大窪村(読み)おおくぼむら

日本歴史地名大系 「大窪村」の解説

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]氷見市大窪

東は長坂ながさか村、南は戸津宮とつみや村、西は角間かくま村、北は能越国境を境に能州石動せきどう山。下戸津宮(戸津宮村)に対して上戸津宮とも称し、宝達ほうだつ・石動山丘陵の南東斜面に位置する。傾斜のきつい山間地は水田耕作には適さず、村人はいわゆる宮大工として堂塔建築等に従事した。石動山に源を発し、角間村との村境を南流する石動山川(八代仙川)は、大窪村稚児林ちごばやし池からの流れと八代仙岩屋はつたいせんのいわやの下から東流する滝川を集めて南東に流れ、白川しらがわ村地内で五十谷いかだん川と合流して宇波うなみ川となる。天正一五年(一五八七)前田利長より大窪村大工三郎右衛門以下一六人に居屋敷地が扶持され(「氷見郡大窪村大工居屋敷扶持状」大窪大工神明講蔵)、合せて「とゝ宮村九俵、長坂村四俵、うなミ村三俵」の都合一六俵の物成が赦免された(天正年中一二月三日「大窪村大工居屋敷物成赦免状」同蔵)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印は下付されていない。村人は越中射水いみず郡・礪波となみ郡や能登国鹿島かしま郡を中心に堂塔建築等に従事していたが、延宝三年(一六七五)初めて新開が行われた。この年一月大窪村領内において高一〇石余の新開願が出されている(「新開願状」越中氷見地方 藩政時代の公租と農民の生活)。この新開地をひらき、あるいは大窪だいくぼともいう。加納組高覚帳(円仏家文書)では延宝三年の新開高三七石余、免は御図免、明暦二年(一六五六)の百姓七。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]日南市大窪、南那珂郡南郷なんごう榎原よわら

塚田つかだ村・萩之嶺はぎのみね村の西に位置し、南は橋之口はしのくち(現南郷町)。南郷川(大窪川)最上流域を占め、集落は同川沿いの谷間に点在する。大久保とも書く(「検地古今目録」日向国史など)。また南郷地頭の管轄地で南郷西大久保なんごうにしおおくぼとも称した(正徳四年頃飫肥藩人給帳)。「日向地誌」が載せる伝承によると、当村は古くは塚田村の一部で、川内かわちと称していたが、のち戸数が増加したため一村になったという。この川内はのちの萩之嶺村の一部も含んでおり、同村西部の字地であった大窪(現在の字西寺付近)が当村の村名由来という。おそらく川内といっていた頃から一帯の地域の総称として大窪も併用されていたと推測される。また郡行政などによると、萩之嶺村の西部、西寺にしてら仏坂ほとけざかを含む一帯を東大窪(東大久保)と称したのに対して当村は西大窪(西大久保)ともよばれ、この呼称は天保年間(一八三〇―四四)まで用いられたという。仏坂で志布志しぶし街道から分れ、大窪川沿いに通水とおりみず茶円ちやえん仮屋かりや寺村てらむら南平みなみびらの各集落を経へ猫坂ねこざかを越え、高鍋藩領飛地の大平おおひら(現串間市)に至る道が通じていたが、「日向地誌」によれば飫肥藩領南方(南郷)では一、二を争う僻村で、運輸は大変不便であった。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]増穂町大久保おおくぼ

