ってしまった。淮河の水によって黄河の泥砂を押し流すこともやがて不可能となり,1825年(道光5)には黄河の水を運河に引き入れて水量を保持する方策がとられた。その結果はもちろん運河が黄河の泥砂で埋められ,たちまち淮河岸の清江浦(江蘇省清江市)から南,高郵(江蘇省高郵県)まで舟運が杜絶するにいたった。そこで,翌年になると江南地方からの物資輸送はすべて海運に切り換えられ,河運は全面的に廃止される方向にむかう。清末には運河の管理も十分に行われなくなったところへ,53年(咸豊3)には太平軍が揚州を占領し,57年には黄河が河南省の銅瓦廂で決壊を起こし北方に流路を変えた。そのため運河は一時的に機能を復活したこともあるが,1900年(光緒26)以後は漕運という制度も廃止され,運河は完全に本来の使命を失ってしまったのである。これには海運の発達とともに,津浦鉄道(天津~浦口間,1912完成)がほぼ大運河の線に沿うようにして敷設されたことも大きな影響を与えた。

 したがって今日,大運河は南北を貫通する水運系統を形成しているのではなく,地方的な交通輸送路として利用されているにすぎない。部分的には大改修が行われ小汽船を通ずるようになったところもあるが,全体としてみれば灌漑用水路として重視されている地域も多いようである。一貫した水路と考えた場合は次の5区に分けるのが便利であろう。(1)北運河。北京市の通県から天津市まで。(2)南運河。天津市から臨清市(山東省)まで。(3)山東運河。臨清市から台児荘(山東省)まで。そのうち黄河以北を北運,以南を南運という。(4)江北運河。台児荘から清江市(江蘇省)を経て長江北岸の瓜州まで。このうち清江市までの淮河以北を中運河,淮河以南を裏運河という。(5)江南運河。長江南岸の鎮江から杭州まで。杭州から南には銭塘江対岸の西興に始まり紹興を経て寧波市に至る運河があり,浙東運河あるいは西興運河といわれるが,いわゆる大運河の系統には含まれていない。

運河の幅は宋代の汴河についていえば約30~45m(10~15丈),深さは約3m(1丈)で,もちろん場所により相違はあっても,明・清時代までこれが運河の標準的な規模であった。河の両岸には並木が植えられ,流れをさかのぼって舟を引く必要のあるところには牽路(けんろ)が作られていた。運河には随所に閘を設け,必要に応じ開閉して水量を調節し,また水位に上下があるところでは堰(えん)を築いた。堰は埭(たい),壩(は)ともよばれ,河道に人工的な傾斜面を作って,舟を綱で引き上げあるいは滑り下ろす設備で,人力によるほか牛に轆轤(ろくろ)を引かせることもあり,その間は荷物を舟から下ろして車で運ぶ場合もあったのである。しかし,これには労力を要し舟の損傷も免れなかったので,堰を廃止して閘に代えられることが多かった。閘は牐(そう)ともいい,唐代には斗門と呼ばれたもので,木造からしだいに石造に変わり規模も大きくなった。また運河道が湖沼の中を通過するときには,風浪の危険を避けるため湖沼中に石堤を築いて舟運の安全を計ったこともある。明代における堰,閘築造の一例をあげれば,臨清から黄河までの間は地勢に上下差が大きく,運河の水がしばしば枯渇した。そこで1411年(永楽9)その中間に2堰を築いて汶水の水を蓄え,南旺(山東省汶上県の南西)から南北に分流させ,北は臨清まで17閘,南は徐州まで21閘を設けて水量を確保,調節したのである。1489年(弘治2)には臨清・直沽間に2減河を開いて,運河の洪水を渤海湾に排出することを計った。

 運河の河底に堆積した泥砂の浚渫(しゆんせつ)は,古くから毎年定期的に行われたものであるが,地域的には不可能なところもあり,黄河の泥砂には手のほどこしようもない。歴代王朝は黄河の猛威と戦いながら,いかにして運河を守るかということに全力を尽くした。運河対策はただ漕運(租税として徴収した物資,とくに米穀を運河によって都に輸送すること)を確保することだけで,運河道の整備はむしろ第二義におかれ,まして一般の運輸,灌漑などは顧みられなかったのである。

