延命寺(読み)えんめいじ

日本歴史地名大系 「延命寺」の解説

延命寺
えんめいじ

[現在地名]長崎市寺町

長照ちようしよう寺の北東にある。医王山遍照院と号し、真言宗御室派。本尊は薬師如来。元和二年(一六一六)備前岡山出身の竜宣が長崎奉行長谷川権六の許可を得て創建したとされる(「長崎志」など)。竜宣は慶長年間(一五九六―一六一五)長崎に来て真言密教の布教を行い、開創の年は疫病による死者が多数にのぼり、薬師如来に祈願して効験があったとして市中の信仰を集め、奉行により惣町安全祈願所とされ、毎年一竈から銀一分五厘、都合四貫五〇〇目を納める恒例となった。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]松田町松田惣領

松田山南麓にあり、万松山と号し、曹洞宗、本尊は聖観音。開基は小田原北条氏の家臣遠山丹波守、開山は本寺であった小田原市久野総世くのそうせい寺の三世宗箇で、文明四年(一四七二)の草創と伝える。遠山氏の手厚い保護を受け、永正三年(一五〇六)一月一四日の遠山直景寺領寄進状(県史三)

<資料は省略されています>

とあるのをはじめ、同七年二月一七日に「つほさき田内四反」を含む田一町(同書)、大永元年(一五二一)二月二九日に「松田道場免、同屋敷」(同書)と直景の寄進は続き、永禄一一年(一五六八)二月四日には遠山政景が松田道場阿弥陀免として一貫文を寄進している(「遠山政景寺領寄進状」同書)

延命寺
えんめいじ

[現在地名]観音寺市柞田町 山王

真如山と号し、真言宗大覚寺(別格本山)、本尊薬師如来。行基の開創と伝え、古くは現三豊みとよ大野原おおのはら花稲はないなにあった(大野原町誌)。寛元年間(一二四三―四七)後嵯峨天皇の勅を賜り、近江日吉社山王権現を勧請、その別当職に補せられたという(観音寺市誌)。嘉永七年(一八五四)嵯峨御所(大覚寺)より天下泰平五穀豊穣人法紹隆の祈願所として紋付提灯二帳、翠簾一枚を下賜され現存する。境内に大師堂・毘沙門堂がある。江戸時代、柞田くにた郷内の神社・神祠はすべて別当延命寺持であったが、黒淵くろふち山田やまだ神社、山田尻やまだじりさかい八幡宮の社人牧野飛騨と延命寺の間で江戸後期に争いがあり、天保一四年(一八四三)大覚寺から社職差縺についての申渡書(萩原寺蔵)が下されている。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]大府市大府町 ヲシロ

宝竜山と号し天台宗。本尊は地蔵菩薩。開基創建は鎌倉時代。開祖は盛祐。寺伝によると、知多郡英比あぐい郷より移転、永正一三年(一五一六)慶済が七堂伽藍を再建して中興の祖となる。当時は一山数坊があり、天文二年(一五三三)後奈良天皇から宝竜山の勅額を賜った。「徇行記」は天正一一年(一五八三)に寺領田畑一九貫四七八文目と山一ヵ所を寄進した梶川五左衛門の証文と、緒川おがわ(現知多郡東浦町)城主水野氏からの付山寄進の証文があったという。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]三芳村本織 延命寺

本織もとおりの東部にある。曹洞宗。長谷山と号し、本尊は虚空蔵菩薩。創建年代は未詳であるが、永正一七年(一五二〇)吉州梵貞(「日域洞上諸祖伝」では永禄元年六月二〇日没)を開山として創立されたという。正安三年(一三〇一)銘の延命寺板石塔婆があり、県指定文化財。寺域に里見実尭(義尭の父)の名を冠した実尭じつぎよう院があった(吉田家文書)。年未詳九月九日の里見義弘書状(寺蔵文書)によれば安田与太郎を討った十左衛門が「延命寺へ山林」している。天正一五年(一五八七)と推定される四月五日の里見義康安堵状(同文書)では青木光厳あおきこうごん(現富浦町)が当院末寺であることを認めている。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]松阪市射和町