天神中条てんじんなかじよう村の西、最勝寺さいしようじ村の北に位置し、北は東流して富士川に注ぐ利根とね川を挟んで小林こばやし村・舂米つきよね村に対する。利根川と村の南西端を流れる川が形成した扇状地の扇頂部に位置する。大久保とも書いた。村は八つの小名に分れ、徳瀬とくせ北田きただ桑原くわばら中堰なかせぎ広見ひろみは村内にあるものの、寺尾てらお(テロウとも)日影林ひかげばやし菖蒲池しようぶいけの三つは最勝寺村との境や小室こむろ村分内に飛地として存在する。天正一一年(一五八三)四月二六日の徳川家康印判状写(寺記)南明なんめい寺領として「大窪内六貫文」とみえ、同一七年一二月七日の伊奈忠次寺領証文(南明寺文書)によると南明寺は、大窪郷内の寺領から六俵の納入および田畠の等級にかかわらず一反当り一斗ずつの夫銭を徴収する権利を保証されている。慶長六年(一六〇一)大久保村検地帳(県立図書館蔵)によると田方六町九反余・畑方二町三反余、屋敷地七五〇坪・屋敷数五。慶長古高帳には大窪村とあり、高一七一石余、幕府領。ほかに御崎みさき社領六斗余。寛文八年(一六六八)の家数二七・人数九五(「宗門人別改帳」伊藤清麿家文書)

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]柏崎市大久保おおくぼ・大久保一―二丁目・中浜なかはま二丁目・若葉わかば町・みどり町・赤坂あかさか町・寿ことぶき町・番神ばんじん一丁目・常盤台ときわだい米山台よねやまだい一―三丁目

川下流左岸の村。東の対岸は枇杷島びわじま村、北は鵜川を隔てて柏崎町へ家続きの北陸道で、西は街道に沿って中浜なかはま村への町並。「白川風土記」に「往昔 鷲尾大納言ト云人ノ領地ナリ。鎌倉ノ代ニハ大国修理大輔ト云者領セシトナリ。南北朝ノ一門 里見・鳥山ノ人々ノ領地ナリシカ 足利家ヘ属シ 貞治年中当国残ラス上杉左近将監憲栄ヘ賜ハリ」とあって、記録の少ない守護上杉氏以前の当地方の領主の変遷を伝える。

近世は松平忠輝以来高田藩領。天和元年(一六八一)より寛保二年(一七四二)まで幕府領。元禄元年(一六八八)より享保八年(一七二三)まで陣屋があり代官が常詰、同九年より長岡藩預領。寛保二年白河藩領。文政六年(一八二三)に白河藩は桑名くわな(現三重県桑名市)へ転じて再度幕府領となる。正保国絵図に高三一四石余。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高五一四石七斗余。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]矢本町大塩おおしお

中江なかえ川流域で、東は塩入しおいり村、南は小松こまつ村、西は福田ふくだ(ともに現鳴瀬町)。丘陵地のため集落は山間の窪地に散在。小野おの本郷から根古ねこ(現鳴瀬町)を経て当村表沢おもてざわ宿しゆくに至り広淵ひろぶち(現河南町)に抜ける気仙けせん道が通る。正保郷帳では田七五貫八二文・畑八貫一六〇文で柴山と注され、ほかに新田一四貫九五八文。「安永風土記」では田一二二貫一〇一文・畑一〇貫九七文、うち茶畑五八一文。蔵入三〇貫八五六文でほかは給所。人頭八六人、家数八八(うち水呑二)、男二四九・女二一〇、馬一一八。近世初頭湯村氏、正保年間(一六四四―四八)より田村氏の支配下におかれ、のち寺池てらいけ(現登米郡登米町)の伊達式部宗倫の飛領地となった(宮城県史)。寛文七年(一六六七)当村と伊達安芸宗重領の遠田とおだ郡で浦沢うらさわ谷地一〇町分について境界争論となった。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]境川村大窪

境川の最上流域に位置し、地内は山地が過半を占め流域に沿って南北に長く延びる。南は鶯宿おうしゆく峠を越えて鶯宿村(現芦川村)、西は藤垈ふじぬた村。大久保村とも記される。永禄一〇年(一五六七)一一月二三日の武田信玄判物写(甲斐国志)に「大窪之郷」とみえるのは当地とも考えられ、上州箕輪みのわ(現群馬県箕郷町)の守備を命じられた松鶴軒(信濃根津氏か)に大窪郷一〇〇貫文の地が与えられている。天正元年(一五七三)九月三日の武田勝頼朱印状(岡欽次家文書)によれば、大窪の岡弥左衛門尉が裏方に出仕している。武田氏滅亡後の甲州を領した徳川家康は、同一七年代官伊奈忠次をして惣検地を行わせている。この折各郷に宛て七ヵ条の郷中掟書が出されたが、同郷にも一〇月二八日伊奈忠次が奉じた掟書(写、御庫本古文書纂)が発せられている。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]霧島町大窪

