広島(県)(読み)ひろしま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「広島(県)」の意味・わかりやすい解説

広島(県)
ひろしま

中国地方のほぼ中央にある県で、瀬戸内海に面した山陽地方に位置する。東は岡山県、西は山口県に接し、北は中国山地を介して鳥取県、島根県に続き、南は瀬戸内海を隔てて愛媛県と対している。瀬戸内海沿岸は瀬戸内工業地域の中心の一つで発展が著しいが、北部の中国山地では過疎化などの問題点を抱えている。県庁所在地は広島市。

 2020年(令和2)の国勢調査による県の人口は279万9702人、面積は8479.65平方キロメートルで、人口は全国第12位、面積は全国第11位である。1872年(明治5)の人口は92万5962人、その後順調な伸びをみ、1920年(大正9)の第1回国勢調査の人口は154万1905人、1940年(昭和15)には187万人に達した。第二次世界大戦中はいくらか減少したが、戦後の1950年(昭和25)には208万人になった。広島市の人口が約120万人を数え、県人口の約43%を占める。

 2020年10月現在、14市5郡9町からなる。

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自然

地形

県域の大部分は中国山地中央部の南斜面を占め、平野に乏しい。山地は脊梁(せきりょう)山地の高位面、吉備(きび)高原の中位面、瀬戸内海の低位面と三つの侵食面に分けられる。脊梁山地は1000~1300メートル、道後(どうご)山などの山々が連なり、山頂には高位平坦(へいたん)面がみられる。吉備高原は400~600メートルの緩やかな高原で、世羅(せら)台地などもこれに含まれる。低位面は100メートル前後の緩斜面で、瀬戸内沿岸や島嶼(とうしょ)部からなる。瀬戸内海の備後灘(びんごなだ)、安芸(あき)灘には芸予(げいよ)諸島など100を超える大小の島々が点在する。

 河川は瀬戸内海に注ぐ河川と、日本海に注ぐ河川に分かれるが、分水界が南に偏っているので瀬戸内海側に流入する河川はあまり大きくない。東から芦田(あしだ)川、沼田(ぬた)川、黒瀬川、太田川、小瀬(おぜ)川などが瀬戸内海に注ぐが、山口県境に近い冠(かんむり)山に発して広島湾に注ぐ太田川のほかは中・小河川である。瀬戸内沿岸には太田川のつくる広島平野、芦田川下流の福山平野のほか、沼田川下流の三原市、賀茂(かも)川下流の竹原市、小瀬川下流の大竹市などの市街がのる小規模な沖積平野がある。日本海に注ぐ中国地方最大の河川江の川(ごうのかわ)の上流可愛川(えのかわ)は、島根県境の阿佐(あさ)山に発して東流し、三次(みよし)盆地で西城川、馬洗(ばせん)川、神野瀬(かんのせ)川と合流、江の川となって北西に流れ島根県境を越え江津(ごうつ)市で日本海に入る。江の川流域の三次盆地のほか、吉備高原上には庄原(しょうばら)盆地、東広島市ののる西条盆地などの山間盆地がある。

 瀬戸内海は第四紀更新世(洪積世)の終わりごろ瀬戸内盆地が部分的に沈下し、また海面の上昇により形成されたものである。東から因島(いんのしま)、大崎上(かみ)島、大崎下(しも)島、上蒲苅(かみかまがり)島、下蒲刈島など芸予諸島の島々や、広島湾の江田島、倉橋島、厳島(いつくしま)(特別名勝・特別史跡)などが点在し、多島海の景観は瀬戸内海国立公園の一部となっている。なお県東部の山地は比婆道後帝釈国定公園(ひばどうごたいしゃくこくていこうえん)に、西部の島根・山口県境の阿佐山(1218メートル)、深入(しんにゅう)山などの山々は西中国山地国定公園に指定されており、前者には帝釈峡(たいしゃくきょう)(国の名勝)、後者には三段峡(特別名勝)の峡谷がある。県立自然公園に南原(なばら)峡、山野(やまの)峡、竹林寺用倉山(ちくりんじようくらやま)、仏通寺御調八幡宮(ぶっつうじみつぎはちまんぐう)、三倉岳(みくらだけ)、神之瀬峡の六つがある。

