備後国(読み)ビンゴノクニ

デジタル大辞泉 「備後国」の意味・読み・例文・類語

びんご‐の‐くに【備後国】

備後

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日本歴史地名大系 「備後国」の解説

備後国
びんごのくに

古代

〔国の成立〕

大化改新のあと、朝廷は地方を治めるために伊予総領・筑紫総領など総領と称される地方官を派遣したが、そのなかに吉備総領があった。吉備総領が支配するのは吉備国であり、「日本書紀」には天武天皇一一年七月二七日条まで吉備国がみえる。吉備国は律令制下では備前・美作・備中・備後の諸国となる地域で、古くこの地方には岡山市高松たかまつ町の造山つくりやま古墳や岡山県総社そうじや市の作山つくりやま古墳に象徴されるような大勢力が存在したが、六世紀には大和朝廷の支配下に入った。律令制中央集権国家を目指して地方行政が整備されてくる天武・持統朝になると、吉備国が備前・備中・備後の三国に分割され、それぞれに国司が補任されるようになる。「日本書紀」天武天皇二年三月一七日条に、備後国司が白雉を亀石かめし(神石)郡でとって貢したという記事があるのを、備後国の成立とみてよいかどうかは問題があるが、「続日本紀」文武天皇元年閏一二月七日条に備前・備中という国名がみえるのは、この時までに備後国が成立していたことを示している。なお同天皇四年一〇月一五日条に上毛野朝臣小足が吉備総領に任ぜられた記事があるが、これはすでに名目的な職と考えられ、総領はこの記事を最後に姿を消す。

備後国の地域では大化前代から国造であったものとして吉備穴国造と吉備品治国造とがある。吉備穴国造は安那あな(当初は深津郡を含む)を中心に勢力をもっていた。安那郡という郡名は、穴国造に由来し、和銅六年(七一三)に諸国郡郷名を二字の好字にせよとされたことから、安奈・安那と記されるようになったのである。のちには「やすな」と訓ずる(和名抄)。吉備品治国造の勢力の中心は品治ほむち(当初は葦田郡の一部を含む)である。ホムチベ(品遅部・品治部)が各地に置かれて、備後地域にも品治部を統率する豪族がいたのが、吉備品治国造となったのであろう。このような国造の支配は、大化改新後設置された「評」と併存し、やがて評制が整うに従ってこのなかに解消されていき、大宝律令の施行によって「評」が「郡」と改称されて郡郷制が成立した。が郡司が選ばれるとき、国造の家柄の者が優先されたように、在地勢力としての地位は長く保たれていた。

〔国の行政と国勢〕

備後国は「延喜式」によれば国の等級は上国であり、また都からの距離で区分される近国・中国・遠国の区分では備中とともに中国であった。国府の所在は「和名抄」には葦田あしだ郡と記され、現府中市府川ふかわ町に比定される。

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改訂新版 世界大百科事典 「備後国」の意味・わかりやすい解説

備後国 (びんごのくに)