曾於郡そのこおり川北かわきた村の南東にあり、北西端を霧島川が南西流し、村中央を同川支流かり川が南西流する。南は同郷重久しげひさ村、東は日向国諸県もろかた西嶽にしだけ(現宮崎県都城市)あや筋が南西から北東へ通る。村名は大久保・小窪とも記される。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)には曾於そお郡の項に大窪六町が記されている。在地領主は大隅国建久図田帳や建久九年(一一九八)三月一二日の大隅国御家人交名(旧記雑録)に名のみえる曾於郡郡司藤原篤守の一族である税所氏であろうか。その居館は大窪の南方、現霧島町と国分市の境の入戸いりとから王子原おうじばる辺りにあったとされる(「霧島町郷土誌」など)。大永元年(一五二一)樺山長久は本領としていた日向野々美谷ののみたに(現宮崎県都城市)に代わり大窪などを島津忠兼(勝久)から与えられた(樺山氏系図)

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]明石市大久保町大窪おおくぼちようおおくぼ大久保町高丘おおくぼちようたかおか一―七丁目・大久保町山手台おおくぼちようやまてだい一丁目

谷八木たにやぎ川の上流に位置した村。南は大久保町・藤江ふじえ村など。野々上組に所属。平安期成立の「住吉大社神代記」に明石郡魚次なすき浜一処の四至として「東限大久保尻限、南限海棹及際、西限歌見江尻限、北限大路」とある。魚次は魚住うおずみのことで、大久保は赤根あかね川下流域をさすと考えられる。地内光触こうそく寺への天正一三年(一五八五)四月一三日の山田道清等連署撞鐘寄進状(光触寺文書)に「大窪光触寺」「大くほ」と記される。慶長国絵図に大窪村とみえる。正保郷帳では中野村と記され、田高一千二九七石余・畑高一五〇石余、松山あり。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]八尾市大窪・ひがし町二―五丁目

千塚ちづか村の南、高安山麓部に立地。南は山畑やまたけ村。八尾から来た立石たていし街道は山麓で立石越道とおと越道の二手に分れ、おと越道が当村を通る。これに関連して「河内鑑名所記」は「大窪村 山上ハおとこへと常ニ申候へ共、追頭越と書申が本説の由、かの女なりひらを是迄をつかけし故ニ、をふとろこへと申とや」と記す。おと越はまた大戸越と書かれたりする。保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)は山城石清水いわしみず八幡宮寺領・極楽寺領に対する押領を停止し、本所たることを確認したものだが、そのなかに宮寺領の一として河内国くぼ庄がみえる。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]熊本市清水しみず町大窪

坪井つぼい川と井芹いせり川に挟まれた台地上にあり、東と北は飛田ひだ(現飽託郡北部町)、西は豊前街道を挟み徳王とくおう(現北部町)、南は山室やまむろ村に接する。応永六年(一三九九)一月一四日の肥後国鹿子木東荘坪付(詫摩文書)に「一所八町 大くほ」とある。

慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では、田方一二町八反余・畠方七町八反余、分米二〇二石二斗余とあり、神主が屋敷八畝と田畠九反一畝をもつ。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]田主丸町八幡やわた

