北条時頼(読み)ほうじょうときより

精選版 日本国語大辞典 「北条時頼」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐ときより【北条時頼】

鎌倉中期の第五代執権。北条泰時の孫。母は松下禅尼執権政治を強化し、裁判の迅速を図るために引付衆を設けた。また、摂家将軍宮将軍にかえ、三浦氏を倒して北条氏の専権を強めた。執権を辞してから出家し、最明寺殿といわれたが、なお幕政に関与した。蘭渓道隆を宋から招き、建長寺を建立。法名最明寺道崇。安貞元年~弘長三年(一二二七‐六三

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デジタル大辞泉 「北条時頼」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐ときより〔ホウデウ‐〕【北条時頼】

[1227~1263]鎌倉幕府第5代執権。在職1246~1256。泰時の孫。法名、道崇。豪族三浦一族を滅ぼし、執権北条氏の権力を確立。執権を辞してから出家。禅を信仰し、中国宋より蘭渓道隆を招き、建長寺を建立。仁政と諸国遍歴の伝説がある。最明寺殿。

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改訂新版 世界大百科事典 「北条時頼」の意味・わかりやすい解説

北条時頼 (ほうじょうときより)
生没年:1227-63(安貞1-弘長3)

鎌倉中期の執権。父は北条時氏,母は安達(あだち)景盛女(松下禅尼)。幼名戒寿。1230年(寛喜2)時氏が死去して祖父泰時に養育され,37年(嘉禎3)元服,43年(寛元1)左近将監従五位下。46年閏4月の兄経時の死没にさきだち3月23日執権となった。その直後,一族の名越光時を誅し,将軍藤原頼経を追放(宮騒動),47年(宝治1)には安達景盛と計って三浦泰村一族を滅ぼした(宝治合戦)。49年(建長1)引付衆(ひきつけしゆう)を設けて訴訟制度を改革し,52年には将軍藤原頼嗣を追放して後嵯峨天皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え,西園寺実氏を太政大臣につけるなど,執権政治と北条氏の権威の増大を計った。その政治は術策にとみ独裁的であったが,大番役(おおばんやく)の6ヵ月から3ヵ月への短縮,地頭の一方的在地支配の抑制など土民保護の姿勢から,のち諸国の民政を視察したという回国伝説が生じた。深く禅に帰依し,宋から来朝した蘭渓道隆を鎌倉に迎え,建長寺を建てて開山としたほか,兀庵普寧(ごつたんふねい)にも参禅した。そのほか弁円,忍性,叡尊などとも接触があった。56年(康元1)病気となり,11月22日執権職を退き,翌日最明寺(さいみようじ)で出家した。戒師は道隆,法号は覚了房道崇。しかし出家後もなお政治を左右し,63年9月22日最明寺北亭で没した。墓所は鎌倉の明月院
執筆者:

政治家として高い評価が与えられたため,出家後諸国を行脚して民情を視察したとの伝説が生まれた。当時全国を遊行していた時衆(じしゆう)がその伝説を語りひろめたようである。いま滋賀県守山市勝部にある時宗の最明寺は鎌倉山と号し,北条時頼開基という寺伝がある。千葉県御宿(おんじゆく)町にも最明寺があり,時頼が足をとどめたので御宿の名があるという。《越中志徴》巻二の礪(砺)波郡西明寺村,《淡路名所図会》巻一の西明寺村,《下野国誌》芳賀郡益子郷西明寺,《新編相模国風土記稿》足柄上郡金子村最明寺,《蓮門精舎旧詞》巻二十五の信濃更級郡真島村最明寺,《越前国名蹟考》巻四の今立郡水海の最明寺堂など,いずれも時衆や遊行者の語りひろめた伝説の痕跡である。《増鏡》《太平記》に最明寺入道時頼の回国伝説がみえるが,謡曲鉢木》は特に名高い。旅僧に姿をやつした時頼が上野の国佐野で大雪に道を失い,佐野源左衛門常世の零落した家に泊めてもらう。常世は秘蔵の鉢の木をたいてもてなした。後年鎌倉に軍勢を集めた時頼は,はせ参じた常世の所領を復活し,雪の夜の鉢の木の礼に三ヵ所の土地を与えるというのである。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「北条時頼」の意味・わかりやすい解説