 地質は、県土の約40%が花崗(かこう)岩類から形成され、これに流紋岩類を加えた火成岩類が約70%に達している。このほか広島市可部(かべ)付近や呉(くれ)市広、蒲刈上島、蒲刈下島、大崎上島、大崎下島、高根(こうね)島、因島にかけて部分的に古生層が残存し、三次盆地や庄原市付近には第三紀層が広く分布している。

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気候

瀬戸内海沿岸と中国山地では気候にかなりの差がある。沿岸部は瀬戸内式気候で、概して温暖で、年間を通じて晴天の日が多い。夏の夕凪(ゆうなぎ)現象は蒸し暑さで知られる。2017年(平成29)では、広島市の年平均気温は16.3℃、年降水量は1619.5ミリメートルである。四国山地で遮られるため台風の襲来も少ない。中国山地では冬季の冷え込みは厳しい。積雪も多く、スキー場が開設される所もある。中国山地の高峰に囲まれた標高の高い庄原(しょうばら)市高野町地区の年平均気温は10.8℃、年降水量は2268.5ミリメートルとなる。

 植生は、沿岸部ではシイ、カシなどの常緑広葉樹を主とする照葉樹林帯(暖帯林)で、山間地域はナラ、ブナなどを主とする落葉樹林帯(温帯林)から形成されている。沿岸部や島嶼部ではアカマツの二次林が多いが、近年松くい虫の被害が多い。

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歴史

先史・古代

県の北東部から岡山県に及ぶ帝釈峡遺跡群は縄文時代を中心とする遺跡であるが、馬渡岩陰(まわたりいわかげ)遺跡からは先土器時代のものも出土している。縄文時代に入ると、県下各地に遺跡があり、縄文中期の大田貝塚(尾道(おのみち)市)からは多量の人骨が発掘されている。弥生(やよい)時代になると、中山貝塚(広島市)、松江遺跡(三原(みはら)市)、亀山遺跡(福山(ふくやま)市)などがある。4世紀後半になると、中小田(なかおだ)古墳(広島市)が出現し、東広島市の三ツ城古墳(みつじょうこふん)(国の史跡)は5世紀後半の安芸(あき)国最大の前方後円墳であり、三次盆地には浄楽寺・七ツ塚古墳群など多くの古墳がみられる。

 7世紀には安芸国と備後国(びんごのくに)が成立し、安芸国の国府は当初東広島市西条に置かれ、のち安芸郡府中町に移された。備後国府は府中市に置かれた。また山陽道は畿内(きない)と大宰府(だざいふ)を結ぶ重要な官道となった。11世紀ごろから荘園(しょうえん)が増加し、大田荘(世羅(せら)郡)などが知られる。尾道は大田荘の年貢米積み出し港から発展した地である。平清盛(きよもり)は安芸国を知行(ちぎょう)国とし、厳島神社を厚く崇敬し、社殿を造営、荘園を寄進し、厳島は内海文化の中心となった。

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中世

平家滅亡後、鎌倉幕府は武田氏を安芸の守護に、土肥(どい)氏を備後の守護に任じた。その後、安芸の守護は今川、山名、大内各氏、備後の守護は長井、細川、渋川、今川、山名の各氏が任ぜられ、一方関東の小早川(こばやかわ)氏、吉川(きっかわ)氏らも地頭(じとう)としての勢力をもった。戦国時代は山陰の尼子(あまご)氏のほか、大内、武田、山名各氏が拮抗(きっこう)した。戦国時代末期に毛利氏(もうりうじ)が台頭し、守護の武田氏を滅ぼし、さらに大内氏の後を継いだ陶(すえ)氏を滅ぼし、内海一帯に実権をもち、3代輝元(てるもと)のときには豊臣(とよとみ)秀吉から中国地方一帯の9か国112万石を得た。瀬戸内海では海上交通が盛んで、因島の海賊衆村上氏の名が知られている。

