日本大百科全書(ニッポニカ) 「島」の意味・わかりやすい解説
島
しま
island
周囲を水域(海・湖・河川など)によって完全に囲まれ、かつ最小の大陸であるオーストラリアよりも小さい陸地。本土と島との面積的な大小は相対的なものである。たとえば、日本の本州は世界的にみると、その大きさは7番目に相当する島であるが、日本の国土からみると、これは本土の一つで、四つのおもな島の属島は約3300に及び、これらが島となる。
[市川正巳]
分類
島はその分布の状態および成因によっていくつかに分類できる。島の分布の状態では、諸島、群島、列島、孤島に分けられ、一般に島の数が多く分布して面積の広いものを諸島、分布面積が比較的狭いものを群島、列状に配列しているものを列島、一つの島が他と孤立して分布するときに孤島という。しかし、とくに孤島を除いては相対的な区分で、かならずしも前述したようになっていないものがあり、多分に慣習的な呼称になっているものもある。
島の成因による分類では、陸島と洋島に分けられる。陸島は大陸と同じ地質構造と構成物質からなり、かつての陸地が海面下に沈降した残存物であることが多く、安山岩線と大陸との中間に位置している。洋島は大陸とは地質学的に独立して生成したもので、火山島やサンゴ礁島がそれである。この成因による二大分類はA・R・ウォーレスによって生物学的立場から提唱され、のちに地質学者らに受け継がれていった。陸島の例としては、カナダのニューファンドランド島、バンクーバー島、イギリスのグレート・ブリテン島、および日本などであるが、これらは大陸から切り離された形で、大陸との間の海はそれほど深くない。他の陸島では、大陸棚の上に堆積(たいせき)物が集積してできたものがあり、この例としてはアメリカ、ニューヨークのロング・アイランドがあり、氷河の堆石(たいせき)によって形成されたものである。さらに中央アメリカ、西インド諸島中のバハマ諸島のように、海成の貝殻や化学成分の沈積がもととなって形成されたものもある。また、沿岸州(す)のように砂が波によって運ばれ、堆積して生じたものもある。暖帯地域における浅い静かな河口で形成されるマングローブ島なども、熱帯特有の常緑樹であるマングローブが生育するにつれて徐々に大きくなり、島となるものであり、また河口で砂が堆積してデルタとなって、あるものは川の水面に囲まれて植生が繁茂して島となる川島(かわしま)channel islandsなどもある。
洋島の例としては、アイスランド島やハワイ諸島がその好例で、海底火山の噴出によって形成され、その海底火山のある海嶺(かいれい)はいまだかつて大陸の一部であったことはなかったのである。またサンゴ礁のなかでも、環礁attolsがもっとも典型的な洋島の一種であるが、北極海や南氷洋のアイス・パックice packが大きい島を形成することがあり、これをとくに氷島(ひょうとう)ice islandsとよぶ。
[市川正巳]
植物相と動物相
島の自然の植物と動物相はこれらの植物、動物の種を表すことは当然であるが、これはもっとも近接した大陸から水域を越えて移動することができたものである。しかし、地理的には類似の大陸の地域よりも少ない種が存在する。これを「生物減少」とよぶ。島の種は類似の大陸の種とは独立に進化し、不連続の集団を形成することが多い。
[市川正巳]
地理的性格
島の本土に対する距離的な位置は、本土との近接性あるいは隔絶性となって、島の地理的性格を大きく支配している。また、生物地理的には、本土で絶滅した種が長く保存されたり、新種が発生したりして、本土の生物分布に対して特色ある分布を示しているものもある。また、人種的にも、民族的にも、さらに民俗的な伝統にも本土との隔絶性が現れて興味深い性格をもった島も多い。