旧国名。現在の広島県東部。

山陽道に属する上国(《延喜式》)。古く吉備(きび)国といわれた地域の一部で,大化改新後に吉備総領が任ぜられたが,天武・持統朝ごろ分割されて,備前,備中,備後国が成立した。697年(文武1)閏12月には正史に備前,備中という国名が記されているので,当然備後国も存在したはずである。国府は《和名類聚抄》には葦田(あしだ)郡にありと記され,現在の広島県府中市域の旧国府村大字府川の地にあったと考えられる。ただし律令制当初は,国分寺の遺構が発掘された福山市の旧神辺(かんなべ)町付近の〈方八町〉と呼ばれる地にあったとする有力な説もある。《和名類聚抄》には同国は9301町2段46歩とあるが,これは9世紀末ないし10世紀初期の国家資料によったものと考えられる。709年(和銅2)葦田郡甲努(こうぬ)村が郡家から遠く隔たっているため葦田郡を割いて甲努郡が新設され,そのかわり品遅(ほむち)/(ほんじ)(のち品治)郡のうち3里を割いてこれが葦田郡に編入された。721年(養老5)安那(やすな)郡を分割して深津(ふかつ)郡が設けられた。なお奈良時代初期には沼隈(ぬのくま)/(ぬまくま)郡がまだ存在せず,740年(天平12)以前に御調(みつぎ)郡から分立したのではないかという説がある。《延喜式》では安那,深津,神石(かめし)/(じんせき),奴可(ぬか),沼隈,品治,葦田,甲奴,三上(みかみ),恵蘇(えそ),御調,世羅(せら),三谿(谷)(みたに),三次(みよし)の14郡で(北部を内郡,南部を外郡と呼ぶ),《和名類聚抄》には62郷と3駅家が記されている。国内には山陽道が通り,外国使節の通行にそなえて駅館は瓦葺白壁塗りとされていた。《延喜式》では安那,品治,者度の3駅を記すだけであるが,807年(大同2)の官符には5駅とあり,《延喜式》の駅名には脱落があると考えられる。

 備後の産物として塩とともに鉄が注目されている。当国では延暦年間(782-806)まで調として主として絹糸を納めていたが,山間部の諸郡では鉄が採れるけれども養蚕に不便なため,805年に神石など8郡の調の絹と糸とを鍬,鉄に代えて納めることが許可された。深津(現,福山市)には奈良時代末期に市が立っており(深津市(ふかつのいち)),《日本霊異記》には近在の人だけでなく讃岐国からも人が来た話が載っている。平安末期に一宮の制ができると吉備津神社が一宮とされた。1166年(仁安1)平重衡(しげひら)が後白河院に寄進して大田荘が成立すると,68年尾道村を大田荘の倉敷地(くらしきち)とする申請が認められ,尾道が港町として栄える基ができた。
執筆者:

1184年(寿永3)源頼朝は土肥実平(どひさねひら)を備前,備中とともに備後の守護に任じ,備後には実平の男遠平(とおひら)が代官として在国した。実平が知行した大田荘は,争乱の間に損亡がひどく,ほとんど荒野となったといわれる。平重衡が預所(あずかりどころ)であった大田荘は争乱後,後白河上皇の計らいで86年(文治2)高野山へ寄進された。当国の源平争乱後の地頭としては信敷(しのお)荘の一条能保(よしやす)室,歌島の家清が知られるにすぎないが,92年(建久3)ころ三吉氏が三次,広沢実方が三谿郡十二郷,96年三善康信が大田荘下司(げし)橘兼隆・光家の跡,1204年(元久1)山内首藤(やまのうちすどう)氏が地毗(じび)荘のそれぞれ地頭に補せられ,幕府支配権が徐々に強化された。承久の乱(1221)後に地頭職を得たものに高洲(たかす)荘の藤原遠綱がある。守護は実平ののち1223年(貞応2)長井時広の在任が知られ,鎌倉末までその庶流泰重の系統に相伝された。長井氏は23年小童保(しちのほ)地頭職を得たほかに,田総(たぶさ)荘,長和(ながわ)荘,信敷荘西方に所領を得た。守護職を相伝した系統は六波羅評定衆を兼ね,在京した。泰重の子頼重の弟重広の系統は田総荘以下を相伝して田総氏を名のり,泰重の弟泰茂の子頼秀の系統は長和荘西方などを相伝した。大田荘地頭三善氏では康信の死後,康継が大田方,康連が桑原方を継ぎ,以後それぞれの系統が相伝した。桑原方地頭が幕府の要職にあって代官支配にゆだねられたのに対し,大田方の地頭は在地に密着した支配を展開した。三谿郡十二郷の広沢氏は実方の孫実村の代に三谿郡西方に拠を移し,その子実成が和智氏,実綱が江田氏を称したが,14世紀の初めころには,なお東国の惣領の統制に服していた。なお,鎌倉後期備南に現れる杉原氏は在庁官人の出自と推定される。

