黒淵村(読み)くろふちむら

日本歴史地名大系 「黒淵村」の解説

黒淵村
くろふちむら

[現在地名]観音寺市柞田町くにたちよう

柞田川下流南岸の平野部に位置するが、北岡きたおか村などと村域が錯綜して一村としての地域的まとまりはない。柞田川河口に本村の黒淵があり、その南に油井ゆい南東中村なかのむら、油井の東に山王さんのう、中村の東に下野しもの、その東に上出在家かみでざいけ、下野の南西に岡殿おかどの、同じく南東に八丁はつちよう、さらに南に池崎いけざきと集落が散在している。古代の苅田かりた柞田くぬいた(和名抄)、中世の柞田庄に含まれた。式内社山田やまだ神社がある。なお「西讃府志」は当村の旧名を山田というと記す。

寛永国絵図に村名がみえるが、柞田郷に一括して高付されている。柞田郷は柞田を冠した黒淵・山田尻やまだじり由井ゆい(油井)大畠おおばたけ(大畑)・山王・八町(八丁)の各村からなり、高二千八三一石。

黒淵村
くろぶちむら

[現在地名]小国町黒淵

蓬莱ほうらい川沿いに広がり、標高約四八〇メートル。東はじよう村、北は下城しものじよう村に接し、西は豊後国日田ひた郡である。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)によれば、二宮と同霜宮に初穂米を納める在所として、「かふりかた」に含まれる「一所くろふち」があり、近世には黒淵村の小村とされる山角やまつの下津留しもつるはる小屋こや奥山おくやま小藪おやぶなどもそれぞれ銭や豆を負担し、奥山は収納使の宿泊地であったため初穂米が免除されている。永正一四年(一五一七)五月二日の阿蘇惟豊宛行状(室原文書)によると、永正一〇年日向鞍岡くらおか(現宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町)での阿蘇惟豊と惟長の合戦に、惟豊方にくみして忠功を尽した室原駿河守に対して「黒淵七段」が宛行われている。

黒淵村
くろぶちむら

[現在地名]世羅町黒淵

黒淵川上流に位置し、周囲を山に囲まれた農村。集落は谷々に散在する。北は徳市とくいち村。中世には大田おおた庄大田方山中やまなか郷、近世には山中庄六ヵ村のうちとされた。

貞応二年(一二二三)一一月日付備後国大田庄地頭大田康継同康連連署陳状案(高野山文書)に「一、山中郷内黒淵村事 右同解状云者、就之案之、如高野所進前地頭光家建久九年九月日注文者、黒淵地頭別作也、但於所当者、所弁済也云々、然則為地頭別作之条、勿論事也、又依地頭非法故、百姓逃亡之由、被申之条、極無実也、当庄為最薄地之上、年貢巨多之間、弱百姓企逃脱歟」とあるのが初見で、建久九年(一一九八)の前地頭橘兼隆の注進状案(同文書)に「在雑免参拾町 又申給弐拾町」とみえる地頭別作であり、百姓が逃亡するのは地頭の非法のせいではなく、土地が狭くやせているのに年貢が多いからだと記す。

黒淵村
くろぶちむら

[現在地名]東由利町黒渕

高瀬たかせ川上流にあり、北は田代たしろ村、南は秋田領軽井沢かるいさわ村(現雄勝おがち郡羽後町)に接する。秋田領から北に向かって流れ入る高瀬川の沿岸に智者鶴ちしやづる・黒淵・地下ちがさわなどの小集落が並び、西の山地に大吹川おおぶきがわがある。

中世末から田代村を含め玉米とうまい川内かわうちとよばれた。支配の沿革は田代村と同じで、万治二年(一六五九)以降は生駒支家領として明治に及んだ。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)では田代村を含んだ総称名で河内かわうち村とよばれ、村高は九六八石余とある。

黒淵村
くろぶちむら

[現在地名]引佐町黒渕くろぶち

神宮寺じんぐうじ川下流域にあり、東は横尾よこお村、西は栃窪とちくぼ村。天正一七年(一五八九)に没した龍潭りようたん寺南渓自筆の過去帳(龍潭寺文書)に「心叟成江沙弥、黒淵」とある。元和元年(一六一五)には高四四石余、田二反余・畑五町二反余(同文書)。慶安三年(一六五〇)検地帳(黒渕区有文書)では田二町二反余・畑四町一反余・屋敷二反余。正保郷帳では田方一五石余・畑方二九石余、旗本金指近藤領。領主は変化なく幕末に至る。文政元年(一八一八)村民の願いによって村名を富久知ふくち村と改めることを許されたが、これは領内限りでの呼称であることが金指かなさし陣屋から申渡された(黒渕区有文書)

黒淵村
くろぶちむら

[現在地名]西吉野村大字黒淵

丹生にう川流域、向加名生むかいあのう村上流に立地。西熊野街道(国道一六八号)に沿う。天文二〇年(一五五一)、弘治四年(一五五八)の滝村水田売券に「大和国吉野郷黒淵領」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報