藤倉村(読み)ふじくらむら

日本歴史地名大系 「藤倉村」の解説

藤倉村
ふじくらむら

[現在地名]小鹿野町藤倉

赤平あかびら川水系吉田よしだ(藤倉川)流域山間地に位置し、東は日尾ひお村、南は河原沢かわらさわ村・三山さんやま村、西は山嶺を境に上野国青梨子あおなし(現群馬県万場町)など、北は同じく山嶺を境に同国小平こだいら(現同県中里村)日尾村からの往還が藤倉川に沿って上り、山(矢久峠)を越え西の青梨子村に向かう。近世初めは幕府領、天明四年(一七八四)から同七年まで下総関宿藩領、のち幕府領に復し、文政八年(一八二五)から天保七年(一八三六)まで上野館林藩領、元治元年(一八六四)幕臣平岡氏の領地となり幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)

藤倉村
ふじくらむら

[現在地名]河東町倉橋くらはし

金山かねやま川北岸にあり、北は塩庭しおにわ新田村、南東は倉道くらみち村、南西は槻橋つきのきばし村。本村の北西四町三〇間余に小名難波野なにわのがあり、幕末には難波野分として独立する。貞治三年(一三六四)一〇月七日の大葉景兼在家売券案(新編会津風土記)によれば、「河沼郡藤倉村内了仙在家一宇田一町」が実相じつそう(現会津若松市)に銭一九貫文で売られている。応永一八年(一四一一)一〇月一一日の沙弥某寄進状(同書)では「河沼郡藤蔵村内浅野権現堂」など三ヵ所が融通ゆつう(現会津若松市)に寄進されている。

藤倉村
ふじくらむら

[現在地名]川越市藤倉・南台みなみだい

山城やましろ村・大袋おおふくろ新田の西、新河岸川と中川に挟まれた低地および台地に立地。大塚おおつか村の名主を務めた藤倉家の先祖藤倉大膳が開発し、初め藤倉新田と称したという。大膳は小田原北条氏の遺臣と伝え、上宿に墓地があったという(風土記稿)。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に藤倉村とみえ、田高一二石余・畑高二一石余、ほかに野銭永九〇〇文、川越藩領。

藤倉村
ふじくらむら

[現在地名]松之山町藤倉

北東流するひがし川支流左岸にあり、東川ひがしかわ村と松之山温泉を結ぶ中間の山懐に位置する。正保国絵図に高五四石余。天和三年郷帳では高五三石五斗余、反別田三町五反余・畑屋敷一町余・山林九反余・青苧畑三反余で、漆木六四本、家数二二。安永九年(一七八〇)新田検地では高二九石四斗余。江戸時代初期、ぬの(東川)の流域に広がる村々に出作したといい、布川地区にある小野塚姓は当村の小野塚一族から出たと伝える。当村小野塚家は古くから縮布の織立てを宰領し、同家に残る慶応二年(一八六六)の六年賦借用金証文によれば、妻有外丸つまりとまる(現中魚沼郡津南町)の儀兵衛に六〇両を貸付けている。

藤倉村
ふじくらむら

[現在地名]伊自良村藤倉

西を伊自良川が南流し、東は大桑おおが村・梅原うめはら(現高富町)、南は大森おおもり村。もと伊自良村のうちで、延宝七年(一六七九)小倉こぐらの日吉神社棟札に「大工藤倉村住人」とある。元禄郷帳では高三三五石余、幕府領。元文二年(一七三七)村の一部が岩村藩領となり、以後幕末まで幕府領と岩村藩領の二給。旧高旧領取調帳によれば明治元年(一八六八)の高は幕府領一九四石余、岩村藩領一四一石余。同五年の幕府領の村明細帳には田八町一二反余・畑六町九反余、家数四五、人数男九二・女九六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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