竹松たけまつ村の西、筑後川左岸に位置する。西大窪村ともみえる。幕末の筑後川絵図(木村家蔵)によると川岸通は東大窪村・鹿狩ろつかり村・江口えぐち村と入組み一三八間とある。貞和六年(一三五〇)一一月に六箇里通時は竹野たかの郡内の所領について足利直冬に安堵の証判を申請したが、そのなかに「竹野本庄内忠富・有恒両名・下大窪村号金丸名」とみえる(「六箇里通時申状」池田文書/南北朝遺文(九州編)三)

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]砺波市大窪

石丸新いしまるしん村の南、千保せんぼ川跡の右岸にある。元禄一四年(一七〇一)の村名由来書(川合家文書)には石丸村・千保村内の地が寛永一六年(一六三九)新開されてできた村で当初大窪新村と称し、その後村御印を下されたとき大窪村と改められたとある。大窪は川跡の低地を示す地形名であろう。切れ切れの飛地が多い。正保郷帳では大窪新村とあり高四二石余、田方一町三反余・畑方一町五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では大窪村とあり、草高五石・免四ツ一歩、小物成は鮎川役一匁・鱒役一匁(三箇国高物成帳)

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]下津町大窪

市坪いちつぼ川の上流大窪川の源流に位置する。有田郡との境となる長峰ながみね山脈の北斜面にあたり、比較的谷の開けた山腹である。当村の里神社宮座党文書の箱書に、大永年間(一五二一―二八)いちつぼ村から分村したと記されている。

慶長検地高目録によると村高三六七石余、小物成四石六斗五升七合。加茂組に属し、宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)によると当村は藩の蔵入地で、本田畑高三七四・五三石、新田畑高四・六三二石、開起田畑〇・五一石、戸数八一、人数三七七とある。「続風土記」は高三七九石余、家数七九、人数三五〇、小祠二社(里神社・塞神森)と記す。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]岡山市大窪

辛川市場からかわいちば村の北、飯盛いいもり山南麓に位置する。当村から三光さんこう山南部の鞍部を越え、高松たかまつ稲荷へ抜ける参道があり、大窪越という。寛永備前国絵図に村名がみえ、高四四四石余。正保郷帳では大久保村と記される。「備陽記」によると田畠三〇町四反余。元禄(一六八八―一七〇四)頃の手鑑(則武文書)では直高三一七石余、蔵入と家臣森半右衛門の給地。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]伊万里市東山代町ひがしやましろちよう大久保おおくぼ・同東大久保ひがしおおくぼ

標高五九七メートルの烏帽子えぼし岳を南限とする北斜面のさと川流域。慶長絵図には「大窪村」とあり、貞享四年(一六八七)改の郷村帳には「大久保村」とある。

「東山代村誌」に村の消滅を「東大久保は昔折田村と称し、今の字折田に在りしが、(中略)地すべりのため全村大災害を蒙りしかば(内数戸は人畜共に深く埋没せしと云ふ、発掘の跡今に存せり)一部は里に移り、一部は字浦丸谷に転じ現今東大久保と称せり」と記す。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]大豊町大久保おおくぼ

北流する吉野川の左岸、阿波国境に位置する山村。「土佐州郡志」は「大砂子村ノ東、東西十五町南北二十三町」と記す。「大久保」とも記す。天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「北地九名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「大窪名」とみえ、検地面積五町五反一九代一歩、うち田分二町一二代、畠分二町四反一四代、屋敷一七・堂床(薬師堂)一で一町四三代一歩。堂床のほかは公事分と名本分からなる。

延享二年(一七四五)の豊永郷差出控(大家家蔵)によれば総地高一三一石余、うち本田高五五石余、新田高七六石余。本田のうち蔵入地四七石余、残りは桑名源七ほか一名の給田。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]八千穂村大字はた 大窪

千曲川左岸の低地から比高約五〇メートルの段丘上に位置する。東は下畑しもはた城跡・下の城跡の所在する段丘崖によって下畑村と、西は丘陵性山地によって高野町たかのまち小山地区(現佐久町)と境し、南は中畑村上野、北は高野町に接する。標高約八四〇メートルにある小村で、東と西の低い丘陵の間に幅約一〇〇メートルの低地がほぼ南北に数百メートルにわたって延びている。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]砥用町大窪