山号は戴龍山。浄土宗鎮西派。本尊阿弥陀如来。近世は京都知恩院の末寺であった。行基の開創で初め真言宗、文明六年(一四七四)光誉盛観浄阿弥陀仏が浄土宗鎮西派に改めたと伝えるが、正確なところはわからない。ただ延命寺に関する確かな記録が、同一〇年以降に現れることを考えれば、盛観による同六年の再興は信憑性がある。

文明一〇年六月一八日付延命院宛北畠政郷袖判御教書(延命寺文書)に「条々」として「一於当院諸役御免除事、一在々所々勧進各々可為心落事、一他事猶如福龍寺御判可申付事」とある。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]岩井市岩井

岩井―沓掛くつかけ街道の東に所在。医王山金剛王院と号し真言宗豊山派。本尊大日如来坐像は県指定文化財。守谷もりや城主相馬氏の創建で、当初は国王こくおう神社の東にあり、本堂・薬師堂・山門などが建立された。山門は現存し、石造太鼓橋とともに往時をしのばせる。薬師堂は六間四面であったが、弘化元年(一八四四)焼失、礎石のみ残る。現在は仮殿で、本尊薬師如来は平将門の守り本尊と伝えられ、将門の死後に勧請したという。「島の薬師」として知られ、薬師如来縁起に「行基作薬師如来之縁起境内に安置永延二庚子年記曰昔高野山有霊木名一本杉、我高祖大師有感因以其木而自刻尊像于昔永徳三年当寺開山鏡観大阿闍梨有田負来安置此地古記詳也、其後文政四辛巳年九月住職栄稚法師勧誘信者浄財加彩色及修理開扉矣」とある。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]板橋区志村一丁目

都営地下鉄三田線の志村坂上駅の西方にある真言宗豊山派寺院。見次山松寿しようじゆ院と号し、本尊は地蔵菩薩。寺伝によると大永四年(一五二四)に上杉方として志村しむら城に在城していた篠田五郎の家臣見次権兵衛が、北条氏綱の攻撃を受けて同城が落城したときに子息見次権太郎を失い、その菩提を弔うために自らが開基となり、居宅に当寺を創建したという。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]吉川町吉川

元荒川が中川に合流する地点の東岸に位置。宝光山地蔵院と号し、真言宗智山派。本尊は延命地蔵画像。寺伝では永和三年(一三七七)清仙が草庵を造り、応安五年(一三七二)祐義が伽藍を整えたとあるが、年時が反対なので清仙が祐義の名義で開山したともいわれる。文安三年(一四四六)祐範が中興し、天正年間(一五七三―九二)平沼ひらぬまの里長である五郎左衛門の先祖の戸張氏が外護し、地域の寺院として発展させたという(風土記稿)。暦応二年(一三三九)奥書の地蔵縁起も蔵するが、伝来の経緯などは未詳。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]河内長野市神が丘

石見いしみ川左岸沿い、横尾よこお岳北方にある。真言宗御室派、山号薬樹山、本尊如意輪観音。空海が当地を巡化したとき、地蔵菩薩を彫して安置し羅山宝幢ほうとう寺と称したのが草創と伝える。寺歴は不詳であるが、天正一六年(一五八八)一二月六日の越前守以下連署知行免許状写(本願院文書)に「河州之内 延命院地蔵之敷地 三丈」とあり、高野山本願ほんがん院との関係が知られる。延宝五年(一六七七)浄厳が再興した。浄厳は寛永一六年(一六三九)当地に生れ、幼時より仏門を志して高野山で修学、帰郷後京都仁和寺に奏上して寺号を延命寺と改称して再興し、如法真言律の本山とした。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]河東町倉橋

磐越西線のすぐ西側にあり、迦羅陀山と号し、真言宗豊山派。本尊大日如来。境内にある重層の屋根の姿から藤倉ふじくら二階堂とよばれる地蔵堂で知られる。古くから延命寺は地蔵堂の別当で、開創は両者ともに大同年中(八〇六―八一〇)という。磐梯町恵日えにち寺蔵の永正八年(一五一一)修復銘のある恵日寺絵図に地蔵堂が描かれ、左隅には入口西側にある赤呂あかろ神社(現明呂神社)が記され、古くは恵日寺に属したと思われる。延命寺地蔵堂(藤倉二階堂)は国指定重要文化財で、室町時代初期から中期の作と推定される。茅葺の二重層の屋根(現在は瓦葺)で、総円柱の回廊付きの建造物で、唐様の禅宗建築。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]鎌倉市材木座一丁目

