島義勇(読み)シマヨシタケ

デジタル大辞泉 「島義勇」の意味・読み・例文・類語

しま‐よしたけ【島義勇】

[1822~1874]江戸末期・明治初期の志士政治家佐賀藩士。通称団右衛門。戊辰ぼしん戦争で功を立て、秋田県令などを歴任。新政府政策に反対して帰郷。明治7年(1874)江藤新平らと佐賀の乱を起こしたが、捕らえられ斬首ざんしゅされた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「島義勇」の意味・読み・例文・類語

しま‐よしたけ【島義勇】

佐賀の乱の首謀者。佐賀藩出身。通称団右衛門。戊辰(ぼしん)戦争従軍して功を立て、のち秋田県令に達する。保守的であったため、政府に批判的で、明治七年(一八七四)佐賀に帰り、江藤新平とともに乱をおこしたが、捕えられて斬罪に処された。文政五~明治七年(一八二二‐七四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「島義勇」の意味・わかりやすい解説

島義勇 (しまよしたけ)
生没年:1822-74(文政5-明治7)

佐賀の乱の首謀者。佐賀藩士。禄高300石。通称団右衛門,字は国華。楽斎,桜陰と号する。初め従兄枝吉神陽に学び,のち江戸に出て佐藤一斎に陽明学を学び,藤田東湖を知る。安政年間(1854-60)藩命により北海道,樺太視察。1868年(明治1)藩の海軍軍監となり,戊辰戦争に大総督府軍監として東北鎮定に赴き,会計官,北海道開拓使判事,大学少監,侍従,秋田県令を歴任したが,政府と議合わず72年6月辞職。翌年帰郷して佐賀憂国党首領に推され,74年1月〈恩賞不当,刑罰顚倒,奸臣専横〉の政治を改良せんとして,江藤新平の征韓党とともに兵を佐賀に挙げ,敗走して鹿児島で捕らえられ,佐賀で斬罪に処せられた。
佐賀の乱
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島義勇」の解説

島義勇 しま-よしたけ

1822-1874 幕末-明治時代の武士,官僚
文政5年9月12日生まれ。枝吉神陽,副島種臣従兄弟。肥前佐賀藩士。安政3年(1856)藩命により蝦夷(えぞ)地(北海道),樺太(からふと)を視察。戊辰(ぼしん)戦争には大総督府軍監として従軍。維新後,開拓使判官,秋田県権令などをつとめたが,政府と対立し辞職。江藤新平とともに佐賀の乱の指導者となり,明治7年4月13日処刑された。53歳。字(あざな)は国華。通称は団右衛門。号は楽斎など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の島義勇の言及

【佐賀の乱】より

…明治6年10月の政変(征韓論分裂)で,参議西郷隆盛らと下野し,また板垣退助らと民撰議院設立の建白書に名を連ねた江藤は,郷里の佐賀に帰った。佐賀の征韓党はこの江藤を首領とし,これまで拮抗していた憂国党(1873年,秋田県令をやめた島義勇を首領)と対政府行動を共にするに至った。74年2月1日,3000余人(のち1万1000余に達する)は小野商会を襲って行動を起こした。…

※「島義勇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android