大陸と近接している日本、イギリス、エーゲ海の島々およびインドネシアなどでは、古くから大陸との文化交流が行われてきたと同時に、政治的にも大陸との交渉があり、大陸との間に戦争状態、あるいは植民地化の状態となった例もあるが、半面大陸からの孤立状態にあったことから、植民地化を免れてきた場合もある。
本土から遠く離れた島は一般に離島(りとう)とよばれ、開発が遅れ、文化の進歩から取り残されてきたものが多い。限られた土地の面積と限定された資源との関係から、とくに若年層の人口流出が著しく、老年層の多い人口構成を示すものが多い。また反面、伊豆初島(はつしま)のように、耕地の均分、戸数制限などの取り決めを行い、人口過剰を抑制しているところもある。
また、島には世界交通の焦点あるいは十字路に相当する要衝となっているものがある。その好例はハワイ諸島やシンガポール島などである。これらの島には、海港や漁港が発達したり、軍港が立地したりしているところが多いが、市場との遠隔性によって不振な港も多い。
[市川正巳]
開発
本土から離れている島には、本土との交通が不安定であるもの、資源が欠如しているものが多く、いわゆる後進性を表しているものが多い。離島の開発が積極的に行われたのは最近のことで、日本では1952年(昭和27)に離島航空整備法、1953年に離島振興法が施行された。当初離島振興法の対象となって指定されたのは45島であったが、2017年(平成29)3月末時点で258島がこの法律の施行対象となっている。
離島あるいは孤立して他の島々や本土との関係がきわめて薄い島をとくに孤島とよぶ。かつて太平洋学術会議でこの孤島のシンポジウムが行われたが、その後国際的にも重要課題として取り上げられて、地理学や社会学の分野での研究が進められており、孤島の現状とその振興策についての成果は、各方面から大きな関心が寄せられている。
[市川正巳]
島の民俗
日本民俗学界で島に寄せられた期待はきわめて早く、かつ強かった。たとえば柳田国男(やなぎたくにお)、折口信夫(おりくちしのぶ)、渋沢敬三らの先達たちは、沖縄や各地の島々をしばしば訪れ、島の重要性を説いた。1921年(大正10)柳田は奄美(あまみ)・沖縄諸島を巡り、『海南小記』を著した。1933年(昭和8)彼は沖縄出身の比嘉春潮(ひがしゅんちょう)とともに雑誌『嶋(しま)』の編集に取り組み、島に並々ならぬ情熱を注いだ。1937年には柳田は海村調査を始めたが、これには多くの島が含まれていた。さらに1950年(昭和25)彼の指導のもと、民俗学研究所によって離島調査が行われた。渋沢も早くから島に注目し、彼の主宰するアチック・ミューゼアム(現、神奈川大学日本常民文化研究所)の人々に離島調査を実施させた。1950年八学会連合(翌1951年から九学会連合)が長崎県対馬(つしま)の共同調査に着手したのも彼の提唱によるものであった。九学会連合は、対馬に次いで奄美、佐渡(さど)、沖縄の島々にも共同調査を進めた。
このように島が重視されたのは、本土から切り離され、交通、通信が不便なために、新文化の流入が遅れ、古風な民俗が豊かに残されていると考えられたからである。確かに離島は民俗の宝庫であり、社会伝承や信仰習俗にも本土ではみられぬ古俗が少なくない。たとえば対馬では、本戸(ほんこ)・寄留(きりゅう)という身分制度が村落生活に生き続けていたり、カネツケ祝いとよばれる成人式やヨマ(隠居)の慣行が伝えられていたり、天道(てんどう)信仰や命婦(みょうぶ)という巫女(みこ)が認められたり、さまざまな古習が指摘される。ほかにも奄美・沖縄諸島の祝女(のろ)やユタ、伊豆諸島の神主(かんぬし)や巫女、五島列島や平戸(ひらど)島の「隠れキリシタン」と、信仰習俗について注目される島はきわめて多い。
