藤崎村(読み)ふじさきむら

日本歴史地名大系 「藤崎村」の解説

藤崎村
ふじさきむら

[現在地名]藤崎町藤崎

津軽平野中部、浅瀬石あせいし川・ひら川・岩木川の合流点右岸に位置し、東は藤越ふじこし村、西南は藤崎渡津軽野つがるの(現弘前市)、北は林崎はやしざき村、北西は飯田いいだ(現北津軽郡板柳町)に接する。村内を藤崎堰三千石さんぜんごく堰・灰沼はいぬま堰、鶴田つるた(現枝川鶴田堰)が貫流し、五所川原堰枝川足水えだがわたしみず(現枝川鶴田堰)は平川の水を白子しろこから取水する。

村名は神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)によると、延暦一二年(七九三)坂上田村麻呂が藤の鞭を地にさし、これが花を咲かせたので藤咲村となり、この場所が安政二年(一八五五)には藤巻ふじまき森としてあったとする。藤咲村が藤先村、藤崎村となったとも、淵先の村、沼州ぬます村、滑生村ともよんだとも伝える。

貞和三年(一三四七)五月日の曾我貞光申状案(遠野南部文書)に「建武三年正月七日令発向津軽藤崎平内城等 対御敵南部又次郎師行 同舎弟政長 成田六郎左衛門尉以下輩致合戦之刻 貞光被疵左膝□被射之若党平賀次郎同前此条安藤五郎次郎家季一見状在之」とあるのを初見とするが、この地はより古くから開けていたと思われ、坂上田村麻呂伝説は別としても、安東氏とのかかわりが深い。前九年の役で敗れた安倍貞任の子高星丸が藤崎へ逃れ、永保二年(一〇八二)館を築いたという(藤崎城誌)。また次の尭恒が藤崎城を築き、以後代々安東太郎、藤崎太郎を称したという(藤崎系図)。安東氏については、長期にわたる広範囲の活動にもかかわらず、鎌倉時代末期の内紛により系図に異同があり、明確にすることは困難である。しかし鎌倉時代に安東氏が蝦夷管領(諏訪大明神絵詞)、津軽守護人(安藤系図)として、執権北条家の御内人となり、得宗領である藤崎に代官として居住し、一族を鎌倉かまくら(現神奈川県鎌倉市)の北条氏に仕えさせていたのは間違いないと思われる。

藤崎村
ふじさきむら

[現在地名]習志野市藤崎一―七丁目・大久保おおくぼ一丁目・同三丁目・泉町いずみちよう一丁目・鷺沼台さぎぬまだい一丁目

鷺沼村の北に位置し、東金御成とうがねおなり街道が村の中央部を通る。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、幕府領で高一九〇石余、道普請は二〇間地を負担している。寛永一〇年(一六三三)検地帳を伝えるという(明治五年「諸帳面引継帳」田久保家文書、以下断りのない限り同文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分でも幕府領で高一九五石余。同一四年奥医師吉田領になったと考えられ、幕末も同領。明和六年(一七六九)の村明細帳では田一四町八反余・畑六町九反余・屋敷五反余。天明四年(一七八四)の山面積は内山三五町一反余・外山二二町四反余・御林七町三反余・殿様林二町で、文化三年(一八〇六)に林畑二九町七反余の開発がなされた(林畑新開反別帳)

藤崎村
ふじさきむら

[現在地名]大月市猿橋町藤崎さるはしまちふじさき

朝日小沢あさひおざわ村の北東、桂川中流域右岸の河岸段丘上と沖積低地に位置し、西は猿橋村。村名の由来は富士溶岩流が桂川に沿って流れ終わる崎に立地することからとも、古代の都留つる福地ふくち郷の崎にあたることにちなむともいう。当地には戦国期から近世にかけて大工として活躍した正木氏が居住していたと考えられる。岩殿いわどのにあった円通えんつう寺の永正一七年(一五二〇)の修造棟札(甲斐国志)にみえる「藤崎匠勝右衛門」、鳥沢袴着の御嶽とりさわはかまぎのみたけ神社の大永四年(一五二四)九月吉日の棟札(甲斐国志草稿)に載る大工藤崎孫右衛門は、いずれも当地在住の大工と考えられる。また近世初期の当地大工は「大工藤崎村正木太兵衛」(寛永一〇年二月一五日猿橋御嶽神社棟札)、「大工藤崎村正木盛右衛門」(寛文五年一月二三日同社棟札)などとあって、正木姓を称しているから、浅川大山あさかわだいせん寺の天文七年(一五三八)一一月吉日の棟札(甲斐国志)にみえる大工正木新左衛門・同孫左衛門も一族であろう。

藤崎村
ふじさきむら

[現在地名]遊佐町藤崎

小服部こはつとり村の西にあり、庄内砂丘の西端に位置する。地内の西山にしやま一帯は往時樹木が繁茂した森林地帯であったが、戦国時代の戦乱や沿海の農民が製塩用の燃料として大量に伐採したため荒廃し砂丘となった。そのため飛砂は田を埋め、西山の東を南流する船通ふなどおり川が埋没することもあった。同川は出水時には湖沼となり、沿岸村々は大きな被害を受けた。

延享二年(一七四五)郡代服部外右衛門は、中野俣なかのまた(現平田町)四郎兵衛飛鳥あすか(現同上)安右衛門に家作料米五俵、植付料銭二八貫文の藩費を支給し植林を命じた。続いて天神新田てんじんしんでん村八十郎や福升ふくます(現酒田市)善三郎・外野との(現同上)清七も応じ砂丘に居を置いたのを機に翌三年に植林が始まった。

藤崎村
ふじさきむら

[現在地名]本荘市子吉こよし 藤崎

標高九六メートルのうち山の東南部の山裾にあたり、南に向かって耕地が開ける。東は埋田うめた村、西は内山天井坂てんじようざか通を境に海士剥あまはぎ村・沼田ぬまた(現由利郡西目町)、南は船岡ふなおか村、北は上原うえはら坂で薬師堂やくしどう村と接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に村名があり、近世には本荘藩子吉郷の内であった。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に五四一石とあり、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳も五四一石六斗二升五合と変わらない。天保郷帳では子吉村として六ヵ村合計の高を記している。

藤崎村
とうざきむら

[現在地名]能生町藤崎

百川ももがわ村の東方、比較的なだらかな砂浜に沿った浜辺の集落で、街道の両側に細長く家並がある。長享二年(一四八八)越後国府から能生に向かった詩僧万里集九は「梅花無尽蔵」に次のように記した。「十七日、雪中自有間河尋能生、日既及昏黒不得到、故借東崎とうさき之沙戸一宿、路上有明王之三瀑、壮観無双」。東崎は藤崎で、浜辺の民家を借りて一泊している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報