法光寺(読み)ほうこうじ

日本歴史地名大系 「法光寺」の解説

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]吉川町法光寺

湯谷ゆだに川右岸の丘陵上にある。湯河山と号し、高野山真言宗。本尊は阿弥陀如来。天正三年(一五七五)八月七日書写の法光寺縁起(寺蔵)によれば、孝徳天皇の時、空鉢の草創にかかり、湯河山湯河ゆかわ寺と号した。しかし明石(細田)三郎貞吉が山内を狩場として狼藉に及んだため、法道が貞吉を檀那にして湯河寺を改め妙法光寺としたという。建立に際して湯谷村の太良兵衛が松の大木(胴回り一丈四尺・長さ二七間)を献上したと伝える(美嚢郡誌)。建仁三年(一二〇三)八月五日の吉河上庄百姓等連署状(法光寺文書)によれば、吉河上よかわかみ庄の庄官・百姓らと寺僧らは寺への不忠はしないこと、山野の御油田畠などで不慮の儀が発生したならば、庄官と寺僧は同心のうえ公方へ訴えることを誓っている。

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]徳地町大字鯖河内 安養地

曹洞宗。蓮台山と号し、本尊は薬師如来。この安養地あんようじの地には、もと、東大寺大勧進俊乗房重源が開いたという安養寺があり、秘仏大日如来を本尊としていた。

「注進案」所載の、応永元年(一三九四)六月の奥書のある周防国徳地蓮台山安養寺縁起によれば、後白河法皇の時、重源は東大寺再建の勅命をうけ全国を勧進し、さらに大唐国にまで足を伸ばし、多くの財物の喜捨を受け帰国した。

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]伊奈町小室 下郷

綾瀬川右岸の大宮台地北東端、別所べつしよにある。金亀山阿弥陀院と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来。延暦二二年(八〇三)の開創と伝える。天文二四年(一五五五)岩付太田氏の家臣と思われる小室こむろ郷の在地領主内村兵庫助らが阿弥陀三尊を造立し、本堂を再興したという(風土記稿)。開山は良鑁で、慶長九年(一六〇四)の没。もとは天台宗寺院で川田谷かわたや(現桶川市)泉福せんぷく寺末であったが、のち改宗したという(同書)。寛政七年(一七九五)の新義真言宗本末帳によれば、山城醍醐寺三宝さんぼう院末で、当寺の末寺に根金ねがね(現蓮田市)宝性ほうしよう院のほか門徒寺五ヵ寺がある。

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]福井市栃泉町 赤坂

しろ山西麓にある。真宗高田派。本尊阿弥陀如来。初め岩倉いわくらの字箕手みのてにあったため山号を箕手山という。箕手の東隣、田治島たじしまの字三橋みつはしに浄土宗法興ほうこう寺跡があり、当寺はこの法興寺から分立、改宗したと考えられる。浄土宗系の来迎阿弥陀如来絵像を所蔵するのもこのためであろう。当寺の開基を折立おりたて(現福井県美山町)称名しようみよう寺の開山と同じ佐々木氏(法善房光実)とすることや、称名寺の寺伝に光実が足羽あすわ東郷とうごう荘で親鸞の弟子顕智の教化を受けたとすることから、当寺の改宗には称名寺が関与していたと思われる。

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]名川町法光寺 法光寺

法光寺の南西、名久井なくい(六一五・四メートル)の東中腹に位置する。白華山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。寛保四年(一七四四)の諸寺院寺号山号帳(八戸市立図書館蔵)に「一七拾石 越後柏崎香積寺末寺名久井村 白花山法光寺」とある。縁起によれば建長年中(一二四九―五六)の草創で、開基は北条時頼、開山は玉峰という(「御領内寺院来由全」同館蔵、白花山法光寺来歴記、新撰陸奥国誌)

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]大津市苗鹿二丁目

苗鹿のうか集落の西にある。天台宗。山号光明山、本尊は鎌倉期とされる木造薬師如来。最澄が当地の山を霊山として堂宇を建立、自刻の薬師如来を安置したのに始まるという。のち当地を支配した官務家小槻氏が氏神としていた那波加なばか神社の別所であったが、貞観五年(八六三)小槻宿禰今雄が当地を受領した際、深く薬師如来を信仰し堂舎を建立したのが当寺と伝える。その創建のおり、那波加神社と雄琴おごと神社を寺院の鎮守社としたという。