 鎌倉期には貨幣経済の浸透にともない代銭納への転化が進み,1303年(嘉元1)地毗荘本郷では年額45貫文の地頭請(じとううけ)が成立した。また商人,借上(かしあげ)を預所代,地頭代に挙用した荘園も少なくなかった。彼らは暴力的収奪を行い悪党と呼ばれる場合もあり,富の集積される港湾都市はその溜り場となりやすかった。19年(元応1)守護長井貞重の代官円清らが尾道浦に乱入し,当浦預所代らを殺害し悪党らをからめ取り,民家1000余宇などを焼き大船数十艘で仏聖人供などの資財を運び去った事件は,悪党どうしの衝突と評価される。当時塩の生産地因島(いんのしま)の地頭職は北条得宗領であったが,33年(元弘3)尾道浄土寺に寄進された。西大寺叡尊の弟子定証による浄土寺の再興や同宗の草戸(草戸千軒)の常福寺再建,尾道での時宗の海徳寺や常称寺の創建,浄土真宗明光派の始祖による沼隈郡山南(さんな)の光照寺の創建,同郡水呑にあった真言宗重顕寺の日蓮宗への改宗などは鎌倉後期以降の内海水運の発達にそうものであった。足利尊氏らがはじめた安国寺には(とも)の金宝寺があてられ,利生塔は浄土寺に建立された。

1336年(延元1・建武3)足利尊氏は西走にあたり備後の大将に今川顕氏,同貞国をあて鞆,尾道に陣取らせ,守護には朝山景連を補した。杉原信平・為平の兄弟は九州まで従い,戦功により御調郡木梨(きなし)十三ヵ村をあてがわれたと伝える。尊氏は東上の途次尾道に立ち寄り,ついで鞆を発し陸海両路に分かれて東上したが,備後の国人らは尊氏の弟直義(ただよし)の麾下(きか)で陸路を進んだ。その隙に金丸名(かねまるみよう)領主の在庁官人竹内兼幸らが有福(ありふく)城に拠って尊氏方に敵対し,御調郡広瀬,世羅郡大田荘,津口(つくち)荘,重永(しげなが)城と転戦したが,以後反幕府の動きは下火となった。守護朝山景連は38年(延元3・暦応1)まで在任し,40-49年(興国1・暦応3-正平4・貞和5)には細川頼春が在任した。49年4月中国探題として鞆に下向した直冬(ただふゆ)(尊氏子,直義養子)は,同年9月尊氏の命を受けた杉原又四郎の襲撃を受けて九州へ逃れた。51年(正平6・観応2)直義は上杉顕能を備後守護としており,その麾下に宮盛重,山内通広らが属し,同年8月尊氏が派遣した守護岩松頼宥には三吉覚弁,長井貞頼らが味方した。この観応の擾乱(じようらん)期の52年(正平7・文和1)10月,山内氏では惣領通継代道円ほか10名が一族一揆を結び,直冬方として一族内の結束を固めた。56年(正平11・延文1)3月幕府は細川頼有を備後守護に任じ,同年6月にはその兄細川頼之(よりゆき)を中国管領として派遣した。このころから直冬勢力の衰退が顕著で,直冬方として結束を固めた山内氏惣領通継も頼之に帰服し,63年ごろまでに直冬方勢力の掃討は終わり,中国探題は廃止された。

