結城郡(読み)ゆうきぐん

日本歴史地名大系 「結城郡」の解説

結城郡
ゆうきぐん

面積:一二一・一二平方キロ
八千代やちよ町・千代川ちよかわ村・石下いしげ

県西部に位置し、東の筑波郡境を小貝こかい川が南流し、西の猿島さしま郡境に飯沼新田いいぬましんでんが横たわり、八千代町の東辺および千代川村石下町内を鬼怒きぬ川が南流する。鬼怒川・小貝川に沿って低湿な沖積地水田地帯が開け、飯沼新田に臨む西半部は洪積台地からなり、無数の浸食谷が食込む。

和名抄」刊本には「由不岐」と注され、「延喜式」には「結城ゆふき郡」がみえ、「古語拾遺」には「好麻所生、故謂之総国、穀木所生、故謂之結城郡」と郡名の由来が記されている。「和名抄」によれば結城郡内には茂侶もろ郷・高橋たかはし郷・結城郷・小涌こわく郷・余戸あまりべ郷の五郷があり、「延喜式」神名帳には高椅たかはし神社(現栃木県小山市)健田たけだ神社(現結城市の健田須賀神社)の二社がみえていることから、古代の結城郡は現栃木県の一部を含んでいたが、明治二九年(一八九六)結城・豊田とよだ岡田おかだ三郡が合併して結城郡となり、一挙に郡域は広がった。

〔原始〕

先土器時代の遺跡は確認されていないが、縄文遺跡は鬼怒川沿岸の八千代町野爪のづめ片角かたかく仁江戸にえどで土器片が確認されるほか、千代川村の下栗野方しもぐりのがた住居遺跡・皆葉みなば遺跡、石下町の北山きたやま遺跡・稲荷山いなりやま遺跡・宮内みやうち遺跡・古間木ふるまぎ遺跡などが連なり、早期から中期にかけての土器片・石器を出土し、下栗野方住居遺跡では住居跡も確認されている。また東仁連ひがしにれ川東岸の八千代町平塚ひらつかあしを経て石下町の梁戸やなど貝塚・鴻野山こうのやま貝塚・ごうかみ貝塚・塚前つかまえ貝塚に連なる一帯も縄文遺物の包含地帯。そのほか八千代町の山川やまかわ沼跡南の塩本しおもと遺跡、きた沼跡南の権現山ごんげんやま遺跡、千代川村の本田屋敷ほんでんやしき遺跡などがある。このうち権現山遺跡では中期から後期にかけての遺物が大量に出土した。弥生遺跡は八千代町尾崎おさきの古代製鉄跡発掘調査の際に住居跡一と土器片が少量確認されたにとどまる。

古墳は鬼怒川以西の台地、とくに舌状台地上に多く存在する。八千代町の矢尻やじり古墳群、鬼怒川西岸台地上に位置する石下町の神子埋みこのめ古墳群のほか八千代町仁江戸から千代川村別府べつぷにかけての台地上には現在も一三基の古墳が確認され、石下町の陣屋じんや古墳群・香取塚かとりづか古墳・御林おはやし古墳群、八千代町尾崎の古墳群が現存し、それぞれ組合せ式石棺・人骨・円筒埴輪などが出土。石下町の登戸のぼつと古墳群からは舟形石棺・剣形石製模造品、神子埋古墳群からは人物・動物の形象埴輪、勾玉・金環・直刀なども出土している。

〔古代〕

奈良時代に入ると東国から筑紫に派遣される防人が多くなり、天平勝宝七年(七五五)の防人の歌が「万葉集」巻二〇に収載されるが、そのなかに結城郡の矢作部真長・忍海部五百麿・雀部広嶋の三人の歌がみえている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報