北条時頼【ほうじょうときより】

鎌倉幕府第5代執権。時氏の子。母は松下禅尼(ぜんに)。1246年執権就任直後一族名越(なごえ)光時の陰謀を砕き,翌年三浦氏を滅ぼした(宝治(ほうじ)合戦)。1249年引付衆を置き裁判の迅速公平を図り幕政の発展と北条氏の権力確立に努めた。出家して最明寺殿と呼ばれた。諸国を回り民政を視察したという伝説がある。→鉢木
→関連項目安達景盛安東蓮聖坩満寺建長寺兀庵普寧道元日蓮引付方三日月[町]蘭渓道隆立正安国論

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朝日日本歴史人物事典 「北条時頼」の解説

北条時頼

没年:弘長3.11.22(1263.12.24)
生年:安貞1.5.14(1227.6.29)
鎌倉中期の幕府執権。北条時氏と安達景盛の娘(松下禅尼)の子。幼名戒寿丸。嘉禎3(1237)年元服,将軍藤原頼経の一字をうけて時頼と称した。寛元2(1244)年叙爵。同4年兄経時の病により家督と執権職(5代)とを継ぎ,就任当初の前将軍頼経を擁した名越光時らによる執権職からの追放陰謀を事前におさえて光時らを配流,頼経を京都に送還した(宮騒動)。さらに関東申次 を頼経の父九条道家から西園寺実氏にかえ,建長4(1252)年には将軍頼嗣を廃して九条家と絶縁,後嵯峨上皇の子宗尊親王を将軍に迎えた。また,これよりさき宝治1(1247)年4月,外祖父景盛とはかり,鎌倉開幕以来の豪族で祖父泰時の女婿として威をふるった三浦泰村を倒して(宝治合戦),北条氏専制への道を開いた。同年12月京都大番役の勤務期間を6カ月から3カ月に短縮,建長1(1249)年6月相模守に任じた後,12月に裁判の公正・迅速をはかるため引付を新設して御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させるなど,その政治は御家人たちの支持を得て祖父泰時が開いた執権政治をさらに強化するとともに,北条氏独裁の性格を強めていった。一方,建長5年10月,13カ条の新制で撫民のことを定め農民の保護に努めるなど,その政治は祖父泰時の政治とともに仁政とうたわれて人望を得,ついには諸国を廻って民情を視察し勧善懲悪をおこなったという廻国伝説を生むに至った。康元1(1256)年11月,病を得て執権職を北条長時に譲り,最明寺において出家,最明寺入道覚了房道崇と号した。しかし,長時に譲った執権職は嫡子時宗が成人するまでの中継相続的なもので,しかもやがて病の癒えた時頼は再び幕政をみた。この時頼の権力は執権職をはなれた得宗(北条氏の家督)としての立場によるものであったから,時頼の政治をもって北条氏得宗専制の萌芽とする考え方がある。時頼はまた禅宗にも深い関心を抱き,建長5(1253)年には蘭渓道隆を招いて建長寺を建てた。最明寺北亭で死去し,墓は鎌倉明月院にある。<参考文献>奥富敬之『鎌倉北条氏の基礎的研究』,安田元久「北条時頼」(『鎌倉幕府―その実力者たち―』),阿部征寛「執権北条時頼」(安田元久編『鎌倉将軍執権列伝』)

(新田英治)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条時頼」の意味・わかりやすい解説

北条時頼
ほうじょうときより
(1227―1263)