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]田川市川宮

中元寺ちゆうがんじ川右岸沿いにある真宗大谷派寺院。山号は青龍山、本尊は阿弥陀如来。延宝三年(一六七五)弓削田庄法光寺由緒書によると、長門国府中ふちゆう高山禅寺(現山口県下関市の功山寺か)の住職天然が臨済禅布教のため京都みやこ新津あらつ(現苅田町)に一宇を、さらに文明三年(一四七一)弓削田ゆげた庄に一宇を建てて法光寺としたという。その頃天然は大坂に上り、本願寺八世蓮如との問答によって真宗の門に入ったという。一方、天然の弟子に豊前国柳浦やなぎがうら(現北九州市門司区)の井上民部がおり、剃髪して名を順誓と改めた。この井上氏について、「京都郡誌」は民部は法名順覚、その子刑部が法名順誓と改名したとする。

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]幌泉郡えりも町字本町

本町ほんちよう市街の北方に位置し、北隣は善生ぜんしよう寺。興国山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。当寺は明治一〇年(一八七七)五月曹洞宗札幌中央寺から当地方の巡教を命ぜられた長浜恵流が、幌泉ほろいずみ村などの有力者の協力を得て、郡内の信徒を集めて布教したことに始まる。同一三年には仮説教所を設け、同一七年五月寺号を公称、法光寺と称した(増補えりも町史)。その後、漁業者を中心に檀信徒数も増え、境内には海上安全祈念のため金比羅堂や竜王殿が寄付建立された。同二一年には向いの官の山に観音像三二体を祀り、三三体目は当寺境内に安置、まもなく官の山は観音山とよばれるようになった。

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]藤崎町藤崎

集落西の村元むらもとにある。梅田山と号し、日蓮宗。本尊十界曼荼羅。もと弘前法立ほうりゆう寺末。

寛文年間(一六六一―七三)法立寺一二世日成の弟子日浄が梅田うめだ(現五所川原市)に創立、開山を日浄とする(青森県日蓮宗寺院史)。元禄八年(一六九五)本満ほんまん(現京都市上京区)二五世日念が留錫し、山号寺号を授けた(法光寺蔵開基曼荼羅)。その後川の氾濫で衰微したと考えられ、宝永年間(一七〇四―一一)小松屋半兵衛から土地の寄進をうけ藤崎へ移転(法光寺文書)

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]一宮市千秋町加納馬場

岩倉いわくら街道の西、村の中央にあり(天保村絵図)、国照山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。もと大野おおの(現常滑市)光明こうみよう寺末。境内一千一七坪。初め天台宗で国照こくしよう坊と号し、小折こおり七本松しちほんまつ(現江南市)芝原しばはら村の生田いくた神社西にあったが、のち現在地に移った(千秋村史)

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]千代川村下栗

下栗しもぐり集落東部に所在。下栗山妙楽みようらく院法光寺と称し曹洞宗。本尊釈迦如来。寺蔵の過去帳には「下総国豊田郡下栗邑妙楽院法光寺略記、文亀元丙戌年二月十五日造立被成、当寺開基下栗邑之郷士常楽寺也、当寺開山興世第四世広室祖陽大和尚、卓錫演出之地也、最初者当境寺山有之、寺山所、村之西只今為畑寺所持也」とあり、在地武士常楽寺氏の創建。また「天正年中争乱の巷と化し殿宇焼却、世間漸静謐之後移此境内」とあり、天正(一五七三―九二)以降に現在地へ移った。寺宝に蟠竜刺繍の旗幟がある。蟠竜は豊田政幹が前九年の役で戦功をあげたことにちなむもので、後世雨乞の利益をもたらすといわれ、干天時にはこの旗を出して祈祷していたが、昭和に至って行われなくなった。

法光寺
ほうこうじ

[現在地名]七宝町桂 郷内

月桂山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。古くは天台宗で大永年中(一五二一―二八)一向宗となり、永禄年中(一五五八―七〇)に廃寺となったが、天正期(一五七三―九二)浅井長政の嫡男が岡崎の家康を訪ね、三州野寺のでら(現安城市)本証ほんしよう寺で仏門に入り、当寺を継ぐこととなった。当寺は藩祖徳川義直の時、家康の遺命による寺領三〇〇石寄進を辞退し、住僧の弟を藩の鷹匠に召出すなど、尾張藩との因縁も深い(徇行記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「法光寺」の解説

法光寺

青森県三戸郡南部町にある寺院。建長年間の開山と伝わる。曹洞宗。本尊は千手観音。糠部三十三観音の第19番札所。山号は白華山。

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