敦賀(読み)つるが

精選版 日本国語大辞典 「敦賀」の意味・読み・例文・類語

つるが【敦賀】

[一] 福井県中央部の地名敦賀湾に面する。古来、大陸との海上交通の要港であり、江戸時代、北陸道と若狭(わかさ)路との分岐点の宿駅西廻航路の寄港地として繁栄。明治以後は第二次世界大戦前までウラジオストク朝鮮との間に定期航路が開かれていた。化学・セメントなどの工業が行なわれ、水産加工業も盛ん。気比(けひ)の松原・気比神宮などがある。昭和一二年(一九三七市制
※霊異記(810‐824)中「磐嶋は〈略〉越前の都魯鹿(ツルガ)の津に往きて」
[二] 明治四年(一八七一)の廃藩置県後、若狭国の小浜県と越前国の鯖江県とを合わせてできた県。のち越前国北部の足羽県合併。同九年石川県・滋賀県に分属。

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デジタル大辞泉 「敦賀」の意味・読み・例文・類語

つるが【敦賀】

福井県中南部の市。もと酒井氏の城下町敦賀湾に面して自然の良港をなし、古来、日本海沿岸や大陸交通の要地として繁栄。気比けひ神宮敦賀発電所がある。人口6.8万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「敦賀」の意味・わかりやすい解説

敦賀[市] (つるが)

福井県中央部,若狭湾東端の敦賀湾奥に臨む港湾都市。1937年市制。人口6万7760(2010)。古来,大陸人の来着で知られた自然の良港で,背後の山地は断層谷によって容易に琵琶湖北岸へ越えることができた。このことがここを畿内から北陸に至る門戸としていっそう重要にし,中・近世を通じて日本海側諸地方の物資を中継して栄えた。1882年北陸本線が通じ,99年には開港場となり,第2次世界大戦前は朝鮮の羅津,ソ連のウラジオストク間に定期航路をもつ国際港で,シベリア鉄道と結んでヨーロッパへの最短路であった(2006年ウラジオストク航路再開)。戦後は木材輸入が主となり,対岸貿易の困難さから港勢は低迷した。市街は旧笙(しよう)ノ川と児屋(こや)川間の浜堤を占め,背後の低湿な三角州に戦後,人絹,木材,化学,セメント,電気機器などの工業が進出した。水産物集散地で,コンブ製品とかまぼこが特産物である。越前国一宮気比(けひ)神宮のほか,市街の西に気比の松原(名),柴田氏庭園,北に金崎(かねがさき)城跡(史)などがある。また,1969年市域北西部の敦賀半島先端に近い浦底に日本原子力発電株式会社の敦賀発電所が建設された。敦賀駅でJR小浜線を分岐し,北陸自動車道敦賀インターチェンジがある。
執筆者:

古代には角鹿(つぬが)と呼ばれた。《日本書紀》に崇神天皇の時〈額(ぬか)に角おひたる人,一の船に乗りて,越の国の笥飯浦(けいのうら)に泊れり。故(かれ),其処をなづけて角鹿と曰ふ〉という所伝を載せる。この人は意富加羅(おおから)国の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と名のったという。この地が早くから朝鮮方面との交渉をもったことを反映するものである。〈敦賀〉の字は731年(天平3)の越前国正税帳に初めて見える。《日本霊異記》には,聖武天皇の世,平城京左京の住人楢磐嶋(ならのいわしま)が大安寺の修多羅分(すたらぶん)の銭30貫を借り,越前〈都魯鹿(つるが)の津〉に持参して交易したことが記され,《延喜式》によると,北陸道諸国から京都へ進納する官物はいずれも敦賀津を経由したことが知られる。この地にはまた松原駅が置かれていた。大陸との通交のために松原客館も設けられ,919年(延喜19)若狭国丹生浦に来た渤海使の一行をここに遷送したのをはじめとする渤海使の接遇や,その後の宋商の来航に際してしばしばこれが利用された。1065年(治暦1)9月1日の太政官符には,敦賀津において勝載料と号して運上調物を割き取ることを禁じたことが見える。これらはいずれも敦賀が要津であったことを示す事実である。