 65年(正平20・貞治4)九州探題に任じられた渋川義行は備後守護を兼帯し,軍勢の整うのを待ちつつ備後辺に延滞を重ね,結局70年(建徳1・応安3)帰京した。同年9月九州探題に抜擢(ばつてき)された今川貞世は翌年2月京都を出発し,5月ごろ尾道に滞在ののち悠々と西下した。貞世は備後,安芸の守護を兼帯し,両国の国人(こくじん)の多くが彼に従って出陣した。備後からは山内通忠,長井貞広,田総能里らであるが,出陣の留守に三吉道秀は山内通忠の地毗荘に討ち入り,宮氏信は田総氏の長和荘東方,石成(いわなり)荘下村地頭職を押領(おうりよう)し,長井貞広の本領信敷荘西方も奪おうとした。貞広が筑後山崎において戦死すると,その遺跡は毛利広世に譲られた。康暦の政変(1379)後,山名時義が備後守護に補せられ,89年(元中6・康応1)厳島(いつくしま)参詣の帰途の足利義満を,時義父子は尾道の天寧(てんねい)寺に迎えて歓待した。同年5月病死した時義の跡には同族の義煕(よしひろ)が任じられた。90年(元中7・明徳1)一族の氏清,満幸らに敗れた山名時煕(時義子)は備後に逃れ,山内通忠に信敷荘東方を与えて勢力の回復を策したが,新守護として四国から渡海した細川頼之に鎮定された。

応永の乱(1399)後,幕府は山名氏を大内氏とその与党討伐に当たらせる政策の一環として,1401年(応永8)山名常煕を備後守護に任じた。常煕は備北ではその被官山内氏との結びつきを強化し,中部以南では大田荘,小童保,国衙領を守護請(しゆごうけ)とした。守護は33年(永享5)持豊(もちとよ),54年是豊(これとよ)と受け継がれたが,是豊は隠居した持豊と反目して細川勝元にくみし,61年(寛正2)には勝元の求めに応じて国人らを率いて河内の畠山討伐に出陣した。応仁・文明の乱(1467-77)には江田,和智,田総,山内ら内郡衆は西軍に,宮氏惣領,高須杉原ら外郡衆は東軍に属し,国元においても攻防が繰り返されたが,大局的には東軍が押され気味で,75年(文明7)是豊が撤退すると戦乱は終息をみ,備後は是豊の弟山名政豊の配下に入った。83年政豊が赤松政村討伐を企てると,備後国人らはその子俊豊の麾下で出陣し播磨を制圧した。しかし政村が家督を安堵され反撃に転ずると俊豊軍は大敗を喫し,政豊に背いた。ついで93年(明応2)俊豊の但馬遠征が失敗に終わると,備後の政豊派が勢いを得て両派の合戦が続いたが,98年冬以後俊豊の動向が不明となるころから山名氏のかつての影響力は弱まった。

 1507年(永正4)大内義興の上洛に,備後の国人らは多く従った。同じく上洛していた尼子(あまこ)経久が帰国して勢力を糾合しはじめると,これになびく備後国人も現れ,芸備国境付近を中心に尼子氏と大内氏の交戦が繰り返され,23年(大永3)尼子軍の安芸鏡山(かがみやま)城攻略前後に,備後の大内方は尼子方に走った。大内氏は翌年厳島神主家を下し,27年南下した経久を三谷郡和智郷細沢山に破って湯浅,和智などを寝返らせた。とくに41年(天文10)1月郡山(こおりやま)城を攻囲した尼子詮久(あきひさ)を敗走させて以後は,備後の諸勢力は大内氏に帰順した。しかし大内義隆が出雲遠征に失敗すると,備後勢は多く尼子方に寝返った。大内氏は山名理興の神辺城攻撃を開始し,49年陥落させた。しかし陶(すえ)氏の義隆殺害後の52年尼子晴久は備後守護に任じ,尼子方に転じた江田・山内両氏と呼応して翌年備北に兵を進めたが,毛利勢に旗返(はたがえし)城を攻略されて軍を返した。57年(弘治3)毛利氏の防長攻撃軍には備後国人16名が参戦しており,大内氏滅亡後の備後は毛利氏領国に含まれたことを示す。備後北部の内郡は山内,和智,江田,三吉らの有力国人が存在したのに対し,南部の外郡は杉原盛重・元盛を盟主とする宮,高須,横山などの外郡衆と呼ばれる自立的な集団があったが,84年(天正12)ごろ杉原氏が討伐され,神辺城は毛利氏の直接支配下に置かれた。また中郡は大内時代の16世紀中ごろ以来毛利氏の支配地が多く,毛利氏の備後経略上重要な役割を果たした。なお1576年足利義昭が鞆(のち鞆より津之郷(つのごう)に移る)に来て反信長勢力の糾合を図ったが成功をみず,88年以前に帰京した。
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豊臣政権のもとでも中国地方9ヵ国を領有した毛利輝元は,1600年(慶長5)関ヶ原の戦に敗北し,防長両国へ移封された。芸備両国へは福島正則が入封して広島藩49万石が成立し,幕藩体制が強力に推進された。正則は領国経営のため,広島のほか備後の三原,鞆,三次,東城,神辺の各地に家臣団を配置して支配を固めるとともに,翌01年領内に太閤検地の原則に基づく惣検地を実施し,惣百姓(名請百姓)による年貢村請(むらうけ)制を実現した。また刀狩や町・在の区別,交通路の整備,産業の開発などを手がけ,近世的体制の基礎を成立させた。