 運河関係の官庁も,運河そのものより漕運を取り扱うものの方が重視せられた。漕運を専門とする官は,唐代7世紀の初めに水陸運使がおかれたのに始まり,宋代には発運使が真州(江蘇省儀徴県)と泗州(安徽省泗県)とに駐在して,全国各路の転運使を指揮統轄する形をとったのである。元では都漕運司を大都と揚州,済州において漕運を統轄させるとともに,水利の専門官として大都に都水監をおき,全国各地に河渠司を設けた。明では漕運の最高責任者として漕運総督と漕運総兵官とがあったが,とくに総督は河道の管理を兼ねて権限が大きかった。清になると漕運総督は淮安に駐在し,北京の倉場総督と連絡をとって漕運を確保するのが責任であった。明代と違うのは,河道の管理者として別に河道総督がおかれたことである。これは1729年(雍正7)におかれたもので,江南河道総督は清江浦に,河南山東河道総督は済寧に駐在し,運河を南北に分けて(済寧から北は北河,南は南河)管理し,1855年(咸豊5)に黄河道が北に移るまで続けられた。中華民国の初めには河北・山東両省の運河を管理する督辧運河工程局,ついで督辧江蘇運河工程局が設けられたが,1934年には水利行政は全国経済委員会に一元化されることとなった。運河については,とくに新しい計画が発表されたこともない。中華人民共和国では一時的に運河の復興が話題に上ったことはあるが,今日これを全国的な輸送路として蘇生させようという動きはまだ見られないようである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大運河」の意味・わかりやすい解説

大運河
だいうんが

万里の長城とともに旧中国の残した二大土木事業といわれ、南の経済圏と北の政治圏とをつなぎ歴代王朝の基盤を養った重要施設。戦国時代以来、諸王朝が、西から東へ流れる黄河、淮水(わいすい)、揚子江(ようすこう)の本流・支流を巧みにつなぎ、深くさらって、営々としてつくりあげた大水道。現在の北京(ペキン)と浙江(せっこう)省杭州(こうしゅう)を結ぶ総延長おおよそ1800キロメートル。

 まず、紀元前5世紀、江蘇(こうそ)省淮安(わいあん)付近と揚州付近とで、淮水と揚子江とを連絡する邗溝(かんこう)が開かれ、約1世紀後に河南省滎陽(けいよう)付近から黄河を分流し、開封(かいほう)を過ぎ淮水に至る古汴河(こべんが)が開かれた。これらはおもに軍糧輸送を目的としたが、漢代からは租税収入の一部(漕糧(そうりょう))を首都へ運ぶために用いられ、漕運(そううん)という制度がつくられた。三国から南北朝時代(3~6世紀)には江南の開発が進み、その経済力は江北をしのいだので、589年全国を統一した隋(ずい)は、江南の経済力を首都に結び付け、加えて旧南北両朝勢力を交流融和させるために、運河を全国的視野にたって整備した。初め、584年西安と黄河との間に広通渠(こうつうきょ)(富民渠)、587年淮安―揚州間に山陽涜(さんようとく)(邗溝の改修)、605年黄河畔の河陰から開封、商邱(しょうきゅう)を経て宿遷付近で淮水に至る通済渠(つうせいきょ)、610年儀徴の対岸から蘇州を過ぎ杭州に至り、揚子江と銭塘江(せんとうこう)とを連ねる江南河を開き、この4河によって江南と関中(陝西(せんせい))とを直結した。この間、608年高句麗(こうくり)征討の軍糧輸送のため永済渠(衛河の改修)を開いたので、黄河畔から北京への路もでき、ついに杭州―北京間が水路で結ばれた。いわゆる大運河はこうしてできあがった。

 この大事業を完成したのは隋の煬帝(ようだい)である。しかし、このために重税、苛役(かえき)を課せられ、兵役に駆り立てられた農民が反抗し、隋はその後10年にして滅んだ。煬帝は人君の資に欠けると酷評されるが、大陸における経済の重心が江南に移動した大変動期に、300年にわたる南北抗争を終結統一する政治課題を解決するため大運河を完成させたことの歴史的意義は大きい。唐が華麗な文化を創造し、史上まれな盛時を現出したのは、大運河が内外の交通に大きな活力を与え、海港に連なってイスラム商人を迎えるなど、シルク・ロードにはるかに勝る機能を発揮したためである。

