日本大百科全書(ニッポニカ) 「南蛮貿易」の意味・わかりやすい解説
南蛮貿易
なんばんぼうえき
16世紀なかばから17世紀にかけて、日本とポルトガル、スペインの貿易船との間に行われた交易。
[松田毅一]
初期
15世紀末から16世紀にかけ、ポルトガル、スペイン両国は大航海時代の全盛期を迎え、ポルトガル人はインド西岸のゴアに、スペイン人はメキシコに根拠地を置き、貿易とカトリック布教を目的としてアジアでも覇を競った。この趨勢(すうせい)のもとに、1543年(天文12)ポルトガル人が薩南(さつなん)の種子島(たねがしま)に漂着し、日ポ交渉の端緒が開かれた。1557年(弘治3)ごろポルトガル人はマカオ(澳門)に貿易基地を設けるが、これにより彼らは、当時、倭寇(わこう)の猖獗(しょうけつ)のためにまったく途絶していた日明(にちみん)間の通交を中継貿易の形で独占的に肩代りすることになった。当時、ポルトガル人の貿易は、つねにイエズス会の主導によるカトリック布教と密接にかかわりがあったから、日本への貿易船も、おのずからキリスト教を保護する大名の分国を選んで入港するに至った。1571年(元亀2)港市として開かれた長崎が、領主大村純忠(すみただ)によってイエズス会に寄進されると、以後、ポルトガル船は毎年その地に入港するに至った。
ポルトガル王室は、多年国家に勲功のあった貴族に、恩賞としてカピタン・モールという地位を与えて東洋における植民地を統轄させ、さらに交易船団を監督させて、そこからあがる利益を収得させた。日本貿易においても、カピタン・モールが、毎年、官許船で渡来した。航海に要する資金は、おもにマカオの有力商人や元老院、各種団体からの出資を集積したもので、日本での利潤は出資額に応じて配分された。渡日の経路は、まずゴアを出帆し、マラッカを経、マカオに寄り、それまで舶載してきたヨーロッパの銀貨やオリーブ油、ぶどう酒や南海産の香料、薬種などを、日本向けの生糸をはじめ、金、絹織物などの高価な商品に積み換え、南方からの季節風にのって、6、7月ごろ長崎に入港、取引ののち、晩秋・初冬の季節風でマカオに戻った。船はナウ(500~1000トン)とよばれる大型帆船で、満載してきた商品の代価はすべて日本の銀で支払われた。その額は毎年50万~60万ドゥカード(国際通貨として用いられたスペイン銀貨の単位で、日本の銀10匁前後に換算)に達し、100%以上の純益があがるのもまれではなかった。日本からの輸出品の大半はこの銀であって、中国における莫大(ばくだい)な銀の需要に応じた。以下、小麦、漆器、船材、銅、鉄などをあげうる。中国産の生糸は、終始、日本への輸出品の首位にあったが、17世紀の初頭、江戸幕府は、糸割符(いとわっぷ)制度を設け、輸入生糸の価格統制を実施した。
[松田毅一]
後期
17世紀に入ると、長らく来航を停止していた中国のジャンク(戎克。独特の帆船)が日本貿易を再開し、朱印船貿易に代表される日本人自身の海外進出も盛んになった。さらに1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号の漂着を契機として、オランダ、イギリスなどプロテスタント諸国が日本市場に参加するに至ったことは、南蛮貿易にとり大いなる脅威であり、その存在価値を低下せしめた。イギリス、オランダ両国は、ポルトガルの対日独占貿易態勢を打破しようとして、カトリック宣教師を媒介とする「侵略的野心」を幕府に鼓吹する一方、南海においては、その機動力をもってポルトガル船を襲撃し、略奪した。このために、マカオ市では、ゴアからの補給や資金源をしばしば断たれ、貿易資産として、日本の商人からの多額の借財を余儀なくされた。その商利息や糸割符制度に起因する純益減少のために、ポルトガル商人のなかには、債務履行に窮する者が続出し、南蛮貿易の衰微に拍車がかかった。
1614年(慶長19)のいわゆる大追放(高山右近(うこん)ら多数の信者や宣教師をマニラ、マカオに追放)によって、キリシタンの勢力は急速に弱まるであろうとの幕府の推測に反し、国外から日本に潜入する宣教師は後を絶たなかった。この潜入を助ける役割を果たしていた南蛮船の来航は、幕府の嫌悪するところであり、1624年(寛永1)まずスペイン人の対日貿易が断たれ、さらに翌年以降、貿易のために渡来するポルトガル人に対する取締りが行われた。日本貿易の存続を死活の問題としてとらえるマカオ市当局者の懸命の努力もむなしく、ポルトガル人は、1634年以降、長崎湾の出島(でじま)に隔離され、一般日本人との接触も遮断されて、厳しい監視下に置かれた。さらに1633年から36年までの間、幕府は鎖国令を発し、貿易に関する取締りをいっそう厳重にした。1637年の島原・天草一揆(いっき)を機に、幕府はついに、ポルトガル船による貿易の利を捨てて、キリシタンの根絶を図ることを決意し、1639年、ポルトガル人の来航を死罪をもって禁ずるに至った。翌年、貿易の再開を嘆願する目的で来日したポルトガル使節の一行は、下級船員を除いて、ことごとく処刑され、ここに1世紀にわたった南蛮貿易は終焉(しゅうえん)を迎えた。
[松田毅一]
『村上直次郎著『長崎市史 通交貿易編西洋諸国部』(1935・長崎市)』▽『幸田成友著『日欧通交史』(1942・岩波書店)』▽『高瀬弘一郎著『キリシタン時代の研究』(1977・岩波書店)』