 19年(元和5)福島正則は広島城の無許可修築を理由に改易となり,広島に浅野長晟(ながあきら)(42万石),福山に水野勝成(かつなり)(10万石)が入封し,備後国は北部を中心に8郡が広島藩領,南部を中心に7郡が福山藩領となり,新たに福山の地に10万石の城下町が誕生した。32年(寛永9)広島藩主浅野光晟は,庶兄長治に三次・恵蘇両郡を中心に5万石を分与し,支藩として三次藩を成立させた。三次藩は5代続いたが1720年(享保5)継嗣断絶のため廃止され,遺領は再び広島藩に還付された。

 一方,福山藩主水野勝岑(かつみね)も1698年(元禄11)病死し,嗣子なく廃絶。所領は幕府領となり,山木与惣左衛門,曲淵(まがりぶち)市郎右衛門,宍倉(ししくら)与兵衛の3人が幕府代官として,福山城下続きの深津郡三吉村に陣屋を構えて支配した。ただし,実際に現地に赴任したのは山木与惣左衛門1人であった。幕府は99年,岡山藩に命じて水野遺領の検地を実施し,従来の領高10万石から5万石を打ち出し総高15万石に決定した。このうち5万石は引き続き幕府領となり,その約4万石(備後領)を甲奴郡上下代官所支配とし,あとの約1万石(備中領)を小田郡笠岡代官所の支配下においた。また残る10万石には,1700年に出羽国山形から松平忠雅が入封し,福山藩を継承した。忠雅は10年後の1710年(宝永7)伊勢国桑名に転じ,あとに下野国宇都宮から阿部正邦が入封した。阿部氏は正福(まさよし)が大坂城代に就任したのをきっかけに幕府要職に復帰し,正右(まさすけ),正倫(まさとも),正精(まさきよ),正寧(まさやす),正弘と代々が寺社奉行,奏者番,老中などを歴任した。1853年(嘉永6)には,老中として幕政に貢献した正弘に,幕府備後領のうちから1万石が加増されている。さらに1717年丹後国宮津から豊前国中津へ転じた奥平昌成(まさしげ)に,幕府備後領から2万石が与えられて中津藩備後領が成立し,神石郡小畠村に代官役所を設け,代々村田氏を名のる地元取立ての代官を任命した。このため,幕府備後領は2万石弱になったので,上下代官所を石見国大森代官所の出張陣屋に切り換えられた。幕末には1万石を阿部正弘に割き,幕府領はわずか1万石弱に縮小した。

三次藩は備後北部の低生産力地域を領知したため,当初から藩財政の窮乏状態が続き,累積した京・大坂借銀は,1674年(延宝2)に1480貫目,元禄初年には〈大借銀御難儀〉と危機的状況に見舞われた。藩は1669年(寛文9)以前から借銀返済と関連させて藩札発行を行ったり,86年(貞享3)の侍・切米取(きりまいとり)27人をはじめ1714年(正徳4)までに141人におよぶ大量召放ち(めしはなち)を行っている。そして,1699年藩政改革者として名高い松波勘十郎を招いて,領内年貢の総米納,国産鉄・紙の買占め,家中知行米(かちゆうちぎようまい)の集中化,それらの一括大坂積登せ(つみのぼせ)販売など徹底した財政再建策を実施した。しかし,この改革は3年後に挫折し,1713年,18年両度における百姓一揆の主たる原因となった。