ただ島の種類にも、沿岸の島と離れ島、内海の島と外海の島、孤島と群島、小さな島と大きな島などさまざまで、けっして文化の吹きだまりばかりとはいえない。現に瀬戸内海の島々や日本海の隠岐(おき)島、佐渡島などはかつて沿岸航路の要衝にあたり、有形無形の中央文化がいち早くもたらされ、新文化の栄えた所である。佐渡の文弥(ぶんや)人形、野呂間(のろま)人形、説教人形はいずれも古浄瑠璃(じょうるり)時代の歌曲、操法、舞台を遺存する文化財であるが、都の流行がそのまま直接伝えられたといわれる。また民謡おけさは長崎県平戸島のハイヤ節を元唄(もとうた)とするもので、同類は北は東北地方各地に、南は九州南端にも広まっており、その伝播(でんぱ)は海上交通を抜きにしては考えられない。柳田は、沖縄諸島を踏み石とした民族の移動、文化の交流を想定し、『海上の道』(1961)を著したが、また沖縄諸島と伊豆諸島との間に文化の類似のあることを指摘して「黒潮文化」を説く者もある。しかし帆船による沿岸航路は、明治中期以降、鉄道の発達とともに衰退し、やがて島の港は大きく性格を変え、島と本土を結ぶローカル航路の終点と化した。これが島の人々と文化の一大転機となり、島を一気に後進地域に追いやってしまった。
島にも佐渡の金山、対馬の銀山、八丈島の黄(き)八丈、五島列島の捕鯨・漁業、奄美・沖縄諸島の砂糖など、古くから特産で知られた所もある。また瀬戸内海の島々は、海が穏やかで本土にも近く、漁業、製塩業、石材業などが発達し、近年はミカンを栽培し、さらに造船、金属製錬など近代産業の興隆した所もみられるが、多くの島では自給自足にも事欠き、不便な生活を強いられてきた。四周を海に囲まれながら、島では漁業の発達が遅れがちであった。それは、天然の良港に恵まれぬうえに、技術の改良、資本の蓄積、市場との距離などすべてに不利であったからである。鹿児島県の吐噶喇(とから)列島など、岸近くまで回遊するカツオを釣り、かつお節の産地として知られていたのに、明治末年本土の大型漁船が出漁するようになると、すべて沖合いで釣られ、たちまち島の漁業は全滅してしまった。こうして島の人々は海に背を向け、わずかな土地を耕し、サツマイモと麦でかろうじて暮らしを支えるという例が少なくなかった。そのサツマイモさえも近世中末期に普及したもので、伊豆諸島などこれで飢饉(ききん)を免れることができたのである。島の生業で特色を伝えるものに、対馬、隠岐、山口県八島(やしま)の牧畑(まきはた)がある。牛馬の飼育と畑作を交互に輪転させる土地経営法である。また対馬や鹿児島県甑(こしき)島・黒島および沖縄諸島には田畑の地割制(じわりせい)が伝えられている。村有の土地を各戸にくじなどで定期的に割り替えていく方法で、乏しさを分け合おうとする精神が看取される。
島の自然環境はきわめて厳しく、奄美・沖縄諸島や伊豆諸島は台風常襲地帯にある。加えてこれらの島々では飲料水の確保がむずかしかった。そこでいかに天水を蓄えるかに苦心し、屋根に降った雨をタンクに導くとか、木から滴る雨水を壺(つぼ)に受けるとか、さまざまなくふうを凝らした。女性の頭上運搬が盛んに行われたのも水運びのためといわれる。いったいに島では女性の働きが大きく、男性が出漁したあと、農業をはじめ家事や育児をすべて女性が担当する風である。また海女(あま)や行商、織物など、女性の働きで有名な所も島には少なくない。
島の歴史を彩ったものに流人(るにん)がある。伊豆諸島をはじめ佐渡、隠岐、奄美など多くの島々が古代より近世末まで流刑地(島流し)に利用された。なかには中央で活躍した有名な人、身分の高い人も混じり、これらの人々の島民に与えた影響も大きかったといわれる。
[竹田 旦]
『柳田国男編『海村生活の研究』(1949・日本民俗学会)』▽『日本民俗学会編『離島生活の研究』(1966・集英社)』▽『竹田旦著『離島の民俗』(1968・岩崎美術社)』