高谷村(読み)たかだにむら

日本歴史地名大系 「高谷村」の解説

高谷村
たかだにむら

[現在地名]大原町高谷

山田やまだ村・佐室さむろ村の北東に位置し、中央を落合おちあい川が北流する。北東部は高谷山を中心とする丘陵地で、南西部に耕地が開ける。もと山田村の枝郷。寛永一二年(一六三五)の伊南之庄山田郷高谷村検地帳(池田家文書)では田三五町八反余・畑三七町八反余。延宝八年(一六八〇)の検地で山田村から分村したという(寛保三年「村明細帳」同文書)。元禄郷帳に高谷村とみえ、高一千九八石余。以降幕末まで同高。享保四年(一七一九)当時は幕府領五五六石余、旗本早川領五四二石余(「夷隅郡石高覚帳」岡部家文書)。前掲寛保三年(一七四三)の村明細帳によれば、幕府領は久留里藩領五〇八石余・旗本加藤領四七石余に変わっている。

高谷村
こうやむら

[現在地名]市川市高谷一―三丁目・高谷

田尻たじり村の南東に位置し、南には塩浜が広がっている。江戸時代は幕府領として推移した(旧高旧領取調帳など)。当村では寛永一四年(一六三七)から享保一三年(一七二八)までの間で三〇点近い年貢割付状が残されている(清沢家文書)。これらの年貢状から延宝二年(一六七四)・元禄一五年(一七〇二)と検地が実施されたことがうかがわれ(元禄検地帳は現存)、元禄八年から同一六年までの間(おそらくは同一五年の検地時)に新田の半右衛門組が分郷している。なお同一六年以降の年貢割付状は新田分のものである。寛永一四年の反別は本田で上田が一町七反余(うち荒五反)・取米六石余、中田は三町七反余(同七反余)・取米三石余、下田は五町九反余(同二町余)・取米九石余、畑方は上畑が九反余・取永八〇〇余文、中畑は六反余・取永四六〇文、下畑は一町二反余(取永は不明)、屋敷二町四反余・取永三貫余文、ほかに新田分として下田二町九反余(うち荒五反)・取米四石余、下畑三畝余・取永一一文で取米・取永の合計は三四石余・五貫五八四文であった。

高谷村
こうやむら

[現在地名]小川町高谷・みどりが丘みどりがおか

小川村・角山かくやま村の北に位置し、松山まつやま領に属した(風土記稿)。村の西方、しろ山には高谷砦がある。この砦は戦国期に奈良梨ならなしから小川、安戸やすど(現東秩父村)方面へ向かう道を監視する物見の砦であったと考えられる。田園簿では田高二四九石余・畑高一八九石余、ほかに野銭永三二五文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高四四〇石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本林領、以降同領のままで幕末に至ったと思われる(「風土記稿」「郡村誌」など)。検地は寛文年間(一六六一―七三)に行われた。

高谷村
たかやむら

[現在地名]袖ケ浦市高谷

野里のざと村の南に位置し、永吉ながよし村から久留里くるり道が南下する。地内延命えんめい寺蔵の元亀二年(一五七一)二月六日銘の版木に「高谷延命寺」とみえる。天正一九年(一五九一)九月四日の望藤郡高谷之郷検地帳(御園家文書)は全六冊のうち五冊が残る。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高四一三石。寛永三年(一六二六)田畑屋敷高辻帳では田三七町九反余・分米二七一石余、畑三五町一反余・分米一四一石余。元禄郷帳では高四八八石余。享保九年(一七二四)から高二五七石余が佐貫藩領となり(同一二年阿部正鎮領知目録)、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数八六、同藩領と与力給知。

高谷村
たかたにむら

[現在地名]牧村高谷

東は切越きりこし(現安塚町)、北は吉坪よしつぼ村、南は高尾たかお村に接し、高谷川の源流部にある。源氏の落人によって開かれたという伝承がある。近世初頭の本願寺教如書状(専敬寺文書)によれば「高谷村 十四日講中」とみえ、小黒こぐろ(現安塚町)専敬せんきよう寺の取次でほか一〇講中とともに銀子一〇〇目を懇志として教如に納めている。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所宇津郷扱此外三方分たか谷村 下」とあり、本納三四石七斗三升二合五勺・縄高一一〇石二斗九升四合、家一〇軒・三九人。正保国絵図では高一三九石余。天和三年郷帳では高一三〇石一斗余、うち山高五石九斗一升七合・漆高八石二升、反別田六町三反余・畑屋敷八町四反余・山林二七町一反余、漆木八〇二本、家数二〇。

高谷村
たかやむら

[現在地名]藤沢市高谷・村岡東むらおかひがし二―四丁目・川名かわな一丁目

柏尾かしお川下流右岸に位置し、鎌倉郡に属した。東は宮前みやのまえ村、西は小塚こつか村、北は渡内わたうち村と接する。もとは小塚・宮前・弥勒寺みろくじ・渡内とともに村岡むらおか郷を形成したが、寛永(一六二四―四四)の頃に分村し、分村後も村岡郷五ヵ村と称した。そのため村域は入組み、各所に飛地が散在した(風土記稿)。正保国絵図に高谷村とある。宝永四年(一七〇七)旗本井上領となるが、幕末には彦根・熊本・佐倉など諸藩の預所となり、慶応三年(一八六七)幕府直轄領に復した。

高谷村
こうやむら

[現在地名]栃木市高谷町

くち村の南東に位置し、北は宮田みやた村。村の北端を栃木町への道、南端を小山おやまへの道が通る。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。慶安郷帳に村名がみえ、田二八一石余・畑三二石余で下総古河藩領。改革組合村では旗本久世領で家数一六。元禄一〇年(一六九七)頃より壬生みぶ飯塚いいづか宿(現小山市)定助郷を勤めた(享保四年「壬生宿助郷帳」鈴木貞一文書)

高谷村
たかやむら

[現在地名]芝山町高谷

殿部田とのべた村の北西、高谷川左岸に立地する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二一三石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では牛熊組に属し、三河中島藩領。同藩領は元和二年(一六一六)からと考えられ、寛文一二年まで続く(「寛政重修諸家譜」など)

高谷村
こうやむら

[現在地名]神崎町高谷

いま村の東、利根川右岸に位置する。幸谷とも記された。高谷河岸がある。慶長四年(一五九九)の検地では高六六石余が打出された(「部冊帳」伊能家文書)。寛文四年(一六六四)の井上政清領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、以後幕末まで高岡藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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