海部郡(読み)あまべぐん

日本歴史地名大系 「海部郡」の解説

海部郡
あまべぐん

かつての豊後国の南東端を占め、北は別府湾・東は豊後水道に面し、同沿岸部ではリアス海岸が発達する。西はおおむね分水嶺を境に大分郡・大野郡と接し、南は日向国であった。郡域は現在の北海部郡・臼杵うすき市・津久見市・佐伯さいき市・宇目うめ町を除いた南海部郡のほぼ全域を占め、一部大分市の南東部も含んだ。

〔原始〕

臼杵川上流の臼杵市東台ひがしだい遺跡でナイフ形石器・削器などが出土している。また番匠ばんしよう川上流(波寄川)に近い石灰岩山地中腹にある本匠ほんじよう聖嶽ひじりだけ洞穴では後期旧石器時代のナイフ形石器とともに人骨(頭部・脊椎骨・脛骨など)の化石が出土、中国の山頂洞人ときわめて近いとされ、石器を伴う数少ない人骨化石として貴重である。縄文時代の遺跡は臼杵市周辺、佐伯市堅田かたた地区周辺、その他本匠村・直川なおかわ村一帯に多く分布する。早期の遺跡としては臼杵市小六ころく洞穴・東台遺跡・本匠村前高まえだか洞穴遺跡が注目される。弥生時代の貝塚で知られる佐伯市下城しもじよう遺跡・長良ながら遺跡でも縄文早期の土器が出土している。前期・中期の遺跡は少ないが直川村ごうはる遺跡と長良遺跡などでこの時期の土器が出土している。東台遺跡・前高洞穴遺跡・神ノ原遺跡などは後期の遺跡としても注目される遺跡である。弥生時代の遺跡ではいわゆる下城式土器の標式遺跡となった下城遺跡、同じく下城式土器の体系的研究に大きな意義を持った佐伯市白潟しらかた遺跡が注目される。いずれも貝塚を伴っており、番匠川河口に近い狭隘な入江に住み、半農半漁の生活を営んだ海辺の弥生人の小集落跡である。このほか臼杵市井村いむら遺跡・家野いえの遺跡などが知られるが、本格的発掘調査の少ないこともあって大規模な集落などは発掘されていない。

海部郡一帯が大きな発展をみせるのは古墳時代になってからである。現大分市東部の大在おおざいさかいち両地区から佐賀関さがのせき半島を経て臼杵・佐伯に至る海岸一帯は、かつてヤマト政権によって海部に設定された。豊かな海の幸と豊後水道の早瀬で鍛えた航海技術がヤマト政権の重用するところとなったらしい。こうした状況を反映して、この地域は県下で最も多くの前方後円墳が分布する。臼杵地区では熊崎くまさき川中流域の右岸の低い丘陵の南端部、現在の臼杵市臼杵神社境内に位置する臼塚うすづか古墳、その南東約一・三キロの丘陵頂部に下山しもやま古墳がある。この丘陵端からは臼杵湾に注ぐ熊崎・末広すえひろ・臼杵の三河川が合流する河口部に発達した沖積地を眼下に望むことができる。いわば臼杵湾を見張るとでもいうべき絶好の位置に造られた古墳である。

海部郡
かいふぐん

面積:五二五・〇〇平方キロ
由岐ゆき町・日和佐ひわさ町・牟岐むぎ町・海南かいなん町・海部かいふ町・宍喰ししくい

県南部に位置する。南東部は太平洋に臨み、ほぼ中央に牟岐町があり、東部に日和佐町・由岐町、西部に海部町・海南町・宍喰町がある。北部は那賀なか上那賀かみなか町・木頭きとう村・相生あいおい町および阿南市、西部から南部にかけては高知県安芸あき馬路うまじ村・北川きたがわ村・東洋とうよう町と接する。北部の那賀郡境に鰻轟うなぎとどろき(一〇四六メートル)吉野よしの(一一一六・三メートル)八郎はちろう(九一八・九メートル)はちノ山(六二一・一メートル)など、西部に金瀬かなせ(一一四七・三メートル)湯桶ゆとう(一三七二メートル)貧田ひんでん(一〇一八・五メートル)などがあり、北西部に高山が連なっている。これらを水源とする河川のうち西部寄りの海部川は最も流路が長く、海部町・海南町の境を流れて太平洋に注ぐが、この西にある宍喰川、東方にある牟岐川・日和佐川・北河内谷きたがわうちだに川などは流路は短く、流域に形成する平野部も狭小である。山嶺が迫る海岸部は由岐港・日和佐港・牟岐浦・浅川あさかわ港・那佐なさ湾などの入江や、鹿くび岬・阿瀬比あせびノ鼻・網代あじろ崎・ちちノ崎などの岬、千羽せんば海岸や八坂八浜やさかやはまなどの海岸、篦野ぬの島・おお島・島・出羽てば島・たけヶ島などの島々など多様な景観をみせている。海岸部を中心とする一帯は室戸阿南むろとあなん海岸国定公園になっている。

