土居町(読み)どいまち

日本歴史地名大系 「土居町」の解説

土居町
どいまち

[現在地名]博多区上川端町かみかわばたまち店屋町てんやまち綱場町つなばまち下川端町しもかわばたまち

大乗寺前だいじようじまえ町から北に続く南北道に沿う両側町。南から土居町上・土居町中・土居町下と並ぶ。北は唐津街道が通り、北西かけ町、北東綱場町(福岡博多近隣古図)。文明一四年(一四八二)の「山田聖栄自記」によると、南北朝期島津氏久が将軍方として宮方と合戦、傷を負い「博多之(土カ)井道場」において療養したという。当地の称名しようみよう寺が土井(土居)道場と称されていたもので、すでに当地は土井と称されていたようである。天正一四年(一五八六)の御祓賦帳(神宮文庫蔵)に「はかたといのまへ」の栗田新左衛門がみえる。慶長一五年(一六一〇)の御祓賦日記(同文庫蔵)には「土居の町」の大工藤左衛門ら六人がみえる。元禄三年(一六九〇)の家数は上五一・中三二・下二七(続風土記)。明和三年(一七六六)には上の家数五二・間数一二五間余、中の家数三七・間数一一九間余、下の家数三三・間数一一五間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数は上三七・中三六・下三八(博多店運上帳)

慶長一二年土居町と掛町の辻に制札が立てられたが、のち橋口はしぐち町の辻に移された(福岡藩年表)

土居町
どいちよう

面積:八六・六七平方キロ

宇摩郡西部に位置する。東は伊予三島市に、南は法皇ほうおう山脈を隔てて別子山べつしやま村に、西はせきとうげなどを隔てて新居浜にいはま市に接し、北はひうち灘に面する。法皇山脈の北側斜面と平野部からなる農村せき川が町内を西から東北へ流れて海に注ぎ、国鉄予讃本線および国道一一号が東西に走る。考古学遺跡が多く、東予では最も古く開けたことを示しており、古代にも地方の中心として発達したと思われる。

明治二二年(一八八九)の町村制施行で津根つね野田のだ小富士こふじ(藤原・中・小林)満崎まざき(天満・蕪崎)、土居(浦山・土居・畑野・入野)関川せきがわ(上野・北野)の六村が成立した(括弧内は旧村)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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