 宋(そう)代には、黄河水運の難所である三門峡の険を避け、大運河に連なる南海貿易の隆盛に対応するため、首都を汴京(べんけい)(開封)に移し、通済渠を改修して汴河と改称し、江南からの距離を短縮したので、漕糧の輸送額は、唐代の年間約300万石(1石は約60リットル)よりも、100万~200万石も多かった。

 元(げん)以後、首都は大都(北京)となり、江南からは北東へ遠く離れた。そこで元は、初め御河(ぎょか)(永済河)を利用したが、迂回(うかい)が甚だしく、ついで淮河と大清河とをつなぐ済州河(さいしゅうか)、大清河と御河とを結ぶ会通河(かいつうか)を開いて、大運河を東方寄りのルートに短縮した。しかし舟行困難のため、運河輸送をいっさい断念、上海(シャンハイ)付近から天津(てんしん)に至る海上輸送によらざるをえなかった。明(みん)代には、元代の会通河の改修に成功し、1411年、ほぼいまみるような大運河が機能を発揮し、年400万石(1石は約170リットル)の漕糧を安定的に輸送し続け、清(しん)代もこれによった。しかし、20世紀初め汽船、汽車による輸送の発達によって本来の役割は終わった。

 1911年の辛亥(しんがい)革命後の国内の混乱もあって運河の復旧は行われず、また河道の変化もあり、現在は不通となっている部分が多い。しかし、全面復旧の計画もあり、また1949年の解放後の改修により3000トン級の汽船の航行可能な部分もあり、部分的には水運に利用され、また農業用水としても利用されている。

[星 斌夫]

『星斌夫著『大運河』(1971・近藤出版社)』『星斌夫著『大運河発展史』(平凡社・東洋文庫)』


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百科事典マイペディア 「大運河」の意味・わかりやすい解説

大運河【だいうんが】

中国の南北を結び,交通・運輸の大動脈であった運河。万里の長城と並ぶ中国史上の二大土木工事の一つである。戦国末〜秦漢に部分的には運河が開かれていたが,それを利用して文帝は広通渠(長安〜黄河,584年),煬帝(ようだい)は通済渠(黄河〜淮水,605年)・【かん】溝(かんこう)(淮水〜長江,605年)・永済渠(黄河〜北京,608年)・江南河(長江〜杭州,610年)を完成し,唐・宋・元・明代を通じて改修された。清の後半には運河の役割はうすれたが,地方的な交通路としての利用価値は失われていない。
→関連項目嘉興杭州江蘇[省]済寧常州滄州蘇州台児荘鎮江通州天津徳州微山湖無錫揚州淮陰淮河

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大運河」の意味・わかりやすい解説

大運河
だいうんが
Da-yün-he; Ta-yün-he

中国の華北と江南の間をウェイ(衛)河ホワン(黄)河ホワイ(淮)河チャン(長)江などの河川を利用して開削し,連結した水路。全長 1794km。江南の豊かな物資を華北にある首都に運ぶとともに,華北,華中を政治的に結合するために長い間重要な役割を果たした。起源は,古くにまでさかのぼるが,南北朝の騒乱期に壊廃したので,朝は開皇4(584)年から大業6(610)年に,広通渠,山陽涜(邗溝),通済渠永済渠,江南河などを改修し,面目を一新した。隋の民は苦役を被ったが,は大いに利益を受けた。のち宋,の南北対立時代に存在意味が薄れ,壊廃も目立ったが,朝が興ると至元20(1283)年にほかに済州河,同 26年に会通河を開き,従来の迂回の不便を避けて大都(→ペキン〈北京〉直轄市)に直通させ,今日の大運河の全容ができあがった。を通じて活用されたが,近代交通の発達に伴ってやや面目が薄れた。2014年,世界遺産の文化遺産に登録された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「大運河」の解説

大運河(だいうんが)