 福山藩は1717-18年松平忠雅のとき,定免(じようめん)制の廃止,年貢軽減を要求する全藩一揆が起こり,つづいて藩主阿部正倫になった1770年(明和7),86-87年(天明6-7)にも大規模な全藩一揆に見舞われた。老中を辞した正倫は,藩制改編,財政再建,農村改革を目標に寛政改革を推進した。

広島藩領における備後8郡の主要国産品目は,1719年に17,1825年(文政8)64,64年(元治1)68としだいに増加している。瀬戸内海に面した備後南部地域では近世初頭以来,土木技術の画期的な発展にともなって盛んに干拓新開地(しんがいち)の造成が行われた。福山藩領では1670年までに干拓新田2400町歩,広島藩領では1711年幕府に届けた新田2200町歩に及んだ。これら干拓地には,尾道,向島,松永などで入浜塩田がつくられ,製塩業発展の基盤となり,綿作が盛んとなって繰綿,木綿織,備後絣などの産地を形成した。またイグサ栽培や畳表の製織も盛んで,備後表の名声を得ている。このほか,造船,内海漁業をはじめ,カンショ栽培,かんきつ類の普及なども島嶼(とうしよ)・沿海地域に生きる人々の生産意欲を高めるのに役だった。

 中国山地に位置する備後北部地域では,製鉄,製紙,麻苧(まお),林産加工業などがあった。たたら製鉄業は主として広島・三次両藩領で経営され,鉄穴(かんな)流しによる砂鉄採取から鑪吹(たたらふき),鍛冶屋まで一貫した製錬工程を行って,釰(はがね),銑(ずく),割鉄などの半製品が生産された。両藩とも18世紀初頭より藩営鉄山の経営が主流になっている。製紙業も藩専売制がしかれ,郡村請負で紙生産額の確保が図られた。麻苧は農民の商品生産として発展し,荒苧(あらお),扱苧(こきそ)で領外販売された。このほか,神石,恵蘇,三次郡の牛馬飼育や,タバコ,茶,こんにゃくおよび林産加工物の生産販売が盛んになった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「備後国」の意味・わかりやすい解説

備後国
びんごのくに

現在の広島県東部にあたる旧国名。山陽道に属した。

[青野春水]

古代

『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、備後国はもと吉備(きび)国に属していたが、697年(文武天皇1)ころまでに備前(びぜん)(713年美作(みまさか)を分出)、備中(びっちゅう)、備後に3分割されて成立していたと推察される。『延喜式(えんぎしき)』によると、国の等級は上国であり、都からの距離による区分では中国であった。国府の所在地は、『和名抄(わみょうしょう)』には葦田(あしだ)郡と記され、現府中市府川(ふかわ)町に比定されるが、備後国が設置された当初の所在地としては、現福山(ふくやま)市に比定する説もある。『和名抄』(東急本)によると、備後国は安那(やすな)、深津(ふかつ)、神石(かめし)(のち、じんせき)、奴可(ぬか)、沼隈(ぬまくま)、品治(ほむち)(のち、ほんじ)、葦田(あしだ)、甲奴(こうぬ)、三上(みかみ)、恵蘇(えそ)、御調(みつぎ)、世羅(せら)、三谿(みたに)、三次(みよし)の14郡からなる。以後郡名は、明治の新郡編成まで存続した。

[青野春水]