 中世の敦賀は日本海岸屈指の要港として,いっそう繁栄した。鎌倉中期,延暦寺領越前国藤島荘上下郷から進納される勧学講料米1680石が敦賀に運ばれ,この地の問の監督の下に江丁(えちよう)の手で陸揚げされ,馬借により近江海津に送られたこと,その際,問の得分として100石に1石,海津までの駄賃として1石に2斗が給される定めであったことが知られ(勧学講条々),あるいは鎌倉末期,通行税として敦賀津枡米の徴収が行われ,それが地元の気比社の所得となったり,ある時には奈良西大寺や山城の醍醐寺,祇園社など中央社寺の修造料に充てられているなどの事実は(《吉田家文書》《西大寺文書》),物資集散地としての敦賀の繁栄を物語っている。《太平記》巻十七が恒良・尊良両親王や新田義貞らの船遊びのことを記すくだりに,〈嶋寺ノ袖ト云ケル遊君御酌ニ立タリケル〉と見え,津に遊女がいたことが知られるのも,その繁栄ぶりをしのばせる。戦国期には,川舟座,河野屋座など廻船業者の組織する舟座があり,大名朝倉氏の保護・統制の下にあった。交通の要地はまた軍事的要衝でもある。源平争乱の時,源義仲軍に敗れた平通盛が〈津留賀城〉に籠り(《吾妻鏡》),《太平記》巻三十九には,元寇に際し東山道・北陸道の兵が敦賀の津を固めたと記し,また1336年(延元1・建武3)の秋,後醍醐天皇の旨を奉じた新田義貞は,北国に落ちて金崎城に拠った。朝倉氏が一族を郡代としてここに置いたのも,敦賀の重要性にかんがみてのことである。
執筆者: 1573年(天正1)朝倉氏滅亡後,織田信長は敦賀に武藤舜秀を置いた。武藤氏は,当初信長の代官として敦賀にあったが,75年越前一向一揆が信長によって圧伏させられたのを契機に敦賀の領主となった。83年賤ヶ岳(しずがたけ)の戦のあと蜂屋頼隆が敦賀に入り,笙ノ川西岸に平城を築いた。この城は1615年(元和1)の一国一城令によって破却された。蜂屋氏のあと1587年大谷吉継が入部したが,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に西軍にくみし,敗死した。合戦の直後は徳川氏の代官権田小三郎の手にあったが,同年末には越前一国を領することになった結城秀康の所領の一部となった。23年福井藩主松平忠直が配流されたあと一時幕領となる。翌24年(寛永1)当時若狭小浜藩主であった京極忠高に与えられた。34年京極忠高が出雲松江に転封になったあとに,老中の一人であった酒井忠勝が入り,敦賀もその領地の一部となり,2人の町奉行の支配下に置かれた。

 近世初期の敦賀は,北国諸大名の領主米の運送から保管・販売にいたるすべてを一括して握り,巨富を築き上げたいわゆる初期豪商,道川(どうのかわ)氏,小宮山氏(高島屋)などを中心に大きく発展する。江戸時代に入ると北国の領主米が上方市場へ送られる中継港として,若狭の小浜とともに最盛期を迎えた。64年(寛文4)には,2670艘が入津し,米75万6000俵,大豆10万俵が陸揚げされた。その前年の63年,敦賀の町数は41町,家数2903軒,人口1万5101人を数えた。82年(天和2)には,北国諸大名17人の蔵宿が置かれていたほか,俵物,銅,鉄,松前物,材木,紅花青苧(べにばなあおそ),多葉粉,四十物(あいもの),塩,茶,御服の諸問屋,地域別の国問屋があった。しかし,1672年河村瑞賢によって西廻航路が整備されるなかで,敦賀への北国からの入津船,入津量は激減し,享保期(1716-36)には最盛時の1/3~1/4にもなり,その後も減少しつづけた。だが,安政~文久(1854-64)のころ諸大名の京都警護役がはじまり,また長州征伐などで下関海峡の通航が不自由になるなかで,敦賀への入津船が増加し,一時の活況を呈した。一方,港の衰微とは別に,江戸時代中期以降,北前船の船主が敦賀にも多く現れ,活発な商業活動を展開した。

 1864年(元治1)武田耕雲斎をはじめとする823人の水戸浪士は,一橋慶喜に心事を訴えるために上洛しようとするが,敦賀において派遣された諸大名の軍勢に行く手をはばまれ,降伏し,全員が処刑された(天狗党の乱)。
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旺文社日本史事典 三訂版 「敦賀」の解説

敦賀
つるが

福井県中央部,敦賀湾に臨む港町
奈良時代,渤海 (ぼつかい) の使節のために松原客館が置かれた。平安時代以後,北陸の荘園年貢の輸送地として,日本海より琵琶湖を経て京都と結ぶ要地となり,鎌倉時代以後,問丸 (といまる) も発達した。戦国時代には港湾都市として発展。1937年市制を施行。

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