宇野御厨(読み)うののみくりや

日本歴史地名大系 「宇野御厨」の解説

宇野御厨
うののみくりや

平安期よりみえる肥前国の御厨。のち庄園化して宇野御厨庄、またはたんに御厨庄などとも記される。御厨が置かれた松浦まつら・五島の一帯は令制下では大宰府を通じて贄を納めたことが知られ、「肥前国風土記松浦郡条の伝える伝承では景行天皇に贄の貢進を約束したというが、いずれも古来より当地の海産物を献じていたものであろう。同じく馬・牛に富むと記されるが、一〇世紀には庇羅ひら馬牧・生属いきつき馬牧・のがきの牧など当地に比定される官牧があり(「延喜式」兵部省諸国馬牛牧条)、島という地形を利用した牧経営は中世にも継続している(青方文書)。また五島のように農耕地に恵まれなかったことも留意されるべき点で、こうした生業のあり方から御厨または庄園の範囲は定めがたく、少なくとも平安初期には貢納物を出す地域、それを納める人物が住む地域を広く宇野御厨・宇野御厨庄と称したと考えられ、現長崎県域を越えるものであった。鎌倉期の史料から知られる現県域内の宇野御厨の範囲は現在の五島列島平戸島生月いきつき島・たく島・おお島・ふく島・たか島などの諸島、北松浦きたまつうら郡の田平たびら町・小佐々こざさ町・佐々さざ町・鹿町しかまち町および松浦まつうら市・佐世保させぼ市に及ぶ一帯になる。

〔大府贄人と源久〕

寛治三年(一〇八九)八月一七日の筑前国観世音寺三綱解案(東南院文書)に「宇野御厨」とみえる。観世音かんぜおん(現福岡県太宰府市)は大府(太宰府)贄人を称する松永法師が同寺領の筑前上座かみつくら杷岐はき中島なかしま(現同県杷木町)を筑後国生葉いくは郡内の宇野御厨領であると号して押妨したとして訴訟沙汰になっており、松永法師は筑後川左岸沿いの中島が贄人源順の先祖相伝の所領であり、それを伝領して御菜を供えようとしただけであると主張している。しかし観世音寺の訴えにより、宇野御厨別当の散位藤原頼行は同所の観世音寺領を御厨領として押妨することを停止させている。法師の主張によれば、こうした贄人の活動する地、贄を産する地をも御厨領と称していたことになり、令制下の単位である国を飛越えたものとなっている(同解案および同年九月二〇日「大宰府公文所勘注案」・同年九月二二日「大宰府下文案」同文書)。宇野御厨が当初は大宰府の管轄下にある贄人の活動する北九州(五島を含む)沿岸地域を一括して単位としたという説があるのも当然といえよう。またこうした贄人が武士化したのが松浦党であるといわれ、源順という名はのちの松浦氏が一字名を習いとすることと見合うものである。

松浦党の祖という源久は「宇野御厨野検校散位」であることも注目される。

宇野御厨
うののみくりや

現長崎県松浦市御厨町付近を中心に伊万里湾沿岸・北松浦半島・平戸・五島方面の島々の広範囲にわたる地域とされるが、実体はよくわかっていない。この地域は山野が海にせまる地形で平地が少ないのが特色である。

寛治三年(一〇八九)松永法師という者が、観世音寺領の筑前国上座郡把岐庄(現福岡県朝倉郡把木はき町)は、もともと先祖の贄人源順相伝の所領であり、御厨領である、と主張して押妨。しかし観世音寺(現福岡県筑紫郡太宰府町)の訴えで、宇野御厨別当散位藤原頼行は、同年六月から九月にかけて法師の押妨を停止させている(東南院文書)

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百科事典マイペディア 「宇野御厨」の意味・わかりやすい解説

宇野御厨【うののみくりや】

肥前国松浦(まつら)郡に設定されていたが,どこの御厨であったか不明。現長崎県松浦(まつうら)市に御厨の地名が残っており,この付近を中心にしたとみられる。鎌倉時代には宇野御厨荘・御厨荘とも称され,田数300町であったことが知られ,また1322年西園寺家に年貢の子牛を送った記録がある。当御厨の贄人(にえびと)らは複雑な海岸線を呈する多島海沿岸に広く割拠し,航海術をもって海外交易に従事したりしたが,やがて武装化して松浦党とよばれた。壇ノ浦の戦の平家方主力水軍は松浦党であった。
→関連項目青方氏値賀島松浦氏

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改訂新版 世界大百科事典 「宇野御厨」の意味・わかりやすい解説

宇野御厨 (うののみくりや)

肥前国松浦郡(長崎県北松浦郡南松浦郡の一部)の御厨。この地方は複雑な海岸線と多島海であることから海産物が豊富で,牛馬の飼育も盛んであったので御厨として設定されたものと思われるが,どこの御厨であったかは不明。平安時代初期には,筑前,筑後,肥前国にわたる広い水面を指していたが,平安時代末期以降は,上五島を含む北松浦郡地帯に限定されるようになった。宇野御厨の贄人(にえびと)は,田畑を開発し,根本開発領主として武士化し,松浦党と称された。鎌倉時代には,宇野御厨荘とか御厨荘と称されるようになり,1292年(正応5)肥前国一宮河上宮造営用途支配田数注文には,宇野御厨荘300丁と見える。1322年(元亨2)には宇野御厨よりの年貢として,小牛が西園寺家に送られている。御厨の名称は北松浦郡御厨(現,長崎県松浦市)に残存しているが,御厨あるいは荘園としての機能は,南北朝時代に事実上消滅しており,その後は地域を示す名称にすぎなくなっていた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇野御厨」の意味・わかりやすい解説

宇野御厨
うののみくりや

肥前(ひぜん)国松浦(まつら)郡(長崎県南・北松浦(まつうら)郡)に設定された御厨。平安時代初期には、大宰府(だざいふ)の贄(にえ)貢進のため、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前にわたる広い水面を含む地域に設定されていたが、平安時代末期には南・北松浦郡の地域に限定されるようになった。御厨の地名は現在の長崎県松浦市の中に残っている。鎌倉時代になると荘園(しょうえん)化して、宇野御厨庄(しょう)と称されるようになり、1292年(正応5)「肥前国河上宮(かわかみぐう)造営用途支配惣田数(そうでんすう)注文」には、「宇野御厨庄三百丁」とみえ、1322年(元亨2)には、西園寺(さいおんじ)家に年貢として小牛を進上している。南北朝動乱期以後は、荘園としての機能も失われ、単なる地域を示す名称として残存することになった。

[瀬野精一郎]

『清水正健編『荘園志料 下』(1965・角川書店)』『稲垣泰彦編『荘園の世界』(1973・東京大学出版会)』

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