邑久郡(読み)おくぐん

日本歴史地名大系 「邑久郡」の解説

邑久郡
おくぐん

面積:一二六・五八平方キロ
長船おさふね町・邑久おく町・牛窓うしまど

県南東部の吉井川下流の東部地域にあたり、南は瀬戸内海に面する。昭和二八年(一九五三)以降吉井川河口東部地区が数度の合併を経たのち岡山市に、郡北東端の旧鶴山つるやま村が備前市に編入されたため、現在は西は岡山市・赤磐あかいわ瀬戸せと町、北は備前市、東は和気わけ日生ひなせ町に接する。長船町東部および邑久町東部は、西大平にしおおひら(三二七・二メートル)たか(一八五・三メートル)玉葛たまかずら(二六七・三メートル)・大平山(二六一・七メートル)などの二〇〇―三〇〇メートル級の丘陵が続き、その間を長船町飯井いいと備前市鶴海つるみ、邑久町の本庄ほんじよう虫明むしあげを結ぶ二本の谷が東西に走る。また、邑久町南部の丘陵は牛窓町へと連続し、瀬戸内海まで張出している。山地を離れて平地へと流れ出た吉井川が形成した沖積平野が、長船・邑久両町の中心地となっている。同地区は排水不良地が多く、干田ほした川・千町せんちよう川の両川はいずれも排水上重要な役割をもった。一方海岸部は入組んだリアス海岸となっており、港が発達し古くから内海航路の寄港地として機能した。

「和名抄」東急本の邑久郷の項に「於保久」の訓がある。「和名抄」は邑久おおく靫負ゆげい土師はじ須恵すえ長沼ながぬ尾沼おぬ尾張おわり柘梨つなし石上いそのかみ服部はつとりの一〇郷とし、令制の区分では中郡にあたる。郡名はもと「大伯(玖)」と記され(藤原宮跡出土木簡)、養老五年(七二一)までは、吉井川下流東岸から播磨国境にいたる広大な瀬戸内海沿岸地帯を郡域としていた。養老五年四月二〇日、邑久・赤坂あかさか二郡の郷を割いて藤原ふじわら(和気郡)が立てられ、天平神護二年(七六六)五月二三日には上道・赤坂郡の五郷と、当郡の香登かがと郷が藤野ふじの(旧藤原郡)に割かれている(続日本紀)。平城宮跡から「備前国邑久郡片上郷寒川里」と記す木簡が出土しており、「寒川里」は現日生町の寒河そうごに比定されるので、分割以前の当郡が播磨国に沿岸部で連なっていたことを示す。式内社としては備前国唯一の名神大社である安仁あに神社(現岡山市)と、美和みわ神社・片山日子かたやまひこ神社(現長船町)の三社がある。

〔原始・古代〕

「和名抄」所載の各郷は沿岸の島々も含め現在の地域に比定しがたいところも多いが、一方で遺跡や各種史料にめぐまれているので、記すべきことも多い。以下、それらの主要なものをあげながら当郡の歴史的な特質を中心に述べることにする。

縄文時代の貝塚として、早期を中心とした牛窓町の黄島きしま貝塚と黒島くろしま貝塚がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報