鎌倉幕府第5代執権。時氏(ときうじ)の二男、母は安達景盛(あだちかげもり)の女(むすめ)松下禅尼(まつしたぜんに)。幼名を戒寿といい、北条五郎と称した。左兵衛尉(さひょうえのじょう)、左近将監(さこんのしょうげん)、相模守(さがみのかみ)を歴任する。法名道崇(どうすう)。1237年(嘉禎3)元服し、将軍九条頼経(くじょうよりつね)によって時頼と名づけられる。46年(寛元4)病の兄経時(つねとき)から執権職を譲られた。時の将軍は8歳の頼嗣(よりつぐ)であったが、在位25年の前将軍頼経の周りに、幕府の実権を握ろうとする北条一族、御家人(ごけにん)らが集まっていた。時頼は、名越光時(なごしみつとき)が三浦氏らと通じて執権職をうかがった陰謀を打ち破り、光時を出家させて伊豆に流し、頼経を京都へ送還した。翌47年(宝治1)外戚(がいせき)安達(あだち)氏の後援を得て、謀略によって豪族三浦氏を滅ぼした。ここに幕府内における北条氏の独占的地位が確立した。ついで空席であった連署(れんしょ)に北条重時(しげとき)を迎え、時頼指導下の執権政治の安定をみた。49年(建長1)相模守となり、同年、判決の公正と審理の迅速を図るため引付(ひきつけ)制度を新設した。52年京都の九条家と将軍頼嗣とがかかわる陰謀が発覚、頼嗣を辞任させ京都へ送り、かわりに後嵯峨(ごさが)上皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え、幕府念願の皇族将軍が実現した。56年(康元1)病により家督を6歳の時宗(ときむね)に譲り最明(さいみょう)寺で出家した。執権には一族の長時(ながとき)がなったが、鎌倉の北方山内庄(やまのうちしょう)の別邸に隠居した時頼は、なお幕府政治の実権を握り続けた。執権政治から得宗(とくそう)(北条嫡流)政治への移行であった。弘長(こうちょう)3年11月22日死去した。禅に帰依(きえ)し、宋(そう)僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山に建長(けんちょう)寺を建立した。仁政の美談と諸国遍歴の伝説をもつ優れた政治家であった。

[田辺久子]

『岡部長章著『北条時頼』(1954・朝日新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北条時頼」の意味・わかりやすい解説

北条時頼
ほうじょうときより

[生]安貞1(1227).5.14. 鎌倉
[没]弘長3(1263).11.22. 鎌倉
鎌倉幕府の5代執権 (在職 1246~56) 。時氏の次男で泰時の孫にあたる。母は安達景盛の娘 (→松下禅尼 ) 。幼名は戒寿。相模守,正五位下。寛元4 (46) 年兄経時の病気隠退のあとを受け執権に就任。その直後,同族名越光時らの陰謀を押えて一味を追放し,翌宝治1 (47) 年には光時と意を通じた三浦一族を挑発してこれを滅ぼした (→宝治合戦 ) 。さらに建長4 (52) 年将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を迎えるなど,北条氏の権力確立に努めるとともに,建長1 (49) 年引付を設けて公正な政治を行うなど,幕政を刷新し,祖父泰時とともに武家政治の理想的指導者と考えられた。康元1 (56) 年出家し,法名を覚了房道崇といったが,出家後も幕政に参与した。また深く禅を信じ,建長寺を創建して蘭渓道隆を迎え開山とした。なお出家後,諸国を遍歴して民情を視察したという話 (『増鏡』や『太平記』に記されている) が伝わっているが,確証はない。なお,この話は,謡曲『鉢木』によって人々の間に広められた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北条時頼」の解説

北条時頼
ほうじょうときより

1227.5.14~63.11.22

鎌倉中期の幕府執権。父は時氏,母は安達景盛の女(松下禅尼)。五郎と称する。1246年(寛元4)兄経時より執権の地位を譲られる。同年名越(なごえ)光時,前将軍藤原頼経らの反対派を一掃。47年(宝治元)有力御家人の三浦氏を滅ぼした。この間,寄合(よりあい)という私的な会議を開き,重要事項を決定するなど,北条氏による専制を推し進めた。49年(建長元)土地関係の訴訟を審議する引付(ひきつけ)を評定の下に設置。56年(康元元)執権を退き出家して最明寺入道と称したが,実権を握り続けた。諸国を回って弱者の救済を図ったとの伝説がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北条時頼」の解説

北条時頼
ほうじょうときより

1227〜63
鎌倉幕府第5代執権(在職1246〜56)
父は時氏。泰時の孫。母は安達景盛の娘(松下禅尼)。1246年執権,'49年相模守となる。前将軍九条頼経と名越 (なごえ) 光時の陰謀を防ぎ,'47年宝治合戦では三浦氏を滅ぼすなど北条得宗家の力を強化した。さらに引付衆を設置し,また宗尊 (むねたか) 親王を将軍に迎えて北条氏の権力確保につとめた。出家して最明寺殿といわれたのちも幕政に参与。また禅宗を信仰し,蘭渓道隆に帰依し,建長寺を創建した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条時頼」の解説

