水俣市(読み)ミナマタシ

デジタル大辞泉 「水俣市」の意味・読み・例文・類語

みなまた‐し【水俣市】

水俣

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「水俣市」の解説

水俣市
みなまたし

面積:一六五・四六平方キロ

県の南端にあり、北は葦北あしきた津奈木つなぎ町・芦北あしきた町、球磨郡球磨村、東は鹿児島県大口おおくち市、南は鹿児島県出水いずみ市・大口市に接し、西は八代海に面する。市域の大部分は山地で、三方は大関おおぜき(九〇一・九メートル)国見くにみ(八六七メートル)おん(七三四・九メートル)矢筈やはず(六八七・三メートル)などに囲まれている。水俣川が東端部から西へ流れ、南から北西流する湯出ゆのつる川が河口近くで合流し、その周辺の平地部に市街地が形成されている。古くは水俣川と湯出川は別流で、河口近くでX字形に接近して流れていたのが水俣(水股)の名の起りという。寛政四年(一七九二)当地を旅した高山彦九郎は「筑紫日記」に「水俣町を出で水俣川を橋十五六間にて渡り左右に川を見る、因て水俣と称す」と記している。「延喜式」(兵部省)に水俣駅が記され、「和名抄」の葦北七郷のうちに水俣郷がある。

〔原始・古代〕

先土器時代の遺物は石坂川の石飛いしざかがわのいしとび湯出頭石ゆでかぐめいしのグミノキダン、湯出頭石の鹿児島県境の五目木ごめき長崎茂川ながさきもがわなどからナイフ形石器スクレーパー・細石刃・細石核その他が出土している。貝塚としては南福寺なんぷくじ江添平えぞえひら陣内北園じんないきたぞの初野はつのなどがあるが、なかでも南福寺貝塚は縄文後期の南福寺式土器の出土地として知られ、人骨や獣骨なども出土している。古墳は数も少なく小規模である。鉄剣・鉄鏃・などを出土した北園古墳は群集墳であったと思われるが開墾により破壊された。初野宮前みやまえからは地下式板石積石墓が発掘された。南福寺のえのき新村しんむらなどにも古墳があったというが消滅している。

大化改新以前は葦北国造の支配下に置かれ、律令時代には葦北七郷の一に水俣がみえる(和名抄)。「延喜式」の水俣駅は駅馬五疋、伝馬五疋が記され、古代西海道の交通に重要な役割を果していた。「延喜式」には仁主駅(駅馬五疋)も記されるが、これは「和名抄」に仁王と記され、久木野くぎの川流域の仁王木におぎに比定されており、佐敷さしき(現葦北郡芦北町)から南下する官道が湯浦ゆのうら(現芦北町)から分れて薩摩国大口(現大口市)を経て大隅国へ赴く道筋の駅と推定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「水俣市」の意味・わかりやすい解説

水俣〔市〕
みなまた

熊本県南西部,八代海に臨む市。1949年市制施行。1956年久木野村編入。中心市街地は水俣川と湯出川の合流点にある。1908年に日本窒素肥料(1950新日本窒素肥料に社名変更。→チッソ)の炭化カルシウムカーバイド)製造工場が建設され,第2次世界大戦で被災したが,戦後復興して急速に発展。周辺地域もそれに伴って発展した。しかし,1953年頃から新日本窒素肥料の工場の廃液が原因の水俣病が発生,年を追って患者が増え,水俣病は重大な社会問題になった。製材,金属,食品加工の工場がある。海岸部の斜面ではミカンやチャ(茶)の栽培が盛ん。徳富蘇峰徳冨蘆花兄弟の生地で,水俣市立蘇峰記念館(かつての淇水文庫〈きすいぶんこ〉)がある。湯の児温泉湯の鶴温泉がある。天草市と結ぶフェリーの便があり,天草観光基地の一つ。一部は芦北海岸県立自然公園に属する。九州新幹線,肥薩おれんじ鉄道線,国道3号線,268号線が通る。面積 163.29km2。人口 2万3557(2020)。

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