アユタヤ(英語表記)Ayutthaya

デジタル大辞泉 「アユタヤ」の意味・読み・例文・類語

アユタヤ(Ayutthaya)

タイ中部の古都。首都バンコクの北約60キロメートル、チャオプラヤー川支流の川中の島にある。1350年から1767年にかけてアユタヤ朝の都が置かれ、東南アジア有数の交易港として栄えた。稲作が盛ん。1991年、かつての王宮や寺院などがあるアユタヤ歴史公園をはじめ、周辺の古都が、「古都アユタヤ」の名称で世界遺産文化遺産)に登録された。

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精選版 日本国語大辞典 「アユタヤ」の意味・読み・例文・類語

アユタヤ

(Ayǔtthǎya) タイ中部、メナム(チャオプラヤ)川下流に位置する古都市。一三五〇年の建設以来、一七六七年まで、歴代タイ国の首都。一六世紀から諸国商船同地を訪れ、日本人町が栄え、山田長政が活躍した。アユチャ。

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改訂新版 世界大百科事典 「アユタヤ」の意味・わかりやすい解説

アユタヤ
Ayutthaya

タイ中部の都市。人口6万1000(1990)。メナム,ロッブリー,パーサック3河川の合流点に位置し,バンコクから鉄道で約65km北方にある。メナム川水上交通の要衝であり,市街は運河水路に囲まれた島状になっている。1351年ラーマティボディ1世によって建設され,1767年ビルマ軍の攻撃によって陥落するまでの400年余にわたり,アユタヤ朝の首都として繁栄をきわめた。強大なアユタヤ朝の富は外国貿易によって築かれ,特に17世紀以降,アユタヤは東南アジアにおける最大の貿易基地となった。ポルトガル,スペイン,オランダ,イギリスなどの西欧諸国との交易が盛んとなり,タイの地方物産はもとより,中国,日本からの商品の集積地として栄えた。囲郭都市としてのアユタヤの南方には,メナム川に沿って外国人の居留地が展開し,ほとんどが自治を許されていた。17世紀には日本人移住民も山田長政の統率下に居留地に居住しておもに商業に従事していた。1767年の陥落以降,タイの首都は下流のトンブリー,さらにバンコクに移り,アユタヤは一地方都市にすぎなくなった。

 メナム・デルタの中心に位置するアユタヤは,古くからの稲作の中心地の一つである。付近にはデルタでも最も深く湛水する地域がひろがり,農民は伝統的に生育期間の長い晩生種の稲や,深い洪水に耐える浮稲を栽培している。2m以上にも達する洪水の中で生育した稲は,全長5~6mにもなり,舟の上から稲刈りをする光景もしばしば見られる。アユタヤ近郊には,20世紀初頭以来,輸出米生産の急速な拡大にともない,大規模な新田開拓が進行した。その過程で,小農民の土地占取はもとより,王族,官僚貴族による大土地所有が進行し,多くの小作農が生まれた。今日においても,この地域は,近接するパトゥムターニーとともに,中部タイにおける土地所有問題の集積する地域の一つに数えられる。
南洋日本人町
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百科事典マイペディア 「アユタヤ」の意味・わかりやすい解説

アユタヤ

タイ中南部,チャオプラヤー(メナム)川に臨む古都。正しくはプラナコーン・シーアユタヤーともいう。14―18世紀アユタヤ朝の都として栄え,17世紀にはオランダ,英国,ポルトガル,中国,日本などの東南アジア交易の拠点となって外国人が多く居留した。山田長政らが活躍したのもこの地である。付近はタイ最大の米作地帯。近年は精密機械工業などもある。アユタヤ朝の遺跡が残る観光地としても有名。アユタヤと周辺の歴史地区群は1991年,世界文化遺産に登録。24万9049人(2006)。→日本人町
→関連項目タウングー朝南洋日本人町