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近世

関ヶ原の戦い(1600)後、毛利氏は周防(すおう)・長門(ながと)(山口県)2国に封じられ、安芸・備後は福島正則(まさのり)が支配したが、正則の改易で1619年(元和5)広島城には紀州から浅野長晟(ながあきら)が入り、安芸全域と備後の8郡を治める42万石の広島藩主となった。備後7郡は福山藩水野氏10万石が統治し、1698年(元禄11)水野氏が断絶すると、翌々年松平氏が入り、1710年(宝永7)以降は阿部氏の治下となった。

 なお、1632年(寛永9)広島藩主浅野光晟(みつあきら)は庶兄長治(ながはる)に5万石を分与し三次藩が成立したが、三次藩は1720年(享保5)廃絶し、藩領は広島藩に返された。

 江戸時代、芸・備両国で約100件の百姓一揆(いっき)が記録されている。1717年(享保2)年貢軽減を求める福山藩の惣(そう)百姓一揆や、翌年広島藩で起きた百姓一揆、1786年(天明6)福山藩全域で起きた百姓一揆が知られている。

 一方、広島、福山両藩とも沿岸部では新田化が進み、一部は塩田となり、竹原や松永は製塩業で栄えた。中国山地では藩経営によるたたら製鉄が行われ、また、イグサ栽培と備後表の製造、備後絣(かすり)、安芸木綿、太田川流域のアサ栽培などが奨励された。

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近・現代

1871年(明治4)廃藩置県により広島県と福山県が誕生し、福山県は深津(ふかつ)県、小田県、岡山県を経て1876年広島県へ編入された。1889年の市町村制施行で広島市のほか464町村が誕生した。その後瀬戸内海沿岸に人口が増加し、明治から大正にかけて尾道市(1898)、呉市(1902)、福山市(1916)が次々と生まれた。

 1872年広島城内に広島鎮台が置かれ、のち第五師団となった。1894年の日清(にっしん)戦争の際は広島市が臨時首都となり大本営、帝国議会も開かれ、宇品(うじな)港は軍事輸送に重要な役割を果たした。以後、広島市は軍都として発展の歩みを進めた。一方、呉には1889年鎮守府が置かれ、海軍工廠(こうしょう)も設けられて、軍港として重要な役割を担うこととなった。文教面では明治30年代までに県下に多くの中等学校、女学校が設立され、1902年(明治35)には高等教育機関として広島市に広島高等師範学校が置かれた。

 昭和に入り、日中戦争、太平洋戦争と戦時色が濃くなり、1945年(昭和20)4月には第二総軍司令部が広島市に置かれた。1945年8月6日には広島に原爆が投下され、20万人近い死者を出す惨状となった。なお米軍の空襲により、呉市は市民だけで約2000人の犠牲者を出し、福山市も約350人の死者を出す被害を被った。

 昭和30年代に入って生産県構想が出され、重化学工業を中心に工業が発達し、広島、呉、大竹、三原、福山各市を中心に多くの工業が立地した。1963年には福山市を中心とした備後地区が工業整備特別地域となった。

 1973年(昭和48)の石油ショック以降、高度成長型の工業にもかげりがみえる。広島中央テクノポリスの指定を受けたこともあり、エレクトロニクスバイオテクノロジーなどの先端工業の発展が期待されている。

 1994年(平成6)にはアジア競技大会が広島市をはじめ、広島県下各地で開催され、さらに1996年には「ひろしま国体」が開催された。

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産業

広島県の産業別就業者人口を全国のそれと比べると、第一次産業と第三次産業が少なく、第二次産業がかなり多い。第二次世界大戦後は軍需工場が壊滅したこともあって農業人口が増大した。戦後の復興が進む1950年ごろから第三次産業が増え、1955~1960年にかけては第二次産業の急激な増加をみた。反面第一次産業は減少の一途をたどっている。2010年の国勢調査によると、第一次産業就業者の割合は3.4%、第二次産業26.6%、第三次産業70.0%である。

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農業

総農家数は7万8410戸(2002)で第二次世界大戦後減少を続けている。耕地面積も6万1500ヘクタールで、同様の傾向を示している。専業農家は1万2260戸で総農家数の15.6%に過ぎず、兼業農家が大部分を占める。経営規模は1ヘクタール未満が全体の47.9%を占め、広島県の農業が零細小規模であることを示している。