なめり川左岸、下馬げば四ッ角の近く、西町にしまちにある。浄土宗、帰命山と号する。開山泉蓮社昌誉能公。本尊阿弥陀如来。もと安養あんよう院末。本尊は山ノ内円応やまのうちえんのう寺閻魔王像の余り木で作ったという伝えがあり、木あまりの本尊と称せられる。ほかに伝北条時頼夫人念持仏という身代地蔵(裸地蔵)がある。「風土記稿」によれば正慶年中(一三三二―三四)地蔵安置のため堂が建立されたという。しかし寺蔵過去帳では開山昌誉の没年は天文四年(一五三五)で正慶とはだいぶ隔たっており、「風土記稿」の伝える寺と延命寺との関係は未詳。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]津南町赤沢 反里

信濃川の湾曲部にある。真宗高田派、護念山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、信濃川対岸外丸とまる田中たなかの寿専坊を開山とし、赤沢あかさわ城主大井田某の懇請により田中に創立。寿専坊は天台宗に属し、承元年中(一二〇七―一一)親鸞の徒弟となったが改宗しなかった。赤沢城主大井田遠江守義高が落飾して法西と号し、当寺五世を継ぎ真宗に改宗。その後幾度か移転を繰返し、寛永元年(一六二四)赤沢に仮院を建て、同四年にあしさき小下こさがりに移った。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]姫路市御国野町御着

御着ごちやく地内の東端、国道二号の南にある天台宗寺院。路地を隔てて西側に大歳おおとし神社(大歳大明神)がある。北条山と号し、本尊は阿弥陀如来。承和年間(八三四―八四八)慈覚大師円仁が山陽道巡錫の折に自ら本尊を刻んで建立したと伝え、山号は往時の三野北条みのほうじようにちなむという。天正年間(一五七三―九二)の兵火で諸堂と旧記をことごとく焼失し、寺運も衰微した(飾磨郡誌)。寺伝によると、宝暦(一七五一―六四)初年に随願ずいがん寺の恵雄の弟子恵倫が寺を継いで興隆に努め、同五年に観音堂と薬師堂を、同八年には本堂を再建して隆盛を取戻したという。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]津島市今市場町

参道の入口は名古屋城下・熱田への道しも街道に面しているが、境内は奥深くにあり、東側は弥生やよい町の蓮慶れんけい寺に、西側は池麩いけふ町の宝泉ほうせん寺に接している。大安山と号し、曹洞宗。本尊は延命地蔵菩薩坐像。

永享九年(一四三七)津島村興禅こうぜん寺二世天菴喜朝の創建、二世の昌屋の後に中絶。安永一〇年(一七八一)同村雲居うんご寺一一世大通弘道が尾張藩に再興を願って許可され、これを中興開山としている(徇行記)

延命寺
えんめいじ

[現在地名]土居町土居 天神森

摩尼山と号し、真言宗御室派。本尊は延命地蔵菩薩。四国霊場番外札所でつじの坊ともいう。

寺伝によると行基の開基といい、寺宝に弘仁年間(八一〇―八二四)空海作という毘沙門天千手観音がある。

境内に栄松さかえまつがあって、誓松ちかいまつまたはいざり松ともいったが、昭和四三年(一九六八)頃枯死した。「西条誌」「伊予温故録」などによると、盛時には高さ四間五尺、東西一五間、南北一七間の大松で、天保六年(一八三五)領主回領の時「栄たる」とほめたので栄松となったとも、郷名「近井」から誓松となったともいう。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]今治市阿方

近見山宝鐘院と号し、四国八十八ヵ所の五四番札所。行基の開基、空海の再興と伝える。本尊は不動明王で、もと近見ちかみ山山頂にあり山号もこれによる(→近見山

宝永元年(一七〇四)鋳造の梵鐘銘によると、当初仏閣は壮大で美しく、谷々には僧院が建ち並んでいたが、永禄―天正(一五五八―九二)などの兵乱で焼失し寺地も移動したといわれている。鎌倉時代の学僧凝念の「八宗綱要」の奥付に「文永五年戊辰正月二十九日、於予州円明寺西谷記之」、「華厳経五十要問答」巻上奥書に「于時弘安八年乙酉二月十九日、於予州円明寺、私断加仮字点訖」とあり、以前は円明寺と書き、凝念が滞在したことがわかる。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]袖ケ浦市高谷

