長岡郡(読み)ながおかぐん

日本歴史地名大系 「長岡郡」の解説

長岡郡
ながおかぐん

面積:四五四・九〇平方キロ
大豊おおとよ町・本山もとやま

高知県の北東部に位置し、西は土佐郡、南は香美郡、南西は当郡および香美郡を割いて成立した南国市。北東は徳島県三好みよし郡、北は愛媛県宇摩うま郡、北西は同県伊予三島いよみしま市に接する。郡域には四国山地を形成する高山が多く、北部には工石くいし(一五一五・九メートル)白髪しらが(一四七〇メートル)橡尾とちお(一二二二・三メートル)、北東県境に野鹿池のがいけ(一二九四・四メートル)黒滝くろたき(一二〇九・九メートル)が連なり、南部には国見くにみ(一〇八九・一メートル)杖立つえだて(一一三三・一メートル)かじもり(一三九九・六メートル)はちもり(一二七〇・三メートル)がそびえる。その山間地のほぼ中央を四国三郎とも称される吉野川が東流し、北東県境近くで流路を北に変え、徳島県へ入る。郡内の支流には北部から流入する汗見あせみ川・なめ川・立川たぢかわ川など、南から流入する穴内あなない川・南小川みなみこがわなどがある。この吉野川に沿った平地部は古くから嶺北れいほくとよばれ、良質米の産地として知られる。また山地は白髪材で代表されるように良材の産地として著名。

郡名は「延喜式」に「長岡郡」とみえるのが早く、「和名抄」東急本は「奈加乎可」とよむ。近世中期の「土佐幽考」は、郡名は郡域が台地上にあることにちなむとし、宝亀(七七〇―七八〇)以降、延喜(九〇一―九二三)以前に土佐郡より分割されて長岡郡ができ、さらに長岡郡より香美郡が割置されたとするが、確証はない。

〔原始・古代〕

現郡域には考古遺跡は少ないが、本山町寺家の長徳寺じけのちようとくじ遺跡から縄文時代早期の大型楕円押型文土器や石錘が発見され、弥生後期末葉の土器・叩石類も検出された。同じく本山町本山の永田ながた遺跡は弥生時代から鎌倉時代に至る複合遺跡で、弥生中期末の竜河洞式土器や後期の土器、古墳時代初頭の土器など、平安時代後期と推定される甕・土師器、鎌倉時代の鉢・土師質小皿などが出土している。そのほかに本山町北山きたやまに縄文時代晩期の上奈路うわなろ遺跡、中広形銅矛(II型)を出土した瀬の上せのうえ遺跡がある。これらは吉野川沿岸で、河岸平地部の開発が早かったことがうかがわれる。

郡名の初見は前述のごとく「延喜式」をまたねばならないが、それより前、延暦一五年(七九六)伊予国東部から土佐国国府(現南国市)に至る南海道の新道が開かれ(「日本紀略」同年二月二五日条)とう駅・吾椅あがはし駅・丹治川たじかわ駅の三駅が置かれた(「日本後紀」翌一六年正月二七日条)。この新道は、後に北山越とよばれる道にほぼ比定され、伊予国から山越えで吉野川支流立川川上流に出、川沿いに吉野川へ、さらに吉野川沿いにさかのぼり、現本山町本山辺りから南下、国見山の西肩辺りを越えて国府に至る道で、長岡郡を縦断する道であった。

長岡郡
ながおかぐん

「和名抄」は諸本とも訓を欠く。現在の古川市遠田とおだ田尻たじり町の一部であったとみられる。南は志田郡、北は玉造たまつくり郡。「続日本紀」宝亀一一年(七八〇)二月一一日条に、去一月二六日、長岡に賊が入り百姓家を焼いたとある。これは郡名ではないが、すでに成立していたと考えられる。同書延暦八年(七八九)八月三〇日条によると、当郡など黒川郡以北のいわゆる奥十郡が田租免除の期間を延期されており、この奥十郡が同書天平一四年(七四二)正月二三日条にみえる黒川郡以北十郡と同じとされるので、天平一四年には存在していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報