 作付延べ面積では水稲がもっとも多く全体の54%、ついで果樹、野菜、飼肥料用作物、豆類などである。果樹の栽培面積は約6880ヘクタールで、柑橘(かんきつ)類が全体の60%を占め、ナシ、ブドウ、モモ、カキ、クリなども栽培される。

 地域別にみると、広島市やその近郊町村では蔬菜(そさい)、生乳、卵などの生産が盛んで、とくに広島市の川内(かわうち)地区の広島菜の生産、東区小河原(おがわら)を中心とした養鶏が知られる。島嶼部では柑橘類(かんきつるい)栽培が盛んで、とくに瀬戸内のレモン、大崎下島の大長(おおちょう)ミカン、高根島の高根ミカンなどは有名である。このほか大長のネーブル、因島のハッサクなどが知られたが、主産地は他県に移っている。また世羅台地では赤ナシである幸水の栽培が盛んである。中国山地は古くから牧牛地帯で、とくに比婆(ひば)牛、神石(じんせき)牛などはよく知られている。三次(みよし)市に家畜市場があり、阪神方面からの買付けも多い。東部の神石高原は古くからコンニャクイモや葉タバコの栽培が有名であり、備後の沿岸では水田の裏作としてイグサ栽培があり、畳表の備後表として知られた。しかし近年では岡山県下、さらに熊本県に主産地が移った。東広島市西条を中心とした賀茂郡、世羅郡一帯のアカマツ林はマツタケの産地として知られている。中国山地では酪農のほかに、気候の冷涼性を利用して庄原市高野(たかの)町地区では暖地リンゴやダイコンの栽培が行われ、県西部の廿日市(はつかいち)市吉和(よしわ)などではワサビの栽培も行われている。

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林業

広島県の林野面積は約62万ヘクタールで、県総面積の約70%を占める。天然林が大部分で優良な人工林は少ない。林家数は5万0455戸(2000)、所有林1ヘクタール未満が約半数で、零細林家が多い。おもな用材としては、沿岸部のアカマツ、中国山地のスギ、ブナ、ナラ材などがあるが、量は少ない。

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水産業

県下の漁業経営体数は3536(2002)。年々減少している。漁船所有者のうち5トン未満の漁家が約半数を占め、零細な一本釣り、沿岸漁業が多い。漁獲物はタイ、ヒラメ、カレイなど沿岸魚が多い。江戸初期から行われているカキ養殖は広島湾を中心に全国生産の55%を占め、阪神・東京方面へ出荷している。ノリの養殖は減少しているが、ハマチ、タイ、ヒラメ、エビ、フグなどの養殖も行われ、養殖漁業では日本有数の県となっている。

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鉱業

従来中国山地の砂鉄を利用したたたら製鉄が盛んであったが、現在は芸予諸島や帝釈峡を中心とする石灰岩採掘や庄原市付近のろう石採掘が行われるにすぎない。

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工業

広島県の近代工業は、1881年(明治14)広島市瀬野川に官営広島紡績所が設置されたことに始まる。紡績所は完成と同時に士族に払い下げられたが、業績はあがらなかった。1889年、呉に海軍工廠が設けられたのが県の工業発展の基礎となった。広島市に日本製鋼、三輪トラック製造の東洋工業(現、マツダ)、三菱(みつびし)造船(現、三菱重工)、三菱機械(現、三菱重工)、福山市に帝国染料(現、日本化薬)、三菱電機、因島の大阪鉄工所(現、日立造船)などの工場が立地、発展した。第二次世界大戦後は呉市に造船、製紙、鉄鋼、大竹市に石油化学、紙・パルプ、福山市に製鉄など大企業が次々と立地し、瀬戸内工業地域の重要な拠点となった。2002年(平成14)の製造事業所総数は1万1041、従業員数は21万7000人を数える。製造品出荷額等は6兆6024億円で、中国地方第1位、全国で14位の高位にある。業種別では、輸送用機器が24.0%、以下、一般機械13.1%、鉄鋼12.7%、食料品7.6%、金属製品4.7%、電子部品4.7%となっていて、鉄鋼、機械など粗材生産、高度成長型の業種に偏していることがわかる。なお、かつて全国一を誇った造船業は、オイル・ショック以後不況が続き、さらに1985年(昭和60)の円高により決定的なダメージを受けた。現在、人員削減などの合理化が進んでいる。