旧海部郡域は南東部は海に臨み、東部から北部にかけては那賀郡、北西部は美馬みま郡に接し、西部から南部にかけては土佐国安芸郡に接していた。この郡域は現海部郡と、那賀郡木頭村・上那賀町にわたる範囲に相当し、北方山間部も含まれていた。郡名の異表記はほとんどなく、訓は古代にも中世にもカイフであり(「和名抄」高山寺本、「実隆公記」明応四年四月二〇日条など)、近世も変わらなかったようである(慶長四年「廊之坊諸国旦那帳」熊野那智大社文書など)

〔原始・古代〕

郡域で確認されている遺跡は海部川や宍喰川によって形成された海浜部の平地に多く、そのうち最古の遺物は海南町大里おおざと地区から出土した縄文土器である。これは大里二号墳の地で、古墳の造営時に掘削された土壌内に包含されていたことから、周辺に遺跡が広がっている可能性がある。弥生時代の遺跡は調査例はないが、大里古墳周辺の砂丘下に中期から後期の遺物包含層が形成されている。海部町の寺山てらやま古墳の周辺で遺物が採集され、集落の存在が指摘されている。古墳時代には平地部を中心に古墳の造営が行われるようになり、いずれも六世紀中葉以後のもので、大里古墳群・寺山古墳群のほか、宍喰町の宍喰古墳などがある。

海部郡
あまぐん

面積:一七五・九九平方キロ
七宝しつぽう町・美和みわ町・甚目寺じもくじ町・大治おおはる町・蟹江かにえ町・十四山じゆうしやま村・飛島とびしま村・弥富やとみ町・佐屋さや町・立田たつた村・八開はちかい村・佐織さおり

県の西南部、木曾川下流の東岸に位置し、南は伊勢湾に臨む低湿平野地帯である。慶長一三年(一六〇八)に始まる木曾川本流一本化の大築堤以前は一之枝いちのえ川・二之枝川・三之枝川など俗に木曾七流あるいは八流ともいわれた古木曾川の分流支川の流土砂によって形成された三角州平野であり、ほぼ国道一号以北の自然堤防地帯と、以南の近世以降の海岸干拓新田地帯とに分れる。近年、地盤沈下が著しく進行し、海抜零メートル地域といわれる郡である。郡内には直接伊勢湾に注ぐ五条ごじよう(新川)戸田とだ川・福田ふくた川・蟹江川・日光につこう川・善太ぜんた川・いかだ川・鍋田なべた川・鵜戸うど川と、日光川に合流する目比むくい川・領内りようない川が流れている。

「和名抄」によれば海部は「阿末」と訓む。大宝令で国郡里制に改正される以前の国評里制の行政名として、藤原宮出土木簡に「海評三宅里」の記載がみられる。「海部郡」の初見は天平二年(七三〇)の尾張国正税帳(正倉院文書)である。

東の郡界は庄内川を挟んで愛知郡に接している。流路の移動で郡界も移動したであろうから、愛知郡の一楊ひとつやなぎ御厨と郡内の富田とみた庄の境界争いにもなる(円覚寺文書)。西は国境で木曾川を隔てて美濃国と接し、木曾川本流の移動で国境も移動した。尾張国の諸郡は他の諸国と同様、一二世紀までにはその多くが条里と関連をもちつつ東西もしくは南北に分れた。中島なかしま郡は南北に、愛智・丹羽・春部かすがべ三郡は東西に分れるが、本郡は郡そのものが海東かいとう郡・海西かいさい郡に分割された。「海東郡」の初見は、後欠で年月未詳であるが、尾張国山名庄下司等解(仁和寺文書)に「任本公験、所被免除海東・中嶋・知多・丹羽等郡也」とある。海東・海西の郡界は条里とは関連せず河川であった。南部での郡界は、文保二年(一三一八)一二月二三日の関東御教書(壬生文書)によれば海東郡富吉とみよし庄と海西郡日置へき庄が中州の島々について相論しており、富吉庄で知られる西端は大野おおの(現佐屋町)であり、日置庄で知られる東端は南一色みなみいしき(現佐屋町西条)であるから、郡界は現善太川と推定される。北部では佐折さおり(現佐織町)は海東郡であり(「文安四年六月三日書写釈論第九十巻聴書」稲沢市万徳寺蔵)三腰みこし(現佐織町見越)は海西郡下門真しもかどま庄に属している(「応永六年三月八日書写宝珠水奥書」名古屋市真福寺蔵)。また津島つしま(現津島市)も海西郡である(「応永十年十月廿七日牛頭天王鐘銘」津島神社蔵)