旧中国の南方経済地帯と,北方政治軍事的消費地帯とを連絡する水路。官民の交通の大動脈であったが,清末に近代的汽船の進出により海路輸送が発達して著しく重要性を減じた。すでに秦漢,南北朝時代頃に黄河,泗水(しすい),淮水(わいすい)長江を結ぶ運河や江南デルタの運河は個別に開かれてきたが,南北を統一した隋の煬帝(ようだい)により初めて永済渠(えいせいきょ)(黄河‐天津),通済渠(つうせいきょ)(黄河‐淮水),山陽涜(とく)(淮水‐長江),江南河(鎮江‐杭州)が連絡開通し,宋をへて元に至り,済州河(せいしゅうが)(淮安‐大清河),会通河(大清河‐永済渠)が開通し,南方杭州より北方天津に至る今日のいわゆる大運河が完成した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「大運河」の解説

大運河
だいうんが

中国の華北と江南を直結する運河
隋の煬帝 (ようだい) が洛陽を中心に長安・杭州・涿郡 (たくぐん) をY字型に結ぶ原型をつくった。以後,南方物資の輸送,南北統合のため,その維持に努力が払われた。大都を都とした元は輸送を急務とし,淮陰 (わいいん) ・済寧 (せいねい) ・臨清に新水路を開き,今日の運河系統を完成。北京遷都後の明・清もその整備に努力し,現在も使用されている。

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世界大百科事典(旧版)内の大運河の言及

【元】より

…とくに江南の特産品たる絹織物(江浙,四川),茶(江浙,四川,湖広),砂糖(四川,江浙),紙(江西,江浙),陶磁器(江西,江浙),漆器(江浙)の奢侈商品は大都を中心とする畿内に巨大な新市場を得て両宋期に劣らぬ拡大再生産に活気を帯びるに至った。 かくして南北運輸の大動脈である大運河は元朝早々に淮安から大都にまで延長されたが,元朝ではとくに年間300万~400万石に及ぶ漕運すなわち江南税糧の京師輸送を海運に切り換えたため,運河による江南物資の輸送量はそれだけ増大したはずである。このような状況のもとで,おのずから商業は盛んになり都市は発展する。…

【江蘇[省]】より

…串場河(せんじようが)をもって交界とするが,一括して淮南平原ということもある。江淮平原は大運河が南北に貫通し,その東側は周辺が高く盆形をなしている。これは黄河,淮河,長江によって運ばれ海底に沈殿した砂泥が,海流のため海岸地帯に堆積し,西方からの流水が海に入るのを妨げていたが,長年の間に沼沢から平原に変じた結果である。…

【隋】より


[煬帝の時代]
 さて2代目煬帝は,父文帝の名君ぶりとは対照をなす暴君として広く知られている。事実,兄の楊勇との後継争いに勝利して帝位を襲うと,ただちに東都洛陽城の再建,北は涿郡(たくぐん)(北京市付近)から南は江南の杭州(浙江省)に至る長大な運河の開削(通済渠,永済渠,邗溝(かんこう),江南河)といった一連の大土木工事に着手した(大運河)。対外的にも積極策をとり,突厥への行幸,吐谷渾(とよくこん)などへの出兵,高句麗に対する3度の征討行動を展開し,加えてぜいたくな遊興の生活にふけった。…

【水運】より

…中国では南方の沖積平野,とくに長江(揚子江)中下流域がもっとも豊かな農業生産力をもつが,この経済力を開発し,それを伝統的に北方に中心をもつ政治力,文化力と結びつけることにより,全国統一の力となしえたのが隋・唐時代であった。その背景となったのは,長江中下流域と,これを北方につなぐ大運河の水運であった。これより南方の物資を北方へ輸送する漕運は,国家の死命を制する重要なことになり,水運の支配をめぐる争いは全国統一につながった。…

【輸送】より

…早くから道路を整備し,河川には橋梁をつくり,要地には関津を置いたほか,駅伝などの交通・通信の設備を併置した。その一部ないし主要部に河川湖水を利用したところがあり,最もよく知られているのが大運河で前述(1)のルートに当たる。大運河の完成は隋代のことであるが,それが効力を十分に発揮したのは宋代以後であり,穀倉地帯である江南の産米を北方の政治の中心地に運ぶ輸送路として重要な役割を担っていた。…

※「大運河」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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