 地域別では広島地区の自動車、造船、機械、食料品、木材家具、雑貨、大竹市の紙、石油、電機工業、呉地区の鉄鋼、造船、機械、パルプ、三原市の電子、車両、機械、福山市の鉄鋼、電機、機械、化学工業などがある。内陸では中国自動車道沿いに鉄鋼、機械、電機、バイオテクノロジーなどの産業が立地している。

 伝統工業としては、広島市の針、熊野町の筆、呉市の砥石(といし)、やすり、東広島市西条の酒造、福山市の琴、伸鉄、いかり、府中市のたんすや備後絣(かすり)などがそのおもなものである。

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開発

広島県は第四次長期総合計画(1995~2005)を進めたが、その中心に、中・四国地方の中心県としての管理中枢機能の強化、広域交通体系の整備、行政の広域的対応をあげた。広島市を中心に機能の集積を図り、メッセ・コンベンションシティとして国際的に開かれた都市を目ざしたのである。このための広域交通体系として、中国自動車道、本州四国連絡橋尾道―今治(いまばり)ルート(西瀬戸自動車道=瀬戸内しまなみ海道)、山陽自動車道、南北路として広島自動車道と浜田自動車道が開通、さらに広島空港も開港した。これらの基盤のうえに、瀬戸内海の開発と環境保全、広域観光開発の推進、中国山地中山間地域の農林業の活性化なども図られた。また広島県の工業が高度成長型の粗材生産に偏っていることから、広島中央テクノポリスを拠点に、エレクトロニクス、臨空工業の開発も指向している。また備北では中国自動車道沿いに大学が設置され、また工場などの立地を目ざした備北新都市圏開発を打ち出している。

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交通

国土縦貫的な幹線交通と、これに直交し、域内相互を結ぶ南北交通に分けられる。また広域交通と、都市間や域内を結ぶローカル交通とに分けられる。広域交通では瀬戸内沿岸部の都市を結んで、山陽自動車道、JR山陽本線、JR山陽新幹線、国道2号がある。内陸では中国山地を縦貫する中国自動車道がある。南北交通としては、広島と浜田を結ぶ広島自動車道と浜田自動車道、西日本旅客鉄道(JR西日本)の芸備(げいび)線、福塩(ふくえん)線、可部線などがあり、芸備線は山陽と山陰の連絡鉄道の役割を果たしている。なお、広島県(三次(みよし)市)と島根県(江津(ごうつ)市)を結ぶJR三江(さんこう)線があったが、沿線の過疎化等による利用者減少のため2018年(平成30)に廃線となった。ほかに松江、尾道、西瀬戸などの自動車道がある。道路では広島―松江を結ぶ国道54号があり、大竹から江津に至る186号、尾道―松江間の184号、福山―新見(にいみ)間の182号などがある。本州四国連絡橋の今治―尾道ルート(西瀬戸自動車道=瀬戸内しまなみ海道)は、1999年(平成11)5月に全線開通した。

 空路は広島空港があり、国内線では東京、札幌、仙台、沖縄、成田、国際線ではソウル、大連(だいれん)、北京(ペキン)、上海(シャンハイ)、台北(タイペイ)、香港(ホンコン)と結ばれている。かつて存在した広島西飛行場は2012年に廃港。施設は「広島ヘリポート」となり、公共用ヘリポートとして使用されている。海運は、国際拠点港湾の広島、重要港湾に呉、尾道・糸崎、福山の四つがあり、これらを拠点に四国や内海の島嶼(とうしょ)を結んでいる。

