安房郡(読み)あわぐん

日本歴史地名大系 「安房郡」の解説

安房郡
あわぐん

面積:三一九・二九平方キロ
鋸南きよなん町・富山とみやま町・富浦とみうら町・三芳みよし村・丸山まるやま町・和田わだ町・千倉ちくら町・白浜しらはま町・天津小湊あまつこみなと

房総半島の南端にある郡。北東に鴨川市、南西に館山市があり、明治三〇年(一八九七)には両市を含む地域、すなわち旧安房国四郡の全域が合併により新たに安房郡として成立した。江戸時代の四郡は、安房国北西部のへい(古代は平群郡)が現鋸南町・富山町・富浦町・三芳村・館山市にわたり、その南の安房郡は現三芳村・館山市・白浜町、その東の朝夷あさい郡は現丸山町・和田町・千倉町・白浜町・鴨川市、その北東の長狭ながさ郡は現鴨川市・天津小湊町に及ぶ郡域であった。郡名の異表記に阿波があるが、これは阿波国造と同じ表記である。「和名抄」東急本に阿ハの訓がみえ、同書名博本および「延喜式」民部省ではアハとする。「寛政重修諸家譜」でも「あは」としている。

古代の安房郡は、原始・古代より大地震などに伴うとみられる地盤の隆起が激しく、今から六千年くらい前の縄文時代前期の頃と比べると約二五メートルほど隆起していると考えられている。とくに元禄一六年(一七〇三)の大地震の際は三―四メートル、大正一二年(一九二三)の関東大震災では二メートル前後の隆起があったことから、古墳時代から奈良・平安時代にかけての館山湾(鏡ヶ浦)から白浜町にかけての海岸一帯は少なくとも現在の標高五メートルくらいの所まで海であったものと考えられ、海岸部は古代と現在では景観がまったく異なっていたことが想定される。

〔原始・古代〕

縄文時代の海食洞穴を利用した遺跡が多く知られ、なかでも館山市浜田の鉈切はまだのなたぎり洞窟遺跡からは漁労具とともに神奈川県でも東京湾に面した地域に分布の中心をもつ称名寺式土器が主体となっており、漁や交易のため船に乗って盛んに東京湾を往来した縄文人の姿が浮ぶ。弥生時代には館山市安房国分寺あわこくぶんじ遺跡のように館山低地の海岸に近い砂丘上にも集落が形成され始めた。太平洋岸では安房神社の南のともえ川流域に遺跡が多く確認され、安房神社あわじんじや洞穴遺跡からは抜歯した人骨が多数検出されている。古墳時代では少ない高塚古墳の一つとして館山市山本やまもとの五世紀前半頃の円墳みね古墳が知られ、出土したトンボ玉の意匠が西アジアのものに類似し、国内では類例のないもので、被葬者には海運で活躍した海人の首長が考えられている。後期の同市坂井の翁作さかいのおきなさく古墳では金銅装の単鳳環頭大刀や圭頭大刀・剣・鹿角装刀子などを出土、ほかに直刀を出土した同市神余かなまりあい沢三ッ塚さわみつづか古墳が知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報