東は舞鹿野もうかの村、南西は目磨めとぎ村、北は岩尾野いわおの村・田中たなか村などに接する。中央を津留つる川が西流する。南は山で覆われている。慶長六年(一六〇一)一一月一七日の門刀屋(カ)某宛加藤清正黒印状(熊本本妙寺文書)によると砥用大窪村一四石三斗が宛行われている。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高二一五石二斗余、うち田方六〇石余・畠方一五五石一斗余。砥用手永に属し、「国誌」は「原口村下津留村小川原村等小村アリ」と記す。「肥集録」には「原口、中ノ屋敷、下津留、井手口、古河原」とある。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 大久保おおくぼ

十根川とねがわ村の東、十根川の支流を隔てた所に位置する。下福良掛三九ヵ村の一つで、十根川組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として大窪とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑五反余(高五斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。文政一一年(一八二八)の下福良村組焼畑見取場検地帳(相良家文書)では焼畑六町二反余・高六石八斗余。天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(同文書)では高七石四斗余。寛延二年(一七四九)の村柄様子書上帳(同文書)では「畑地も有之木立焼畑作所等も能所ニ而中分之渡世ニ御座候」とある。延享三年の村覚(那須家文書)では人数三六、安永六年(一七七七)の椎葉山家数人数牛馬改帳(内藤家文書)によれば竈数七・人数三七。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]津幡町大窪

倶利伽羅くりから峠の南西に位置。正保郷帳では高二四石、田方七反・畑方九反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三一石、免六ツ六歩、小物成は山役一〇六匁・野役一匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。文化八年(一八一一)の産物は牽売米一五石ほど・蚕繭一〇貫目ほど・楮皮五束ほど・割木五〇〇貫目ほど(「村々諸産物書上帳」新田文書)。天保年間(一八三〇―四四)の家数九・人数四二、馬一(「河北郡村々調理書上帳」林文書)

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]吾北村上八川下分かみやかわしもぶん 大久保おおくぼ

上八川村の東南に位置し、同村の枝村で、上八川川南岸と、その南に続く小谷に集落がある。この谷を東南方に登ればかしヶ峠(約七〇〇メートル)で、上八川郷と伊野いの(現伊野町)を結ぶ要路であった。天正一八年(一五九〇)の後山小川村地検帳に「上八川内大窪村」として二五筆が記されるが、南西山中の集落代次よつぎは「上八河内代次ノ村」として八筆記される。代次は屋敷地一筆二反四〇代のほか、一町五反一五代のすべてが切畑(焼畑)か山畑であった。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]美山町大久保おおくぼ

足羽川中流部の北岸、福島ふくしま村の南東にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では北宇坂きたうさか(中)郷に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方二七〇石余・畠方一三九石余。寛永元年(一六二四)松平直政が大野五万石を領有すると、足羽郡中当村のみが大野藩領として飛地となったらしく、正保郷帳にも松平土佐守領分(大野領)と付記されている。天和二年(一六八二)土井氏が大野藩主として入部したのちも当村はそのまま大野藩領として残った。

越前国名蹟考」には「大野より置るる駅亭なり、福井へも大野へも四里半つつの振分の所也」とあり、村内に大野藩主の参勤交代の休憩所が置かれた。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]橿原市大久保おおくぼ

畝傍山東麓に立地する。「万葉集」巻一六の娘子おとめ塚について「大和志」は「在大窪村」と記す。慶長郷帳にみる石高は五一六・五石。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]下郷町澳田いくた

沢入さわいり村の南、阿賀川の支流和田わだ川と観音かんのん川に挟まれた丘陵と山地に立地。大久保とも書く。南山御蔵入領松川組に属する。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では九九布こうぶ郷に属する。元禄八年(一六九五)の小松川五ヶ村差出帳(下郷町史資料集)によると高五五石余、反別九町一反余、うち田一反余で年貢は金納であった。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]水俣市湯出ゆで