北条時頼 ほうじょう-ときより

1227-1263 鎌倉時代の武将。
嘉禄(かろく)3年5月14日生まれ。北条時氏(ときうじ)の子。母は松下禅尼(ぜんに)。寛元4年鎌倉幕府5代執権となる。宝治(ほうじ)元年三浦氏をほろぼした。建長元年引付(ひきつけ)衆をもうけて裁判制度を改革するなど幕政の確立につとめた。康元元年出家し最明寺殿とよばれた。のち諸国回国伝説が生まれた。弘長(こうちょう)3年11月22日死去。37歳。法名は道崇。

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367日誕生日大事典 「北条時頼」の解説

北条時頼 (ほうじょうときより)

生年月日:1227年5月14日
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第5代の執権
1263年没

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世界大百科事典(旧版)内の北条時頼の言及

【鎌倉時代】より

…土御門上皇が承久の乱の際,討幕に賛成でなかったためである。46年執権となった北条時頼は,執権(得宗)への権力集中をはかった。陰謀のゆえに一門の名越光時を流し,前将軍九条頼経を京都に追放した。…

【鎌倉幕府】より

…12世紀末源頼朝が鎌倉に開き,1333年(元弘3)まで続いた武家政権。
[政治過程]
 平治の乱の結果,1160年(永暦1)以来平氏によって伊豆に流されていた頼朝は,80年(治承4)8月以仁王の命に応じて平氏打倒の兵をあげた。やがて頼朝は相模の鎌倉を本拠と定め,御家人統率のために侍所を設け,遠江以東の〈東国〉に対する経営を進めた。新邸を造営した頼朝はこの年12月,御家人たちの参集するなかで新邸に移り住む儀式を盛大に行ったが,これは新政権成立の宣言を意味するものであった。…

【兀庵普寧】より

…西蜀(四川省)に生まれ,出家して癡絶道冲(ちぜつどうちゆう)に参禅,ついで無準師範(ぶしゆんしはん)の法をつぎ,無準門下の四哲の一人となった。北条時頼や同門の円爾(えんに)弁円らは,兀庵の名声を聞いてしきりに招請したが,時あたかも宋朝が元の侵入によって混乱していたので,兀庵は新天地を求め1260年(文応1)渡来し,崇福寺,東福寺に留錫ののち,鎌倉に下って建長寺に住した。時頼は兀庵に参禅し,ついに大悟徹底し,印可を受けたが,時頼没後禅を解するものがいないとして,在留6年にして帰国した。…

【佐野源左衛門常世】より

…謡曲《鉢木》の主人公として名高い。鎌倉幕府の執権北条時頼が出家して最明寺入道となり,旅僧に身をやつして諸国行脚の途中,上野佐野で大雪に遭い,貧家に一夜の宿を借りた。その家のあるじ佐野源左衛門常世はたいせつな鉢の木をいろりにくべて旅僧をもてなしたので,時頼は後日その忠義を賞して彼の領地を復活し,鉢の木に縁のある3ヵ庄を与えた。…

【執権政治】より

…鎌倉時代,北条氏が執権の地位によって,幕府の実権を掌握した政治体制。鎌倉幕府の歴史は,その政治形態によって,前期の鎌倉殿(将軍)独裁政治,中期の執権政治,後期の得宗専制政治の3期に区分される。中期の執権政治の特色として,第1に鎌倉殿に代わって執権北条氏が政権を握っていること,第2にその政治の性格は,その前後の時期の独裁・専制とは異なり合議政治であることがあげられる。これらの条件を考慮して,鎌倉殿独裁政治から執権政治への画期を求めると,第1の条件からは1203年(建仁3),第2の条件を満たすならば25年(嘉禄1)ということになり,これらをそれぞれ執権政治の成立・確立の時点と見る。…

【宝治合戦】より

…鎌倉将軍藤原頼経は在職が長期にわたるにつれ御家人との結びつきが深まってその権勢が強まり,執権の権勢が不安定になることを北条氏に警戒されて更迭されたが,その後も鎌倉にとどまって〈大殿〉と称され,前将軍として勢力を保持していた。1246年(寛元4)北条氏の支流名越光時は,千葉秀胤らを誘い,頼経を擁して北条時頼を除き執権の地位を奪おうと図ったが,事前に発覚して追放され,頼経は京都に送還された。三浦光村も頼経に接近してこの事件に関係したらしく,頼経を京都まで護送したのち,再び頼経を鎌倉に迎える考えをもっていたといわれる。…

※「北条時頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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