安芸郡(読み)あきぐん

日本歴史地名大系 「安芸郡」の解説

安芸郡
あきぐん

面積:五六一・七四平方キロ
東洋とうよう町・北川きたがわ村・奈半利なはり町・田野たの町・安田やすだ町・馬路うまじ村・芸西げいせい

高知県の東端に位置し、南は当郡を割いて成立した室戸市、北西は同じく安芸市であるが、その西にある芸西村は現安芸郡の飛地となっている。北東は徳島県海部かいふ郡。南東は太平洋、南西は土佐湾に面する。北方の県境に近い甚吉森じんきちがもり(一四二三・三メートル)千本せんぼん(一〇八四・四メートル)などの馬路村魚梁瀬やなせの山並が、まっすぐ南下して太平洋に突出したのが室戸市の室戸岬で、この山地は年間降水量三〇〇〇ミリを超え、山ひだに刻まれた谷は深く、流れは速い。太平洋に注ぐ東洋町の野根のね川、馬路・北川・奈半利を貫流して土佐湾に注ぐ奈半利川、馬路・安田を流れる安田川がそれで、山地からすぐ海に注ぐため、扇状地と氾濫原の別がなく、平野らしい平地はない。室戸市・安芸市を分置する以前の旧安芸郡は、大きく四つの地域に分けられ、阿波と海岸続きで接し甲浦かんのうら港をもつ現東洋町の地区、室戸岬を要に扇形を描く現室戸市地区、奈半利・安田両河川流域の中芸地区、現安芸市と芸西村を合せた安芸西部地区に区分された。

郡名は「続日本紀」神護景雲元年(七六七)六月二二日条に「土左国安芸郡少領」とみえるのが早い。戦国時代末期、長宗我部元親が安芸郡を掌握した時、表記を「安喜」に改めたといわれ、近世には安芸・安喜が混用されるが、明治四年(一八七一)安芸に統一された。なお畑島はたしま郡の別名もあったという(安芸郡史考)

〔原始・古代〕

安芸郡は県下でも考古遺跡の少ない地域で、縄文時代の遺跡の発見は少なく、海岸部はともかく、北川村や馬路村の山岳地は狩猟民にとっても立入りがたい地であったと思われるが、芸西村に西分にしぶん遺跡がある。弥生時代に入ると、各河川下流域の沖積平野を中心に生活の痕跡が残る。その中心は現安芸市域の平野部で、芸西村のうまうえ遺跡・和食附野わじきつけの遺跡、安田町安田八幡宮やすだはちまんぐう遺跡、奈半利町四手井山しでいやま遺跡などその周辺にもみられる。東側海岸部ではわずかに東洋町の野根遺跡が知られるのみである。古墳時代も同様に安芸平野に集落が発達したようであるが、古墳は安田町東島ひがしじまに末期の横穴式石室墳が三基発見され、大木戸おおきど古墳群とよばれる。

「続日本紀」によれば、神護景雲元年、安芸郡少領凡直伊賀麻呂が奈良西大寺に稲二万束と牛六〇頭を献上して外従五位上を授けられたことが知られる。この凡氏の居住地は、安田町の古墳に関連づけてその付近であったともいうが、現室戸市室津むろつ付近との説もあり確定できない。

安芸郡
あきぐん

面積:二〇三・二八平方キロ
蒲刈かまがり町・下蒲刈しもかまがり町・音戸おんど町・倉橋くらはし町・江田島えたじま町・さか町・熊野くまの町・海田かいた町・府中ふちゆう

広島県西南部、広島湾東岸域および江田島・倉橋島・上蒲刈島・下蒲刈島などの島嶼部を郡域とする。湾岸部は呉娑々宇ごさそう(六八二・二メートル)の西から南流する温品ぬくしな川、海田湾に注ぐ瀬野せの川、熊野盆地から南流して呉湾に注ぐ二河にこう川流域の地で、平地は少なく、広島市と呉市に挟まれるが、広島市との間で飛地的に郡が分断されている。山がちな島嶼部は東は豊田郡、西は佐伯郡の諸島に連なり、瀬戸・入江などの風光に富み、呉市・広島市へフェリーが運航する。

郡名は宝亀一一年(七八〇)一二月二五日付の西大寺資財流記帳(西大寺文書)に「安芸国安芸郡牛田庄図二巻」とみえ、郡域はほぼ現安芸郡および広島市東半部・呉市西北部を占めた。「三代実録」貞観四年(八六二)七月二七日条に「安芸国安芸郡始置主政一員」とみえ、この時中郡とされたらしい。一〇世紀後半以降国衙支配の変質に伴って郡の分割が行われるが、長治三年(一一〇六)二月一九日付丹治近恒田畠売券(「安芸国徴古雑抄」所収厳島文書)に「畠壱町玖段 加安南坪井畠定」、保延五年(一一三九)六月日付藤原成孝同範俊連署寄進状(浅野忠允氏旧蔵厳島文書)に「南限加留賀安北郡堺」とあり、平安末期までには安南あなん郡と安北あんぽく郡に分れ、現安芸郡域は安南郡に属した。安南郡は近世初期まで続いたが、寛文四年(一六六四)幕命による郡名復古で安芸郡となった。

〔原始・古代〕

「国造本紀」に阿岐国造がみえ、その名の原拠ともなる安芸国安芸郷は府中町一帯に比定されている。律令制施行当初からのものかどうか説が分れるにせよ、府中町は平安時代には国衙所在地として安芸国の政治的中心地であり、同町の道隆どうりゆう寺付近には奈良時代に寺院が存在した可能性があるなど、当地が早くから開けていたことがわかる。また古代の山陽道が府中町を南北に貫通し、安芸駅が町内に比定される。島嶼部は古くから瀬戸内海交通が開け、大型官船の造船地と考えられている倉橋島には天平八年(七三六)新羅使が停泊している(「万葉集」巻一五)。また平氏によって音戸ノ瀬戸を通って厳島に至る航路が整備されると、これが中世を通じて重要な航路として機能した。

安芸郡
あげぐん

面積:一七〇・四九平方キロ
河芸かわげ町・芸濃げいのう町・安濃あのう町・美里みさと

伊勢国のほぼ中央にあり、北は鈴鹿市・亀山市・鈴鹿郡、西は阿山郡、南は久居ひさい市・津市に隣接する。伊勢湾沿岸から布引ぬのびき山地に至る地域であるが、河芸町と芸濃町・安濃町との間に津市の市域が介在するため、郡域は東西に分断されている。この地域は、およそ古代の奄芸あんげ郡と安濃郡に属した地域であって、明治二九年(一八九六)三月二九日、奄芸郡は河曲かわわ郡と合併して河芸郡と名を改めたが、その北半部に近い地域が鈴鹿市となり、残る地域も町村合併促進法によって津市に編入されて、郡域が小さくなったうえ、安濃郡も東半分が津市となったので、昭和三一年(一九五六)九月三〇日、河芸・安濃両郡が合併して安芸郡を構成した。もとの奄芸郡は安芸郡と書かれることもあったから、旧郡名が復活したような形となった。

この地域の西方布引山地は、片麻岩と花崗岩とからなる古生代の地層であるが、そこから海岸に向かって延びる低い丘陵は、多くは奄芸層群とよばれる第三紀鮮新世のもので、約一千二〇〇万―一千三〇〇万年前に、伊勢湾が広い湖水であった当時の湖底堆積物からなる地層といわれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報