高谷たかや集落の東手、江戸時代の久留里くるり道近くにある。飯王山と号し、新義真言宗。本尊は地蔵・薬師・観音の三尊。神亀元年(七二四)行基の創建と伝え、弘仁一一年(八二〇)真言宗に改め、正応期(一二八八―九三)に祐弼が再興したという。一切経五〇〇巻・大般若経六〇〇巻などを伝える。文亀元年(一五〇一)武田信興が寄進したと伝える絹本著色両界曼荼羅図があり、南北朝期の製作とされ、県指定文化財。元亀二年(一五七一)二月六日銘の版木に高谷延命寺寛海法印とあり、治田善明院俊等の作。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]下館市伊佐山

真言宗豊山派、荘台山地蔵院と号し、本尊は延命地蔵菩薩。創建は明らかでないが、宝暦一一年(一七六一)の御尋ニ付以書付申上候(延命寺文書)によると伊奈備前守から五石の黒印地を与えられ、その後徳川家光が五石の朱印地を付与する。江戸時代は結城の大輪だいりん寺末寺で、寛政八年(一七九六)の延命寺起立書(同文書)によれば、二町歩の寺領、檀家五〇〇軒を有し、村内の観音堂・香取宮・天満宮・愛宕社を守護していた。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]瀬棚郡瀬棚町字三本杉

日本海に面して走る国道二二九号沿いにある曹洞宗寺院。山号瀬棚山、本尊地蔵菩薩・釈迦如来。一八〇〇年代前半、当地の漁師が裏山でシナノキの古木を切倒したところ、中から地蔵菩薩が現われ、一八〇〇年代中頃に小祠を建立して地蔵堂と称したのに始まると伝える(瀬棚町史)。一八四六年(弘化三年)羽前出身の斎藤大恵が渡来し、松前法源ほうげん寺の得随を訪れ留錫中、瀬棚村信徒の請招を受け、一宇を建立して地蔵庵と号した。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]逗子市逗子三丁目

田越たごえ川の左岸、逗子の東部に位置する。黄雲山地蔵院と号し、高野山真言宗。本尊は大日如来。「三浦古尋録」には網代道寸(三浦義同)の祈願寺とあるが、「風土記稿」には開基は行基、僧朝賢の中興、三浦・北条両氏の祈願所という。天正一九年(一五九一)に「豆子郷之内 五石之事」の朱印状を受ける(相中留恩記略)

延命寺
えんめいじ

[現在地名]甚目寺町坂牧 郷

青林山と号し曹洞宗。本尊は地蔵菩薩。「尾張名所図会」に「もと真言宗にして、創建の年紀詳ならずといへども、往昔清林寺といひて、十二坊ありし大伽藍なり」とある。「三代実録」の貞観一四年(八七二)三月二八日条に「尾張国海部郡清林寺列之定額」とみえる古刹。

延命寺
えんめいじ

[現在地名]豊山町青山 北浦

万年山と号し、曹洞宗。本尊地蔵菩薩。天文一八年(一五四九)頃には延命院とよんでいたが、天正四年(一五七六)より万年山延命寺と改号し、恩沢泉公が堂宇を再建した。その後、平僧地となっていたものを安永―天明(一七七二―八九)の頃、大薩が法地とし伽藍を修築して師の雲生洞門を請じて中興開山とした(西春日井郡誌、豊山町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「延命寺」の解説

延命寺〔愛媛県〕

愛媛県今治市のある寺院。真言宗豊山派。山号は近見山、院号は宝鐘院。山号の通り古くは近見山の山頂にあり、現在は山麓に位置する。行基の開創、空海の再興と伝わる。本尊は不動明王。四国八十八ヶ所霊場第54番札所。

延命寺〔福島県〕

福島県会津若松市にある寺院。807年創建とされる。室町時代中期に建てられた地蔵堂は国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android