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社会・文化

教育文化

広島藩5代藩主浅野吉長(よしなが)は、1725年(享保10)藩儒寺田臨川(りんせん)に命じて講学館を設立、藩の子弟の教育を行った。藩の最初の学問所であるが、享保(きょうほう)末年ごろ閉鎖。1782年(天明2)7代藩主重晟(しげあきら)は城内に藩校を設け、頼春水(らいしゅんすい)らを登用した。1870年(明治3)修道館と名づけられ、庶民の入学も許したが、1871年廃止。広島藩では家老が設立した講学所、朝陽館、明義堂、蒙養(もうよう)館などの学問所もあった。福山藩では、1786年(天明6)に藩校弘道館(こうどうかん)がつくられ、菅茶山(かんさざん)も教えている。庶民の聴講も許された。1854年(安政1)文武総合の藩校として誠之館(せいしかん)が設立された。菅茶山は神辺学問所とよばれる廉塾(れんじゅく)を開き、入門者は全国から集まったという。頼山陽も一時塾頭を務めたことがある。

 2012年(平成24)現在、広島大学、県立広島大学など、国立大学法人1、公立4、私立16の大学がある(学生の募集を停止した大学を除く)。短大は公立1、私立5、高専は2を数える。

 マスコミでは、広島県下をはじめ山口・島根県にも多くの購読者をもつ『中国新聞』がある。1892年『中国』の名で創刊されたもので、朝刊の発行部数は約61万(2016)。放送では、中国放送、広島テレビ、テレビ新広島、広島ホームテレビ、広島エフエム放送などがあり、NHK広島は中国地方の基幹局となっている。

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生活文化

東部の備後と西部の安芸では、県民性もやや異なる。備後は安芸よりも早くから開け、岡山県西部地方と似た方言もあり、京阪神の影響をより強く受けている。中央の動静に敏感で、進取的であるといわれるが、同じ備後でも城下町の福山は質実な気風を残し、港町の尾道は開放的で経済の動きに敏感だとされる。安芸地方は山口県東部と似た方言を用いる。瀬戸内海の主要航路からやや外れ、他地方からの影響を受けることが遅れ、大藩の城下町だったこともあって、おっとりして積極性に欠ける面があるといわれる。全体的には温和な気候、豊富な食物に恵まれ、第二次世界大戦前から退職者が多く住む所であった。したがって一般に保守的である。浄土真宗を信仰する人が多く、安芸門徒とよばれ、北陸と並んで真宗王国といわれている。他方、畿内(きない)と北九州を結ぶ廊下的な地域であるため進取の気性にも富み、移民が多かった地域でもある。1885年県民156人がハワイへ渡航したのを最初に、その後10年間に約1万1000人がハワイへ渡った。これは全国渡航者の約3分の1にあたる。

 年中行事をみると、旧暦正月14日、県下各地で小(こ)正月の火祭「とんど」が行われる。三原市などではとんどを神明祭(しんめいまつり)といい、竹、松、笹(ささ)などを藁(わら)で長く巻いて「お山」とし、これを焼いて1年の無病息災を願う。旧暦3月3日の雛(ひな)の節供には実家から雛人形が贈られるが、三次(みよし)や三原の土人形(でこ)が用いられることが多い。またこの日を花見節供といって、弁当をもって花見に行く風習がある。5月5日の端午(たんご)の節供は全国各地と同様に鯉幟(こいのぼり)を立て、ちまきをつくるが、芸予諸島の漁村では若者たちによる櫂伝馬(かいでんま)の競漕(きょうそう)が行われる。厳島(いつくしま)神社の管絃祭(かんげんさい)は旧暦6月17日の夜に行われる。神体をのせた御座船が管絃を奏して夕刻本土の地御前(じごぜん)神社に渡り、夜半還御(かんぎょ)する。西日本各地から集まった大小の漁船が幟を立て、灯明をあげるさまは壮観である。お盆は各地で盆踊りが行われ、三原のやっさ踊りは阿波(あわ)踊りに似た激しい動きの踊りである。安芸門徒の墓地には美しい盆灯籠(ぼんどうろう)が数多く供えられる。

