境川村(読み)さかいがわむら

日本歴史地名大系 「境川村」の解説

境川村
さかいがわむら

面積:二一・四七平方キロ

郡の中央北西寄り、甲府盆地の南部に位置する。南は御坂みさか山地支脈の春日かすが山・名所みようしよ山などの分水嶺を境に芦川あしがわ村、東は支脈の尾根やあさ下流を境に八代町、西から北は支脈滝戸たきど山系や境川筋などを境に中道なかみち町、北は笛吹川を境に石和いさわ町。地内は北東部のみ河岸の低平地で、南部からは高山の山裾が延び中央部の曾根そね丘陵につながる。名所山や鶯宿おうしゆく峠辺りから流れ出る境川が中央を北流し、また春日山辺りから流れ出るきつね川は東域を北流して浅川に合流する。丘陵部からは芋沢いもざわ川・間門まかど川なども低平地へ流れ出ており、これら諸河川によって南北の筋状に分れる。

旧石器時代とみられる遺物が藤垈ふじぬた寺尾てらお周辺で採集されている。縄文時代の遺跡は村内各地の丘陵や扇状地上にみられる。草創期は小黒坂の柳原こぐろさかのやなぎはら遺跡、前期は同所寺平てらだいら遺跡や小山の京原こやまのきようばら遺跡、中期では小黒坂周辺の遺跡群や藤垈のつじ遺跡、中期末から後期にかけては小黒坂の金山かなやま遺跡や藤垈の水口みずくち遺跡などがあり、とくに一の沢西いちのさわにし遺跡では豊富な遺物が出土し注目されている。弥生時代遺跡の状況は比較的希薄だが、後期で三椚の口開みつくぬぎのくちあけ遺跡、寺尾の物見塚ものみづか遺跡などがある。古墳は五世紀のものに馬乗山うまのりやま古墳(八乙女古墳)がある。後期古墳は境川や狐川の流域の台地上や扇状地上に分布がみられ、藤垈の大塚おおつか古墳群、小黒坂の蛇山じややま古墳群・一の沢古墳群など群集墳の形態をとる。古墳時代の集落遺跡としては前期の京原遺跡、後期の薊在家あざみざいけ遺跡などがある。藤垈の牛居沢うしいざわ窯跡は県内最古級の須恵器を出土する生産遺跡である。笛吹川とその支流の境川・狐川に囲まれた石橋いしばし周辺の低地には条里形地割の存在が認められるが、そのなかの微高地には平安期の集落の立地も確認されている。

境川村
さかいがわむら

[現在地名]清水町境川

日物川ひものがわ村の東、有田川の支流境川筋の山間部に位置する。集落は二つに分れ、谷の下にあるのを東番、谷の上にあるのを西番という(続風土記)

慶長検地高目録によれば村高一三九石余、小物成一石八升一合。寛政一一年(一七九九)の境川村持高当作高并人別御調に付書上帳(堀江家文書)によれば、家数三六(うち無高六)、人数一八六(男九四・女九二)、牛二三。大工職一人、木挽職二人、鍛冶職二人、桶屋職一人、葛蕨掘三人、駄賃持稼一人、高野山商方稼一人、日用稼八人、奉公三人がいた。文政三年(一八二〇)の山保田組在々家数人数并牛馬増減調帳(同文書)には家数三四(高持三一・無高下作二・寺一)、居村稼人一五一、他村奉公稼人七、牛一四とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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