精選版 日本国語大辞典 「小浜」の意味・読み・例文・類語
お‐ばま を‥【小浜】
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福井県,若狭湾央の小浜湾に臨む商工業都市。1951年小浜町と内外海(うちとみ),松永,国富,遠敷(おにゆう),今富,口名田,中名田の7村が合体,市制。人口3万1340(2010)。市街は北川,南川の三角州を占める。東郊の府中に国府,国分に国分寺跡が比定され,付近には多数の荘園も営まれて古代以来若狭国の中心であった。南北朝期ごろから港の発展が著しく,繁栄が湾岸に移った。北川の断層谷に沿う九里半街道で容易に畿内に通じ,西廻航路開発まで日本海屈指の要港であった。現市街は1600年(慶長5)入部の京極高次が北川,南川を堀に利用して築城し,低地を埋め立てて町を開こうとしたのに始まり,34年(寛永11)以後酒井氏11万石の城下町として明治に至った。1918年小浜線開通後,港は海運に代わって若狭湾漁業の根拠地となり,現在は市東部の田烏(たがらす)のきんちゃく網と付近の定置網の漁獲物の集散地をなしている。また近年は栽培漁業にも力を入れている。伝統の若狭塗,メノウ細工のほかにみるべき工業はなかったが,60年ごろから豊富な労働力にひかれて周辺に電気機器,縫製業が立地した。若狭一宮・二宮である若狭彦神社・若狭姫神社,お水送りの神宮寺はじめ,明通寺,羽賀寺など国宝・重要文化財をもつ古社寺が多く,〈海のある奈良〉とよばれる。また,小浜湾外には名勝若狭蘇洞門(そとも)がある。舞鶴若狭自動車道の小浜西インターチェンジがある。
執筆者:島田 正彦
若狭国の政治の中心であり,中世日本海沿岸屈指の要港として栄えた。1265年(文永2)3月の若狭中手西郷検田取帳案の朱注や,同11月の若狭国惣田数帳写に記されているのが地名の早い所見(東寺百合文書)。中世の小浜は,国衙税所(さいしよ)領今富名(いまとみみよう)(今富荘)に属し,この名は若狭守護が伝領して,ここを支配の拠点としたところから,一国の政治・文化の中心となり,重要港湾として経済的発達も著しかった。鎌倉期には,初期の津々見氏のあと北条氏嫡流(得宗)が守護職を相伝,南北朝期にはしばしば守護が交替したが,1366年(正平21・貞治5)以後は,一色氏が4代にわたって守護となる。一色氏時代はあたかも室町幕府の盛時で,各地を巡遊して威を示した将軍義満は,93年(明徳4)以来丹後九世戸の文殊参詣のついでにしばしば小浜をも訪れている。1440年(永享12)将軍義教の命で一色義貫を討った武田信栄が,かわって守護となってのちは,元明の代に越前朝倉氏の侵攻によって滅亡するまで武田氏の支配が続いた。一色氏時代以来守護所は西津にあったが,1522年(大永2)武田元光は後瀬(のちせ)山に築城,山麓に居館を構えてここに移った。武田氏歴代は皇室,幕府と緊密な関係を維持し,室町期には皇室領となっていた小浜からの供御料の進献につとめ,また幕府の命に応じてしばしば兵を上洛させ,各地に転戦した。一方,中央文化への志向が強く,そのもとで小浜は戦国期地方文化の一中心となり,連歌師宗祇や宗長,紹巴,あるいは宋学の清原宣賢や神道家吉田兼右など,小浜を訪れた著名な文化人も少なくない。
経済面では,日本海沿岸諸国からの年貢米や塩,魚荷その他がさかんに着津,九里半街道を経て大津,京都方面に運ばれ,有力な問丸が活躍した。南北朝初期,幕府が守護斯波氏頼に命じ,若狭に着岸した臨川寺領加賀大野荘の年貢を〈毎度小浜津の問居に仰せて検納〉させ,京都へ運送せしめたこと(臨川寺文書),1355年(正平10・文和4)ごろ,小浜の刀禰(とね)の沙汰として入津船から〈入船馬足料〉(関税)を徴収していたこと(長楽寺文書)などは具体例の一部である。1408年(応永15)6月,南蛮船が着岸,日本国王への進物をもたらし,4年後にも同じく南蛮船2艘が来て,いずれも問丸本阿宅を宿としたという事実もあり,戦国末期の豪商組屋のように外国貿易に従事した小浜商人も存在した。