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アユタヤ」の意味・わかりやすい解説

アユタヤ
あゆたや
Ayutthaya

タイ中部、アユタヤ県の県都。首都バンコクの北約60キロメートル、チャオプラヤー、パサック、ロプブリーの3河川が合流する地点の川中島にある。人口7万5916、同名の県の人口は72万7277(2000)。かつての王都で、1350年ウートング侯がこの地で即位してラーマティボディ1世となり、アユタヤ朝を開いた。アユタヤ朝は、1767年ビルマ(現ミャンマー)に攻略されるまでの約400年間、インドシナ半島中央部の強国として栄えた。当時は東南アジアにおける主要な海外交易港で、諸外国人が往来し、日本人町もあった。またアユタヤ周辺のデルタは広大な浮稲(うきいね)地域で、その安定した稲作は王朝の経済基盤であった。現在も稲作が盛んで、大穀倉地域を形成する。また河川、人工水路により舟運が発達している。旧王都として数多くの遺跡のほか、国立博物館もあり、国外から多くの観光客が訪れる。1991年に周辺の古都とともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

[友杉 孝]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アユタヤ」の意味・わかりやすい解説

アユタヤ
Ayutthaya

正式名称はプラナコンシアユタヤ Phra Nakhon Si Ayutthaya。タイ中部,バンコク北方 75kmにある町。アユタヤ県の県都。パーサック川がチャオプラヤー川左岸の分流ロッブリー川に合流する地点にある。 1350~1767年アユタヤ朝の首都として繁栄。 18世紀中頃ビルマ軍の侵攻を受けて王宮や大寺院は破壊されたが,ラートブルナ寺,マハータート寺などの数々の遺跡が残り,周辺の遺跡群とともに 1991年世界遺産の文化遺産に登録。 17世紀初頭には日本町があり,1500人以上の日本人が居住したといわれ,山田長政の記念碑がある。稲作地帯の商業中心地の一つで,バンコクから鉄道,道路が通じている。人口6万 511 (1986推計) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「アユタヤ」の解説

アユタヤ

タイ国の首都バンコクの北方に位置する都市。アユタヤ朝(1351~1767)の王都として栄えた。15世紀前半からの琉球船をはじめ,ポルトガル船・オランダ船など,また17世紀前半には日本の朱印船が渡航して盛んに交易を行った。盛時には,バーン・ジープンとよばれる日本町に1500人以上の日本人が住み,交易や国王の傭兵として活躍。日本町統領として山田長政・城井久右衛門らの名が知られる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「アユタヤ」の解説

アユタヤ
Ayuthaya

バンコクの北方70余㎞,チャオプラヤ川中流にあるシャム(タイ)の旧首都
アユチアともいう。室町時代には琉球との間に貿易船が往来し,江戸初期には朱印船も多く渡航した。アユタヤ郊外には日本町が建設され,山田長政が活躍した。

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世界大百科事典(旧版)内のアユタヤの言及

【タイ】より

…スコータイは,南方のマレー半島と西方の下ビルマを経てスリランカから上座部仏教を受容したが,これは王制とともに現在まで続く政治・文化の基盤となった。
[アユタヤ朝]
 1351年,チャオプラヤー・デルタ下流部の河港アユタヤを中心に,新たなタイ族の国家アユタヤ朝が成立し,北方に向かってその勢力を拡張すると,スコータイはやがてこれに併合され,政治的独立を失った。アユタヤとその周辺は,かつてモン族の国ドバーラバティの支配下にあった地域である。…

【ナレースエン】より

…タイ,アユタヤ朝のスコータイ王家第2代の王。在位1590‐1605年。…

【港町】より

… おもに中継港としての機能を果たした港市国家に対し,時代が下るにつれ,内陸ルートを強権的に支配し,租税として徴収した森林生産物を中心とする後背地の物産の輸出独占を権力の基盤とする新たなタイプの港市国家が発生する。ミャンマーのペグー,タイのアユタヤなどがこれに属する。ペグーの支配域が主として港とその周辺に限定されているのに対し,アユタヤは物産の生産される広大な領域を後背地としてもち,その集荷路にも支配を及ぼしている点が異なるが,首都である港市に同じく顕著な国際性がみられることが同時代史料によっても知られる。…

※「アユタヤ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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