 秋祭の神楽(かぐら)は、安芸では石見(いわみ)系、備後では出雲(いずも)系のものが演じられる。旧暦10月には、子供を中心とした亥の子(いのこ)が行われる。町内会ごとに亥の子駄屋という祭壇をつくり、子供たちが太鼓をたたいて町内を回る。また、亥の子石という数十本の引き綱に石をつけたもので地面をたたいて回る。秋の収穫祭の一つである。旧暦11月27日は親鸞上人(しんらんしょうにん)の命日にあたり、おたんや(逮夜(たいや))といって寺に参り、お通夜をしたり煮込み田楽(でんがく)を食べる風習がある。

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文化財

古くから開けた瀬戸内沿岸を中心に厳島(廿日市(はつかいち)市)、尾道、福山などに多くの文化財が分布する。これらを、国指定重要文化財を中心にみていくと、神社建築では、厳島神社には本社(本殿・幣殿など)、摂社客(まろうど)神社(本殿・幣殿など)、廻廊(かいろう)の国宝建築物のほか、海中の大鳥居、五重塔、多宝塔などがある。このほか、呉市の桂浜(かつらはま)神社本殿、北広島(きたひろしま)町の竜山八幡(たつやまはちまん)神社本殿、福山市新市(しんいち)町の吉備津(きびつ)神社本殿、同市鞆(とも)町の沼名前(ぬなくま)神社の能舞台など。

 寺院建築では、尾道市浄土寺(じょうどじ)の多宝塔、本堂(以上国宝)、阿弥陀(あみだ)堂、山門、露滴庵(ろてきあん)など、西郷(さいごう)寺の本堂、山門、西国(さいごく)寺の金堂、三重塔、天寧(てんねい)寺塔婆など。禅宗の優れた建築として広島市不動院金堂(国宝)、庄原市の円通(えんつう)寺本堂、三原市の仏通(ぶっつう)寺地蔵堂、福山市安国(あんこく)寺釈迦(しゃか)堂などがある。このほか国宝建造物に福山市明王(みょうおう)院本堂・五重塔、尾道市向上(こうじょう)寺の三重塔がある。

 民家建築には、廿日市市宮島町の神職林(はやし)家住宅、東広島市の豪商旧木原家住宅があり、三次市吉舎(きさ)町の奥家、同三良坂(みらさか)町の旙山(はたやま)家、同小田幸町の旧真野(しんの)家はいずれも江戸時代の豪農住宅である。

 彫刻では、広島市不動院の木造薬師如来坐像(にょらいざぞう)、三滝(みたき)寺の木造阿弥陀如来坐像、尾道市浄土寺の木造十一面観音立像など、福山市明王院の木造十一面観音立像、三原市御調八幡宮(みつぎはちまんぐう)の木造狛犬(こまいぬ)などの重要文化財があり、絵画では尾道市持光寺の絹本著色普賢(ふげん)延命像(国宝)などがある。厳島神社は文化財の宝庫で、建築物以外に平家納経、紺糸威鎧(おどしよろい)、銘友成の太刀など国宝だけでも11件を数える。考古資料では、広島市福田の木ノ宗山(きのむねやま)出土の青銅器(重要文化財)、安芸高田(あきたかた)市甲田(こうだ)町荒神(こうじん)古墳から出土した副葬品などが知られている。

 有形民俗文化財としては、中国山地のたたら製鉄、瀬戸内沿岸の製塩、造船などの資料などがとくに重要である。国指定の重要有形民俗文化財としては、三段峡上流にあり、ダム建設のため水没した「樽床(たるどこ)・八幡山(はちまんやま)山村生活用具および民家」、「芸北の染織用具および草木染コレクション」「川東(かわひがし)のはやし田用具」(以上、北広島町)などがある。

 中国山地の村々では囃田(はやしだ)という共同の田植行事があり、壬生(みぶ)の花田植(北広島町)、「安芸のはやし田」(安芸高田市高宮町、北広島町)、塩原の大山供養田植(庄原市東城町)は国指定重要無形民俗文化財。神楽は、庄原市東城町の比婆荒神神楽が重要無形民俗文化財に、府中市上下町の弓神楽、広島市沼田(ぬた)の阿刀(あと)神楽が選択無形民俗文化財になっている。