海部郡
あまぐん

島前どうぜんのうちなかノ島と周辺の島嶼を郡域とする。海を隔てて西方から南方にかけて知夫里ちぶり郡がある。現在の海士あま町にあたる。古代は、海・海部、中世・近世は海士・海部の表記がみられる。近代は海士郡。

〔古代〕

藤原宮跡出土木簡に海評とあるほかは、平城宮跡出土木簡・平城京二条大路跡出土木簡・長屋王家木簡、天平四年度の隠伎国正税帳(正倉院文書)および古代の諸記録ではいずれも海部郡とする。「和名抄」は布勢ふせ・海部・佐作さきの三郷を載せるが、藤原宮跡出土木簡にさき里、平城宮跡出土木簡に佐吉さき郷・「(神カ)宅郷」、平城京二条大路跡出土木簡に御宅みやけ郷などとあり、藤原京・平城京時代は三ヵ郷以上が存在したと推定される。「養老令」戸令定郡条によれば当郡は下郡に相当し、天平元年度の隠伎国郡稲帳(正倉院文書)・天平四年度正税帳では少領・主帳、または少領の署名がある。郡家の比定地は現海士町福井の郡崎ふくいのくんざき、同町郡山こおりやまとする二説がある。前掲木簡より当郡から軍布・伊加(烏賊)・乃利(海苔)・鰒・海藻・紫菜・螺などが貢進されていたことが知られる。天平元年度郡稲帳には穀三六二石六斗五升五合・穎稲一千四〇五束四把余・古酒二腹とあり、倉三間。同四年度正税帳からは穀六千八九一石四斗七升三合余・粟八三石七斗・穎稲二千八三四束三把・糒一〇三石三升六合・醤二石五斗と推定されている。正倉一二間のうち不動穀倉五・動用穀倉一・穎倉一・郡稲倉二・公用稲倉一・義倉一・糒倉一。郡司は天平元年(七三〇)時は少領が外従八位上勲一二等海部直大伴、主帳が外少初位上勲一二等日下部保智万侶、同四年時は少領が外従八位下阿曇三雄。承和九年(八四二)郡内の宇受加命神が官社に列しているが(「続日本後紀」同年九月一四日条)、「延喜式」神名帳には名神大社とあり、海士町宇受賀うつかの同名社に比定される。

海部郡
あまぐん

紀伊国北西部の海岸地域に位置し、浦浜と山地によって構成される。現和歌山市西部と海草郡下津しもつ町を中心とし、明治一二年(一八七九)までは、現日高郡由良ゆら町域を含んでいた。郡の境域は北部を流れる紀ノ川の流路の変化によって変動し、紀ノ川旧流路の現和歌川をおおよその境として名草なくさ郡と接していた。

「和名抄」刊本郡部は「阿末」と訓じ、「拾芥抄」は「アマ・アマヘ」と読む。また「仲文集」は「紀の国の郡どもよめる、いと、なか、なくさ、あまり、ありた、ひたか、むろ」として、

<資料は省略されています>

と詠むが、一般的にはアマと読んだと思われる。郡名は、その立地環境からして、古代の漁民集団である海部の部民が多く居住したことによる。海部郡の起源を「日本書紀」欽明一七年一〇月に設置された海部屯倉に求める説(大日本地名辞書など)もあるが、その設定地ともに不明である。また郡名の初見は「続日本紀」神亀元年(七二四)一〇月八日条で、聖武天皇の紀伊国行幸に際して「至海部郡玉津嶋頓宮」とある。なお同書大宝三年(七〇三)五月九日条に「令紀伊国奈我・名草二郡、停布調糸、但阿提・飯高・牟漏三郡献銀也」とあるが、海部郡がみえないことから、この頃まだ郡は成立していなかったとして、神亀元年以前の奈良時代初めに名草郡より分立したとする考えもある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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