中世

備後国には初期荘園(しょうえん)を含めて志摩利(しまり)庄・地毗(じび)庄・田総(たぶさ)庄・高富(たかとみ)庄・深津(ふかつ)庄・吉津(よしづ)庄・坪生(つぼう)庄・長和(ながわ)庄・山南(さんな)庄・大田(おおた)庄・杭(くい)庄・木梨(きなし)庄・沼田(ぬた)庄・因島(いんのしま)庄など多くの荘園が存在したが、なかでも12世紀後期に成立した世羅郡の大田庄が有名である。備後国の守護に、1184年(元暦1)土肥実平(どいさねひら)が、承久(じょうきゅう)の乱後は長井氏(大江広元(おおえのひろもと)の子時広(ときひろ)を始祖とする)が、南北朝期には細川(ほそかわ)、渋川(しぶかわ)、今川(いまがわ)の各氏が、1379年(天授5・康暦1)以後は主として山名(やまな)氏が、それぞれ任ぜられた。応仁(おうにん)の乱(1467~77)後は大内(おおうち)氏、尼子(あまご)氏の勢力が入るが、1566年(永禄9)ころから毛利(もうり)氏が大内氏にかわって備後を支配することとなった。また瀬戸内海では水上交通が発達、朝鮮や中国大陸との交易も盛んに行われた。因島の村上氏は代表的な海賊衆(警固=水軍、海商)で、因島を拠点として室町時代活躍した。

[青野春水]

近世

1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで敗北した毛利輝元(てるもと)は、防長(ぼうちょう)2州に移封され、かわって福島正則(まさのり)が安芸(あき)、備後両国49万8000石の領主として広島城に入り、両国の近世化を推し進めた。しかし無許可で広島城を修築したという理由で1619年(元和5)改易され、かわって安芸国には浅野長晟(ながあきら)が、備後国に水野勝成(かつなり)が入封した。以後広島城主浅野氏は安芸国と備後国北部を明治初年まで支配した。入封後、福山に城を構え備後国南部10万石を支配してきた水野氏は、継嗣(けいし)なく1698年(元禄11)改易され、この地は天領となる。翌年検地の結果、旧水野領は15万石となり、さらに翌年松平忠雅(ただまさ)領(福山藩)10万石と天領5万石(上下(じょうげ)代官所支配。1717年うち2万石は中津(なかつ)領となる)に分割された。松平氏の転封により1710年(宝永7)以後、福山領10万石は阿部(あべ)領となり、1853年(嘉永6)1万石加増され、明治初年に至る。このように水野氏以後、備後国福山藩には代々譜代(ふだい)大名が配置されたが、なかでも阿部氏は正弘(まさひろ)をはじめ多くの老中を出した。

 物産としては砂鉄、藺草(いぐさ)、畳表、綿、木綿織、塩などが生産されたが、とくに綿、木綿織や畳表は福山藩のもっとも重要な物産で藩の統制を受けていた。またたびたび百姓一揆(いっき)が起こり、とくに1717~18年(享保2~3)、1786~87年(天明6~7)に起こった福山藩の惣(そう)百姓一揆は有名である。山陽道が備後国南部を通り、道中の神辺宿(かんなべじゅく)では、菅茶山(かんちゃざん)が廉塾(れんじゅく)(特別史跡)を創設し多くの子弟を教育した。なお備後国には多くの遺跡があり、なかでも備北の旧石器時代の帝釈峡(たいしゃくきょう)遺跡、備南芦田(あしだ)川河口の草戸千軒町(くさどせんげんちょう)遺跡がよく知られている。

[青野春水]

『後藤陽一著『広島県の歴史』(1972・山川出版社)』『『広島県史』全27巻(1972~83・広島県)』『福尾猛市郎監修『広島――歴史と文化』(1980・講談社)』『『福山市史』全3巻(1963~73・福山市史編纂会)』『『三原市史』全7巻(1970~ ・三原市)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「備後国」の意味・わかりやすい解説