 このほか、「御神酒献備(ごしんしゅけんび)の古式」とよばれる奇習「久井稲生神社の御当(くいいなりじんじゃのおとう)」(三原市)、「安芸備後の辻堂の習俗」「安芸備後の水車風俗」が選択無形民俗文化財である。

 なお、1996年(平成8)に厳島神社と広島市の原爆ドームが世界文化遺産に登録された。

[北川建次]

伝説

安芸門徒の名で知られるように、安芸は念仏信仰が深い。東広島市の長善寺の本尊「阿弥陀仏(あみだぶつ)」は、もと四国川ノ上八幡(はちまん)の御神体だったもの。この仏像が安阿弥(あんあみ)の作と聞いて海賊が盗んで船で運ぶ途中、暴風にあい海に投げ捨てた。長善寺の僧がそれを夢にみ、引き上げて寺に迎えたという。安芸郡坂町の沖に「六字岩」とよばれる暗礁がある。大坂石山合戦のとき、本願寺方を支援した毛利(もうり)勢の船が嵐(あらし)にあうが、親鸞上人(しんらんしょうにん)から授けられた六字の名号(南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ))を海中に投ずると、たちまち波が静まって無事に帰ることができた。名号がひっかかった暗礁を六字岩の名でよぶようになったという。厳島神社のある宮島は古くから神の島としての信仰が厚い。主峰の弥山(みせん)は三鬼(さんき)が擁護する神山で、弘法(こうぼう)大師が開いた「三鬼堂」には、消えずの火が燃え続けている。信仰に怠りがあるときは、三鬼が変化(へんげ)や妖怪(ようかい)の姿を借りて現れて戒めると伝えている。宮島の浜に「涙岩(なみだいわ)」という岩がある。厳島詣(もう)での徳大寺実定(さねさだ)という公卿(くげ)が、神社の内侍(ないじ)に心をひかれたが、帰京の命を受けて別離の涙を流した所という。一説には、実定の後を追った内侍が摂津(せっつ)住吉の沖合いに投身したとある。厳島神社の祭神「市杵島姫(いちきしまひめ)」は安産・子授けの神として信仰されているが、その一面嫉妬(しっと)深くて、夫婦そろって参詣(さんけい)すると縁を切るといわれている。広島市の周辺には狐(きつね)の伝説が多い。「江波のおさん狐(えばのおさんぎつね)」は京参りや伏見(ふしみ)詣での旅をしたこともあるという。祠(ほこら)は丸子山不動院の境内にある。広島市三滝(みたき)町の岩上稲荷(いわかみいなり)の主は白狐で、藩主池田公夫人に生き血を捧(ささ)げてから厚い信仰を寄せられるようになったと伝える。音戸(おんど)ノ瀬戸に架かる音戸大橋の下に「清盛塚」がある。平清盛は厳島神社の市杵島姫に思いを寄せて、姫の歓心を買うために音戸ノ瀬戸を1日で開削しようとした。工事なかばで満潮になったが、清盛がひとにらみするとたちまち潮が引いた。いまも満潮時にいっとき急潮が収まることがあり、「清盛の睨み潮(きよもりのにらみしお)」という。沼田川と西野川の間の沼地を干拓し潮止堤防を築くが波に壊される。人夫甚五郎(じんごろう)が自ら進んで人柱になった。近くに甚五郎社があり、その霊を弔って植えた松は「甚五郎松」といって樹齢約300年の大樹になっている。

[武田静澄]

『『広島県史』全27冊(1968~1983・広島県)』『後藤陽一著『広島県の歴史』(1972・山川出版社)』『藤井昭著『日本の民俗 広島』(1973・第一法規出版)』『若杉慧・村岡浅夫著『広島の伝説』(1977・角川書店)』『『広島県大百科事典』上下(1982・中国新聞社)』『『日本歴史地名大系 広島県の地名』(1982・平凡社)』『北川建次・渡辺則丈編著『広島県風土記』(1986・旺文社)』『『日本地名大辞典 広島県』(1987・角川書店)』


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