湯出ゆのつる川に茂川もがわ川が合流する地点、中尾なかお山の西南部にあり、南に茂川村・木臼野きうすの村、西南に長崎ながさき村がある。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に「袋村内大窪村」とみえ、地侍一名が記される。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]邑久町大窪

千町せんちよう平野のほぼ中央部にあり、北は百田ももだ村、東は閏徳じゆんとく村、西は大富おおどみ村、南は北地きたじ村に囲まれた稲作の盛んな村。元和五年(一六一九)の大賀島寺中五坊檀那割付定書(大賀島寺文書)によれば、「西大窪村」一円は同寺中蔵坊の旦方に、当村の枝村小山こやまは同福蔵坊の旦方に割付けられている。寛永備前国絵図に大窪村とみえ、高八五五石余。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]木更津市大久保おおくぼ・大久保一―六丁目

下烏田しもからすだ村の西から南の地域、烏田川中流左岸に位置する。周淮すえ(周准郡)のうち。丘陵地帯で水利に恵まれず旱魃の年は耕作に難渋した。房総往還から分れた鹿野山かのうざん道が下烏田村に向かう。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に大久保村とみえ、高一八八石。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]白川村大窪

しよう川支流の馬狩まがり川上流扇状地に位置する。村名は村南部に大窪の池と称する湖沼があることに由来する(斐太後風土記)。北方は白川街道で馬狩村、南方は同じく坂越えで野谷のだに村。元禄七年(一六九四)田畑屋敷検地帳(白川村役場蔵)によると田方二反余・分米八斗余、畑屋敷九反余・高三石余、ほか焼畑一反余、名請人二。「飛騨国中案内」の免は二割七分一厘、家数二(すべて百姓)

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]窪川町黒石くろいし

黒石村の東南、苔野川こけのかわ川に沿った村で「土佐州郡志」には「東限志和峰、西限本堂村本田、南限所山、北限黒石村、縦二十五町横五町」とある。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳には「クロ石村内大窪之村」とされ、大窪之村には志和・西原・松沢三氏持合の大窪名がみえる。地積七町六反余、ヤシキ八筆。

元禄地払帳では総地高二三七石余、うち本田高二一石余、新田高二一六石余。本田高は蔵入地三石余のほかは井戸玄悦知行、新田高のうち一一石余は貢物地で残りは岡村新九郎ら二人の役知と三橋源五郎ら三人の領知。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]塩沢町君沢きみさわ

君沢村の北にあたるが、耕地は同村と交わり、境は不分明。西は山地で、大沢おおさわ峠越の道で伊達だて(現十日町市)へ通じる。北は大沢村。寛正四年(一四六三)八月二二日の尻高亀鬼丸寄進状(龍泉院文書)によると、長慶ちようけい(現龍泉院)を建立する際、「越後国上田庄早河郷北方并大窪名之内御恩之地、合参拾貫文」を同庵に寄進している。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]福井市大窪町

北側は三里浜さんりばま砂丘が広がり、その北は日本海に面する。永禄四年(一五六一)四月六日、越前国守護朝倉義景は重臣多数を従えて犬追物を興行したが、「朝倉始末記」に「朝倉左衛門督義景、棗ノ庄大窪ノ浜ニ於テ犬追物有之。御伴人衆一万余人、見物ノ貴賤数ヲ不知。馬場ノ広ハ方八町ニゾ構ラレケル」とあり、場所が大窪の浜であったことが知れる。

大窪村
おおくぼむら

[現在地名]佐世保市上柚木町かみゆのきちよう筒井町つついちよう

柚木村の中央部北側にあり、相浦あいのうら川が流れる。北東には小塚こづか岳がある。江戸時代初期は柚木村のうち。正保国絵図に大久保おおくぼ村とあり、高一九二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報