備後国
びんごのくに

現在の広島県東部。山陽道の一国。上国。古くは吉備国の一部であった。『日本書紀』には崇神天皇のときに皇子吉備津彦をこの地方につかわして平定したとあるが,吉備国には全国でも第4位の規模をもつ造山古墳などがあったことから,5世紀頃には大和朝廷に対抗する大きな勢力であったことが知られる。『旧事本紀』には景行天皇のときに吉備穴国造が,成務天皇のときに吉備品治国造が設置されたという。氏族としては吉備氏であったとみられる。天武天皇の頃(673~686)に備前,備中,備後に分割された。国府は府中市,国分寺は福山市神辺町。『延喜式』には安那(やすな),深津,神石(かめし)などの 14郡,『和名抄』(→倭名類聚抄)には 65郷,田 9301町を載せている。鎌倉時代には初め土肥実平が守護に補せられたが,その後は長井氏の支配が続いた。南北朝時代には朝山景連,仁木義長,石橋和義らが守護となったが,やがて細川氏山名氏の支配下に置かれた。その後は毛利氏が西方から力を伸ばして本国を領した。関ヶ原の戦い後,福島正則が封じられたが,まもなく罪に問われて追放された。江戸時代には阿部氏が福山 10万石を領して幕末にいたった。明治4(1871)年の廃藩置県後,深津県となり,翌 5年小田県と改称。1875年岡山県に統合され,1876年備後 6郡を広島県に編入した。

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藩名・旧国名がわかる事典 「備後国」の解説

びんごのくに【備後国】

現在の広島県東部を占めた旧国名。古く吉備(きび)国から備前(びぜん)国岡山県東南部)、備中(びっちゅう)国(岡山県西部)、備後国に分かれた。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府は現在の府中(ふちゅう)市元町(もとまち)、国分寺は福山市神辺(かんなべ)町におかれていた。大宰府(だざいふ)に至る官道があったために、早くから貴族や寺院の荘園(しょうえん)が多く、鎌倉時代は土肥(どひ)氏、長井氏、南北朝時代から室町時代は朝山氏、高(こう)氏、細川氏、山名氏などが守護となった。戦国時代には大内氏尼子(あまこ)氏の間で勢力争いが続いたが、のちに毛利氏の支配下に入った。江戸時代には広島藩福山藩と幕府直轄領がおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県により広島県、深津(ふかづ)県が誕生。深津県は翌年に小田(おだ)県と改称、1875年(明治8)の岡山県編入を経て、翌年に広島県に編入された。◇備前国、備中国、備後国を合わせて備州(びしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「備後国」の意味・わかりやすい解説

備後国【びんごのくに】

旧国名。山陽道の一国。現在の広島県東部。もと吉備(きび)国。《延喜式》に上国,14郡。国府は現在の府中市。守護は鎌倉時代に土肥・長井氏,室町時代に細川・山名氏ら。江戸時代には三次(みよし)藩・福山藩があり,特産はイグサ(備後表(おもて))。
→関連項目大田荘地【び】荘中国地方広島[県]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「備後国」の解説

備後国
びんごのくに

山陽道の国。現在の広島県東部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では安那(やすな)・深津・神石(かめし)・奴可(ぬか)・三上・恵蘇(えそ)・沼隈(ぬのくま)・品治(ほむち)・葦田・甲奴(こうの)・御調(みつぎ)・世羅・三谿(みたに)・三次(みよし)の14郡からなる。国府は「和名抄」に葦田郡(現,府中市)とあるが,当初は安那郡(現,福山市神辺町)か。国分寺・国分尼寺は安那郡におかれた。一宮は吉備津(きびつ)神社(現,福山市新市町)。「和名抄」所載田数は9301町余。「延喜式」では調庸として塩・鉄・鍬などを定める。7世紀後半に吉備国を前・中・後に3分割して成立。守護は鎌倉時代は土肥氏から長井氏,室町中期は山名氏であった。戦国期は尼子氏・大内氏が勢力をのばし,のち毛利氏の支配となる。江戸時代は広島藩・福山藩や豊前国中津藩領・幕領があった。1868年(明治元)幕領は倉敷県となり,71年の廃藩置県の後,旧福山藩領など東南6郡が深津県(のち小田県)となったほかは広島県に属し,その後の変遷をへて76年備後国はすべて広島県となる。

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