音戸ノ瀬戸(読み)オンドノセト

デジタル大辞泉 「音戸ノ瀬戸」の意味・読み・例文・類語

おんど‐の‐せと【音戸ノ瀬戸】

広島県南西部、広島湾口の倉橋島と呉市警固屋けごや町との間の水路潮流が激しい。平清盛の開削と伝える。昭和36年(1961)完成の音戸大橋が架かる。

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日本歴史地名大系 「音戸ノ瀬戸」の解説

音戸ノ瀬戸
おんどのせと

倉橋くらはし島と呉市の休山やすみやま半島南西端との間の水道で、長さ八〇〇メートル、幅は最狭部で七〇メートル。「芸藩通志」は次のように記している。

<資料は省略されています>

清盛の開削に関する確証はないが、平氏日宋貿易のためのみならず、厳島神社への崇敬から、厳島への内海航路を整備したことは間違いないし、この瀬戸が平家から厳島神社へ寄進された安摩あま庄に属していたことも考えあわせれば、平氏が航路整備上、なんらかの手を加えた可能性は否定できない。康応元年(一三八九)三月、足利義満の厳島参詣に随従してこの瀬戸を通った今川了俊は、「鹿苑院殿厳島詣記」に「おむどのせとゝいふは滝のごとくに潮はやく、せばき処なり。

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改訂新版 世界大百科事典 「音戸ノ瀬戸」の意味・わかりやすい解説

音戸ノ瀬戸 (おんどのせと)

広島県呉市警固屋(けごや)と倉橋島北部にあたる同市の旧音戸町の間にある水路。広島湾から東西に抜ける重要航路で,広島~松山航路の旅客船をはじめ,貨物船,漁船の往来が多い。最狭部の幅85m,水深4~10m。秒速2.5mを超す激しい潮流は,舟唄にも〈船頭かわいや音戸の瀬戸で一丈五尺の櫓がしわる〉とうたわれた。もと地峡であった所を,平清盛が本拠地福原大輪田泊(兵庫港)から厳島神社に至るために開削したものといわれる。島と本土とは小型渡し船で結ばれていたが,1961年瀬戸をまたぐ音戸大橋(全長172m)が架けられた。らせん型高架橋とループ式道路をとりいれた構造は世界的にも珍しく,吉川英治文学碑もある公園からの展望がよい。
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百科事典マイペディア 「音戸ノ瀬戸」の意味・わかりやすい解説

音戸ノ瀬戸【おんどのせと】

広島県呉市と瀬戸内海に浮かぶ倉橋島との間の水道。長さ800m,幅は最狭部で70m。平清盛日宋貿易厳島(いつくしま)神社参詣のために開削したとの伝承があるが,地質構造上は認められていない。しかし平氏は摂津(せっつ)福原から崇敬(すうけい)する厳島神社への航路を各所で整備しており,この地が平氏領安摩(あま)荘に属していたことなどから,平氏が航路の整備上なんらかの手を加えた可能性が考えられる。水道の潮流の速さは3ノットにも達するといわれ,1961年音戸大橋が架けられた。→福原遷都

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「音戸ノ瀬戸」の意味・わかりやすい解説

音戸ノ瀬戸
おんどのせと

広島県南西部、呉(くれ)市警固屋(けごや)と倉橋(くらはし)島との間にある水路。厳島参詣(いつくしまさんけい)のために、平清盛(きよもり)が開削したと伝えられ、工事を進めるため夕日を扇で招き返したという伝説がある。全長800メートル。幅員は狭く、潮流は激しく最大時には3ノットに達するといわれ、文字どおり「一丈五尺の櫓(ろ)がしなる」と歌われた海上交通の難所であった。1956年(昭和31)幅員を広げ、水深を深くする工事を行い、航行しやすくなった。1961年この水路上に全長172メートル、高さ23.5メートルの音戸大橋が完成した。両端の取り付け道路は螺旋(らせん)式になっている。倉橋島側の橋の付近には清盛塚がある。

[北川建次]

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