執筆者:須磨 千穎 1573年(天正1)朝倉氏の滅亡後,織田信長の武将で近江佐和山城主であった丹羽長秀の支配下に入るが,87年豊臣氏五奉行の一人浅野長吉(長政)の城下となった。93年(文禄2)木下勝俊が,1600年関ヶ原の戦後京極高次が入部。京極氏2代のあと34年酒井忠勝が入部し,以降酒井氏13代の城下町として明治維新を迎えた。酒井氏の治下にあっては,町奉行が2名置かれ,その下に2名の町年寄と各町に宿老がいた。浅野・木下氏は,武田氏の居城と館を踏襲したが,京極高次は入国の翌年,居城を南川と北川の河口にはさまれた雲浜の地に移し,07年には小浜町の町割りを行った。この時,町は東部へ拡大し,大津町,松本町,上市場,下市場などの町々が成立した。町割りの結果,町は大きく東西両組に分けられ,町数は41町,家数は1237軒となった。酒井氏入国後の40年には,町数は46町,家数は1728軒(うち寺38ヵ寺),人口1万0350人と増加した。84年(貞享1),それまで2組であった町組は3組に分けられ,東組18ヵ町,中組,西組各17ヵ町,総計52町となった。人口は93年(元禄6)に1万1094人となるが,その後は漸減し,後期には9000人台となった。
港としての小浜は,近世前期,越前敦賀とならんで北国市場と上方市場を結ぶ中継港として栄え,加賀藩,秋田藩,新発田藩,丹波・丹後・但馬の諸藩からの入津米があり,1680年(延宝8)には入船数1055艘を数え,翌年には米,大豆あわせて24万3000俵が入津した。しかし17世紀後半,西廻海運の活発化にともない徐々に衰微していったが,近世後期には北前船の拠点として地位を保った。小浜の産業として,近世前期には絹織物があげられるとともに,中世後期以来京都でも著名となった若狭筆と〈お召し昆布〉とが注目される。近世中後期には,〈小浜第一の家業〉といわれたキリ油絞りが注意される。
小浜を中心とした一揆騒動は,1642年城下町人へ貸付けの名目で売り付けられた〈おり米〉値段引下げを要求したものが早い。1783年(天明3)年貢銀納願に端を発した一揆は,拝借米を要求し城下へ入り数軒の米屋を打ち毀(こわ)し,さらに1833年(天保4)には,米価引下げを要求する一揆が城下の数軒の町家を打ち毀した。また火災は,1701年に175軒,19年(享保4)255軒,1853年(嘉永6)500軒,58年(安政5)1300軒あまりが焼失したものがおもなものであるが,安政大火の翌年,火除けのため広小路に堀川が掘られた。
執筆者:藤井 譲治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
長崎県南高来(みなみたかき)郡にあった旧町名(小浜町(ちょう))。現在は雲仙市(うんぜんし)の南部を占める。旧小浜町は1924年(大正13)町制施行。1955年(昭和30)北串山(きたくしやま)村と合併。2005年(平成17)国見(くにみ)、瑞穂(みずほ)、吾妻(あづま)、愛野(あいの)、千々石(ちぢわ)、南串山(みなみくしやま)の6町と合併、市制施行して雲仙市となった。旧町域は島原半島の中西部に位置し、橘(たちばな)湾(千々石湾)に臨む。国道57号、251号、389号が通じる。山と海の温泉郷で、山に雲仙温泉を有し、海岸に小浜温泉がある。地域の大半は雲仙天草国立公園(うんぜんあまくさこくりつこうえん)に含まれる観光の町で、観光施設が多い。海岸の突堤には噴泉塔があり、噴湯は高さ25メートルに達する。北部の富津(とみつ)は風光明媚(めいび)な漁港。南部の諏訪(すわ)池は水鳥の楽園といわれる保養地で、休暇村雲仙となっている。そのほか、雲仙岳を中心とする山岳美、渓谷美は有名。また、雲仙への登山路に沿う集落にはブドウ園やシイタケ栽培がみられる。
[石井泰義]
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…若狭国の荘園。中心部は現,福井県小浜市内。本来は国衙税所(さいしよ)の別名(べちみよう)で,税所今富名と呼ばれた。…
…古代・中世の若狭の要地で,現福井県小浜市遠敷。《和名抄》に〈乎爾布〉〈乎布〉と訓ずる。…
…(1)若狭国遠敷(おにゆう)郡国富郷に成立した荘園。現在の小浜市次吉・熊野・羽賀・奈胡のあたりと,北方若狭湾岸の浦犬熊の地を含んだ。太政官厨家領。…
※「小浜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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